


私が南極大陸の地に上陸して、あれから16年経ったいまでも鮮明な夢を見ます。
まだまだ子供の21歳の私が初めての海外旅行に選んだのが南極大陸でした。
飛行機も乗った事もなかった私が、いきなり「南極に行きます」と言った時、家族も友人も同僚も笑って「じゃーね!行ってらっしゃ~い♪バイバ~イ♪」と笑って信じてくれませんでした(;^_^A
行くきっかけは初めての海外をどこへ行こうか考えていた時、祖母のところに届いていた旅雑誌に載っていた前年度の「南極旅行」の文字を見て「南極に行けるんだ!観測隊じゃなくても行けるんだ!」と、その場で旅行代理店に電話をした日が、なんと!その年の南極旅行のパンフレットが出来上がった日で、速達で送っていただき翌日、値段も見ずに申し込み者、第1号になりましたヾ(=^▽^=)ノ
南極を初めて知ったのは映画「南極物語」へ母に連れられて、近所の友達も連れて行ったのが南極と言う言葉を知った最初でした。
子供ながらに「南極へ行ってみたい」と強く思った事を覚えています。
この年は、とてもタイミングがよく「南極旅行10周年」の記念の年で、耐砕氷船「マルコポーロ号が南極への初出航」の年と重なりお値段も控えめの早期割引で88万円でした。
全てが初めてづくしの私にとって、南極大陸への旅行は、まさに冒険でした。
現実問題として資金どうするか?と考えた時に友達全員に電話をして「南極への資金を貯めるので今日から遊びません!」と連絡して、ローン以外の給料全額を南極旅行の資金として貯める事にしました(^O^)/
パスポートやスーツケースなど、いちから揃えなくてはならなかったので、旅行代理店の方に聞きながら揃えました。
カメラ本体、カメラ器材、フィルム、電池、ビデオ本体、ビデオ器材、テープ、バッテリーなどの荷物も多くなりました。
17日間(95年12月23日~96年1月8日)のお休みも、会社と交渉して取る許可がおりましたm(__)m
そして、南極大陸への出発の日、両親と兄夫婦が見送りに来てくれましたo(^∇^o)(o^∇^)o
母が添乗員さんに「本当に南極大陸へ行くんですか?」と出発日にも関わらず聞いて、添乗員さんから「本当に南極大陸へ行きますよ」との言葉に、やっと信じてくれました(;^_^A
南極までの日程は、日本(成田)→アメリカ(ロサンゼルス)→コロンビア(ボゴタ)→アルゼンチン(ブエノスアイレス)→(リオ・カジェゴス)→マゼラン海峡→南米最南端の街(ウッシュアイア)→ビーグル水道→ホーン岬→ドレーク海峡→南極半島→南シェトランド諸島→南極半島
と言う考えても想像がつかない日程でした。
ドラマに出てきた砕氷船「宗谷」出航の場面は涙なくしては見れませんでした。
私はウッシュアイアから耐砕氷船マルコポーロ号に乗船してビーグル水道を抜け、南米最南端ホーン岬を通り、いよいよ南極大陸へ向けて、大航海時代に「吠える60度」と恐れられた難所のドレーク海峡へ、常に風速数十メートル以上の強風と高波が荒れ狂う海峡を4万トンもある船が木の葉の様に揺れながらも1000キロを航海して南極半島が見えてきました。
南極が近づくにつれて想像を遥かに超えた巨大な氷山が次々と現われました。
南極海では、野性のクジラ・シャチ・・イルカなどなど見ることができました。
そしていよいよ南極大陸への上陸です。
私たちは外務省発行の「南極旅行者の手引き」のルールに従って、上陸しました。
私が見たのは、白一色の世界ではなく、温暖化の影響で岩が見えた南極と子育てシーズンのルッカリーを形勢したペンギンたちの集団でしたo(^∇^o)(o^∇^)o
紫外線はオゾンホールの関係で物凄く強く、感覚として皮膚が目の前でチリチリと焼けるのが分かりました(;^_^A
それでも、私にとっての南極大陸は想像を超えた無垢の大自然でしたヾ(=^▽^=)ノ
感動のあまり涙が止まらなくなり、感謝する気持ちで胸がいっぱいになりました゜+。(*′∇`)。+゜
この南極大陸の旅の経験で、私の人生観は大きく変わりました。
ドラマでは、これから航海が始まります。
どんな困難が待っているのか?楽しみにしています。
南極は神様の住む大陸とドラマで言っていましたが本当にそう思いました(*´∇`)
人の思いは、夢を叶える事だってできると、ドラマを見て思い私自身も子供の頃の夢を果たす事ができたのも「南極へ行きたい」と言う強い思いがあったからだと思います。
ドラマを見て、南極旅行の思い出がよみがえりました(*^_^*)