卑弥呼の朝貢記録には、不自然な点があります。それは三国志帝紀には、親魏倭王の称号を与えた、景初三年の朝貢が記録されておらず、唯一正始四年の朝貢のみが記録され、王名も倭国女王俾卑弥呼となっている点です。王名の文字が東夷伝と違うだけでなく、その称号も東夷伝の倭王や倭女王ではなく、倭国王となっているのです。卑弥呼は親魏倭王の称号を得たわけですから、倭王と呼ばれるべきです。

東夷伝において倭王以外の称号は、詔によって親魏倭王とされる前の記述と、倭女王が狗奴国男王との対句的表現の中で出てくるだけであり、しかもここは素より不和となっていて、過去の話題になっているのです。卑弥呼の称号には、かなり気を配っている様子が分かります。つまり帝紀は、景初三年の朝貢やその結果としての、正始元年の応答使を全く無視しているようなのです。

満田剛氏によると、三国志帝紀の典拠は、魏略と王沈魏書だろうとされます。しかし魏略は唐の劉知幾により、記録が明帝で止まるとされているところから、その帝紀は斉帝以降に及んでいないことが考えられています。卑弥呼の朝貢時期にあたる斉帝紀については、同じく満田氏によれば王沈魏書を典拠としているか、陳寿が魏の政府記録から独自に書いたと考えられるそうです。王沈魏書は、魏の官選史書として編纂されたもので、やはり魏の政府記録をもとにしているはずです。このことから、東夷伝の卑弥呼の朝貢記録は、魏の政府記録とは別の記録に基づくものであると考えられます。


この記録が何であったかを調べるために、魏志倭人伝の後半部分の特徴的な言い回しに関して、考察してみます。それは「其〇年」という記述です。このような記述は、高句麗伝、濊伝、倭人伝に見られます。下記はこのような表記について、各正史での出現頻度を見たものです。

史記秦始皇本紀:4例
史記匈奴列伝:1例
史記呂不韋列伝:1例
史記高祖功臣侯者年表:10例
史記十二諸侯年表:1例
漢書百官公卿表1例
漢書天文志:12例
漢書五行志:1例
漢書匈奴列伝:1例
漢書嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈伝:1例
後漢書志律暦中:3例
後漢書志天文中:6例
後漢書志天文下:2例
後漢書志五行一:1例
三国志東夷伝:5例
晋書列伝二十一:1例
晋書列伝二十七:1例
晋書志天文中:3例
晋書志天文下:1例
晋書志十九五行下:1例
魏書列伝四十:1例
魏書列伝八十三:1例
魏書列伝六十六:1例
魏書天象志一之四:2例
北史列伝三十四:1例
隋書列伝七:2例
隋書志十四天文上:1例
隋書志十六天文下:13例
旧唐書本紀十:1例
旧唐書列伝百四:1例
旧唐書列伝五十五:1例
旧唐書志二十三:1例
宋史列伝二百二十:1例
宋史志七十八:1例
宋史本紀三十四:1例
新唐書志十七上暦:1例
明史列伝百二十七:1例
元史本記十三:1例


各史書には多くの巻がありますから、上述しかないということは、かなり珍しいということです。しかも1例しかないものがほとんどです。こう見ていくと、三国志東夷伝の5例というのは、本当に珍しいケースであると分かります。

三国志東夷伝には、他に用いられなかった史料が用いられていることが分かります。三国志東夷伝の場合には、各年次別の記述が列記されているものですから、二例以上あるものを見ていくと、史記秦始皇本紀4例、史記高祖功臣侯者年表10例、三国志東夷伝5例、隋書列伝七2例を除くと、漢書天文志12例、後漢書志律暦中3例、後漢書志天文中6例、後漢書志天文下2例、晋書志天文中3例、魏書天象志一之四2例、隋書志天文下13例となっていて、天文暦関係が多いことが分かります。

天文関係以外について検討すると、始皇本紀の場合は最後の、始皇帝に先立つ先祖の一覧を書いている部分に集中しています。また史記高祖功臣侯者年表にも多いのですが、分布に著しい偏りがあることが分かります。隋書列伝七の場合は、「是許其一年,不許其元年也」という用例であり、今問題にしている用例とは異なるものと言えます。そうなると多数を占める、暦や天文に関する書物の原史料になるような記録が、三国志東夷伝に関係しそうです。

例えば漢書天文志をみると、下記のような記述があります。

孝文後二年正月壬寅,天欃夕出西南。占曰:「為兵喪亂。」其六年 十一月,匈奴入上郡、雲中,漢起三軍以衞京師。其四月乙巳,水、木、火三合於東井。占曰:「外內有兵與喪,改立王公。東井,秦也。」八月,天狗下梁壄,是歲誅反者周殷長安市。其七年六月,文帝崩。

占曰で占いが立てられ、それに続き関連する出来事が記録されています。三国志東夷伝の記録と見比べると、占いに引き続く記述を引き抜いて書き写したようにも見えます。上記文から天文占い関連を抜くと下記のようになります。

其六年 十一月,匈奴入上郡、雲中,漢起三軍以衞京師。是歲誅反者周殷長安市。其七年六月,文帝崩。

髙橋(前原)あやの氏の下記論文では、このような天文志の原史料を天文占書と呼んでおられます。

https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/49/kiyo4904.pdf

論文によると、各時代の天文占書は、ほとんど現存するものがないようです。
下記はその一つ、大唐開元占書のデジタルアーカイブです。

https://www.iiif.ku-orcas.kansai-u.ac.jp/books/202243427-0#?page=1

魏の時代の天文関係の原史料はおろか、三国志は志を欠いているため、天文志ももちろん存在せず、確認はできません。しかし天文に関する占いと、その占いの結果に関連する出来事を書いた書物が、原史料である可能性があるように思います。三国志東夷伝の高句麗伝、濊伝、倭伝にあるこの記録は、年を指定してその年の間に起こったことを記録しているもので、ある年の占いの結果に対応する出来事として書かれていたという可能性はあるでしょう。

これが本当に天文占書からの抜粋であるかどうかは、さらに検討の余地があるでしょうが、王沈の魏書など政府系の史料とは別系統の史料であることは、かなり確度が高いと思います。ここで疑問は、帝紀が景初三年の卑弥呼への親魏倭王の称号を任じたことを書かなかったことです。またなぜ陳寿は卑弥呼の朝貢に関する記述を、政府系史料をもとにしなかったのかも疑問です。

もし天文占書を原史料にしたとしたら、大変異例なことでしょう。この謎を解くために、次回もう少し東夷伝の原史料に関して考察してみたいと思います。

 

追記
其〇年の表記は、前漢紀に全部で18例、あることが分かりました。内訳は序に2例、平帝紀の末尾の王莽時代に16例となり、やはりそうとうのばらつきがあります。前漢紀は漢書の内容を略したもので、序に二例、平帝紀の末尾も同じくほぼ漢書王莽伝の略となっていました。ここになぜ其〇年の表記があるのかについては、どうも王莽の立てた元号を使いたくなかったというくらいしか理由が見当たりません。孺子嬰を傀儡の皇太子に立てた期間については、居攝元年の記述はありますが、始建国以降の十五年の元号は書かれず、其二年から其十五年までが列記されています。どうもこの用法は、事務的機械的に年次を列記してゆくときに使われるもののようです。序文にも入っていることから、編者の荀悦の書き癖もあるのかもしれません。

ただ史書では珍しいことは間違いなく、三国志東夷伝の外交記事には、年次別に時系列で書かれた原史料が、かなりそのまま利用されていることは確かでしょう。そして倭王卑弥呼の名が、政府系史料が入っている蓋然性が高い帝紀では、倭国女王俾弥呼になっていることから、従来考えられてきたように単純に大鴻臚の史料がもとになっていると判断するのは問題があると思われます。