こちらのブログ

を読んでいて思い出した、遠い昔の記憶。


わたしが物心ついた頃、3歳くらい?


引っ越したばかりの新しい家。


毎朝、父が会社へ出掛けるときの声掛けは


『いってらっしゃい、早く帰ってきてね』




母から、そう言うんだよと教わって

セリフ的に丸ごと覚えて言っていた。


幼い子供から

たどたどしくそんなふうに言われるのは

さぞ可愛かったろう。



思い出したのは

「早く帰ってきてほしい」なんて

別に思っていなかった自分の感情。

教わったとおりに言っているだけだった。



そしてもう1つの場面。

同じ頃、父の会社の休日行事(運動会か何か)に家族で参加した記憶。

父が、同僚に私たち子供を紹介しながら

「朝いつも『はやく帰って来てね』と言われるんだ」と嬉しそうに話していた場面。





わたしの育った家庭の構図が

この記憶の中にある。 



わるい思い出ではないけど

複雑な気持ちになる。




家族の喜ぶことをしたい母。

父の喜びそうなことをしたい母。


このとき父も母も幸せだったのだろうし

母は、愛情ゆえの行動だっただろう。


あの言動をする父に懐きなさい、だなんて

無理があるのにね。


大人になってからも、母から

『もうすぐ父の日だから

子供達でお小遣い出し合って

◯◯をプレゼントすると良いよ』

とか助言され、断った記憶がある。


母は、そういう人。

子供をコントロールしてるとか利用してることに

全く無自覚だったろう。


私が、その変さに気付いたのも

ずっと後になってからだ。


(この辺りのことは

何周にもわたって恨みつらみを吐き出してきて

今はもう私の中で消化できているようだ。

ホッ。)








ひとの感情って何なんだろう…と思う。


ほかの誰かの意図で、つくられるようなもの?


案外、そんな側面もあるよね。






親が、子に教えたほうがいいことの一つが

『自分の機嫌は自分で取れるということ』

だと

つい数年前に何かで読んで

本当にその通りだと思った。



母は、この逆を

感情コントロールが苦手な父に対して

やり続けてしまったのだなと

腑に落ちた。

何度も言うけど、愛情ゆえに、ね。


父は

当時の“理想的な家族像”に沿うように

(母が求める家族像に沿うように)

必死に生きてきたのだろう。

全く自分には適性がない仕事をして無理し続けて。

無理した分のストレスは家族にぶつけ、

家族から機嫌を取ってもらいながら。




父は「自分の機嫌は自分で取れる」と

知らないままに生きてきた。


その人生は

とんでもなく不自由だろう。



そういう私も、

自分の機嫌をうまく取れるようになってきたのは

ここ数年のことだ。







人生は

単純ではないね


ひと1人だけ見ればシンプルであっても


人と人が、絡み合って生きているから

そりゃ

ややこしい事も起きる



ややこしいのが

人ってもの





でも

そのややこしさも含めて

人って愛おしい、

と思って生きたい



前より少し

その境地に近づいている気がする




今日みた空