魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏への最初の朝貢で、親魏倭王の称号と金印を授けられたとします。その朝貢年について、現存する史料には二通りの記載があります。

〇景初二年(西暦238年)説

魏志:(現存は南宋刊本)
景初二年六月倭女王遣大夫

冊府元亀:(現存は南宋刊本)
明帝景初二年六月倭女王遣大夫

文献通考:(十四世紀)
魏景初二年既平公孫氏倭女王遣大夫

〇景初三年(西暦239年)説

梁書:(現存は南宋刊本)
景初三年公孫淵誅後卑弥呼始遣使

太平御覧所引魏志:(現存は南宋刊本)
景初三年公孫淵死倭女王遣大夫

通志:(現存は南宋刊本)
景初三年公孫淵誅後卑弥呼始遣其大夫

翰苑:(字体から九世紀頃の写本とされる。)
景初三年倭女王遣大夫

日本書紀:(十四世紀熱田本巻九)
明帝景初三年六月倭女王遣大夫

卑弥呼が親魏倭王の称号を受けた年については、有力な景初三年説に対して、現存三国志版本をもとにした景初二年説があります。中華民国の盧弼が1936年に書いた三国志集解という三国志に対する詳細な註解では、魏志倭人伝の景初二年について、景初二年の遼東の情勢と、詔書が景初二年にすでに発せられているにもかかわらず、倭国に向かった魏の使いが、二年後の正始元年に帯方に至るのはあり得ないので、景初三年が正しいとしています。多くはこの説に従い、景初二年六月では、まだ公孫淵との戦いは終わっておらず、卑弥呼朝貢は景初三年六月でよいとしていました。

これに対して三国志東夷の書稱に、景初中に潜に軍を海に浮ばせ、楽浪と帯方を収めたとの記述があるところから、景初二年八月の公孫淵誅殺より前に、楽浪と帯方は魏に抑えられており、景初二年六月中に卑弥呼の使者が帯方に至ることも可能であるとの説が出てきました。この場合そもそも卑弥呼は公孫氏に対して使者を送ったのが、魏が帯方を支配したので、朝貢先を変えたのだという説も付随して出てきました。

近年ではあたかも景初二年の校勘には、決め手がないような論が多くあります。しかし三国志集解では、このような論じ方になるのは致し方ないのです。盧弼は彼が日本留学を終えた1917年に発見された翰苑残巻も、おそらく日本書紀の注も知らなかったのでしょう。

史料的にはこの部分の記述で、現存するもっとも古いものと思われるのは、九世紀写本とも言われる翰苑に引く魏略の逸文で、景初三年になっています。続いて梁書や魏志の南宋刊本で、十二世紀となります。梁書は景初三年、三国志は景初二年となっています。

ということで現存するもっとも古い記述を取るという漢籍の原則では、三年が有力となります。さらに日本書紀に引く魏志において、景初三年を神功三十九年己未の年に註しているのが決め手となります。景初三年が己未の年ですから、二運三運引き上げても基本的に干支を保っている神功紀の性格から、註された時点で景初三年であったと思われます。

この註は原註でないとの意見もありますが、わざわざ本文に「卅九年、是年也太歲己未。」のような条文を立ててあるところからして、原註と見なせます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544344/22

上に添付したのは卜部本系統の十七世紀刊本で、神功紀の最も古いものでも十四世紀まで下りますが、これが原註であるとすると、日本書紀編纂時に編者の見た魏志には景初三年とあったことになります。ちなみに六十六年条には、晋の起居中からの引用がありますが、宋史芸文には晋の起居中の名は見えず、唐の時代の間に滅んでいると思われますので、起居中というマイナーな書であることを合わせて、これは遣唐使持ち帰りの書物とみてよいと思います。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544344/28

九世紀翰苑の存在や、中国にも魏志刊本同時期の通志が、景初三年と伝えることを見ると、景初三年が正しいといえるでしょう。
ちなみに三年と書かれた書と、二年と書かれた書を見比べてみると魏志および梁書刊本以降の三年説には公孫淵が登場するものが多く、梁書の影響があることは疑えませんが、もっと古い日本書紀や翰苑はその影響を受けているものとは思えません。

三国志の文面が景初二年になった原因の一つは、唐代に現れた通典のような類書に「魏明帝景初二年,司馬宣王之平公孫氏也,倭女王始遣大夫詣京都貢献」のように、景初二年がどちらにかかっているのか分からない文面が現れたことが影響しているのでしょう。

卑弥呼の朝貢が景初三年であったことの別の証拠が、晋書にあります。晋書帝紀では正始元年(西暦240年)正月に、倭国の朝貢があったことになっています。これに関して最も一般的な理解は、景初の朝貢使がそのまま洛陽に留まって、正始元年(西暦240年)正月の改元に際してもう一度朝貢したというもののようです。

邪馬台国論争に詳しい方はよくご存じでしょうが、魏の景初年間と正始年間では、使用された暦の一年がずれています。魏では立春正月の夏正暦をずっと使用していました。これは前漢武帝の太初元年から使われている方法で、途中新の時代に景初暦同様ひと月早い殷正暦になったのを除いて、後漢になっても夏正暦を使用していました。それを明帝が強引に殷正暦を用いていたのです。

夏正暦は現在の旧暦と同じ月回りの暦で、一年十二か月の月に、十二支を割り当てていったとき、寅の月を正月として、丑の月を十二月とするものであったようです。ところが明帝の景初年間では、ひと月早い丑の月を正月とし、子の月を十二月とする殷正暦を使用し、これを景初暦と呼ぶそうです。景初三年正月明帝が崩御し、即位した曹芳の治世となって、翌年正月に正始に改元することになっていました。しかし直前の十二月になって、暦をもとに戻そうとしたのです。つまり景初三年十二月は子の月ですが、そのあとの丑の月を後十二月として、次の寅の月を正始元年の正月としたのです。景初三年は都合十三か月となりました。景初の倭国の使者がとどまって正始元年に際朝貢したとすると、少なくとも三か月は滞在したことになります。

さて景初三年の後十二月ですが、後十二月などという表記は正史を見回しても他に出てきません。非常に珍しい表記であると思われます。漢籍に詳しい人に聞くと、太陰暦と太陽の動きを調節するために立てられる、閏月の出来事に対しても、例えば閏十二月を単に十二月と表記した例があるそうで、後十二月などと書かずに、単に十二月と書いた可能性も十分に考えうるそうです。卑弥呼の最初の遣使は、東夷伝には景初三年十二月とありますが、可能性としてはこれは景初三年の後十二月であったかもしれないのです。

実は西晋王朝の開始された、泰始元年(西暦265年)に再び改暦があり、泰始暦という暦が使われるようになりますが、これは内実景初暦と同じで殷正暦です。すなはち泰始元年(西暦265年)正月は、夏正暦ではその前年の咸熙二年の十二月ということです。

日本書紀神功紀に引用された晋の起居注には、泰初二年(西暦266年)十月に倭の女王が朝貢してきたとありますが、晋書帝紀には泰始二年(西暦266年)十一月になっています。このことから、起居注では使い慣れた夏正暦をそのまま使用し、正史ではそれを殷正暦に改めていた可能性があります。このことから、晋書帝紀の正始元年春正月条にある、倭の朝貢記録が殷正暦に基づいて記述されていたとすると、これは景初三年十二月のこととなります。つまり、朝貢が続けて二度あったのではなく、同じ出来事が異なる暦法で記録されていたと言うことです。

わざわざ暦法を変えてまで、正始元年のこととしたのは、いつの時代から晋の歴史として記述するかを議論する、晋書限断論という議論が当時あって、有力説ではないのですがその一論として、正始元年以降とする説が唱えられていたことがあると思われます。つまり、卑弥呼の朝貢を司馬懿の功績にしたいためであると思われます。

 

追記:2024/06/21

文中で、起居中などの引用史書を、遣唐使持ち帰りのものとしましたが、可能性としては華林遍略などの類書と呼ばれる書物からの叉引きの可能性があります。日本書紀は漢籍による潤色を受けていることはよく知られていますが、その本は本来の史書などではなく、類書の文面を参考にしたものとの説が有力になっています。このような引用文の場合、必ずしも本来の書物からでなく、類書の引用の又引きでも、類書でなくそのもとの書物名を書くことがあるようです。つまり何々に曰くはそのまま信じられないことがあります。引用された起居中および三国志は、年号の前にその年号を制定した皇帝の名前が出ていますが、これはどうも六朝のような後世的な印象があります。