最近あげた四本の文章は、日本書紀の紀年論の範疇に属するようです。
 

 

 

 

 

 

 

 

紀年論というのは、日本書紀に紀年を割り振られた出来事と、宋書や三国史記等の外国史書に記録された事との間に、年代的不整合があることや、天皇の年齢や在位年が尋常でなく長いことから、天皇の在位などの暦年を明らかにしようと論ずるものです。
一般に現在の日本書紀紀年に、古事記の崩年干支や両書の宝算などの情報を合わせて、宋書や三国史記などの海外史料も併せて、本来の紀年を明らかにするという方法で論じられているようです。
その奔りはすでに江戸時代にあるようですが、著名な成果として神功紀や応神紀の紀年が、干支の二運引き上げられているというものがあります。
これを端緒に、原日本書紀を仮定するもの、日本書紀と古事記の崩年干支の関係について仮定するものなど、何らかの仮定を用いて、本来の紀年に迫ろうとするのが一般的のようです。

私の論を紀年論としてとらえた時に、何が最も重要な仮定になっているかを考えると、それは日本書紀原史料の一部となった、識字渡来漢人の残した史料を、編纂時に後継氏族が提出したものに、かなりの癖と偏りがあったとしていることです。
この仮定は稲荷山鉄剣銘文などから推定できるものですが、最初の論稿である継体欽明の謎で、日本書紀の文面を分析した結果も根拠としています。
つまり五世紀から六世紀中ごろまでの、日本書紀でいえば神功紀から欽明紀あたりまでに該当する、氏族提出の史料は、各氏族の祖先と八世紀段階に天皇と認識されていた存在との、一対一の貢献の記録として、歴史的背景を欠いた記録であったというものです。
自分の祖先が、日本書紀編纂段階で天皇と認識されていた存在に、どのように貢献したかのみを記したものだったと考えるのです。

現在紀記に見える天皇像は、おそらく七世紀後半には確立し、細かな系図などは異伝もあったでしょうが、即位した天皇名や即位順は確立していたでしょう。
ただし風土記などに見える異伝を見れば、それが実際に即位した天皇だけを記述したかどうかは分からないと思います。
実際には即位していない存在を天皇として扱ったり、即位した人物を天皇としなかったり、七世紀後半の有力氏族の力関係を反映したものだったのではないでしょうか。

古事記については、私見では後宮などに伝えられてきた、日の御子の継承を主題とした、歴史書というよりも口承文学的な文書をもとにしたものと思います。
そこには本来その出来事がいつ起こったものであるか、年次を記録する意識はありません。
天皇の即位自体が、事績の時代を示すものとなっています。
古事記には天皇の崩年干支が記載されていますが、これは本文ではなく細注で網羅的でもないので、体系的史料をもとにしたものではないようです。
上記論考を考察した際に、これらの干支は王位継承に関わる一族が、基本的には口承で残した、説話的な話をもとにしたものではないかと推定しました。
おそらく古事記に註した人物が、そこから王の没年と見なせる話を見つけ出して、関連する干支を記録したものではないかと思います。

史書としての日本書紀は、中国史書のような編年体で、年次を明らかにする意図で書かれています。
伝承されてきた、天皇の物語のあらすじは古事記と一致していますので、これを新たに編年体で著わすことが、目標の一つであったと思われます。
ここで年次を表す史料として活用されたのが、氏族から集められた祖先の記録だったのでしょう。
そこには五世紀以来の渡来系漢人の記した、出来事の干支や天皇即位年年次などの情報があり、これをもとに紀年を立てていったと思います。
おそらく各天皇の記録を個別に集め、年次を順に追えるように記事を配置し、各天皇の一代記のようなものを作成していった後、それを合わせて全体を編年する作業を行ったのでしょう。

しかしここで大問題が発生したのです。
氏族の提出した史料は、あくまで八世紀初頭段階で天皇と認められていた存在に、祖先がいかに貢献したかという観点だけで書かれていて、その時貢献した対象が天皇に即位していたかどうかなどには触れていなかったのではないかと思うのです。
後継した段階で有力皇子であり、別に天皇がいてもそれはわざわざ記録されることがなく、後継氏族も天皇に対する奉仕として報告したのであろうと思います。
稲荷山点検銘文であれば、獲加多支鹵大王とあるのでその時点で最高位にあったと認めることはできますが、仮に獲加多支鹵王とあったとしても、実は即位していなかったなどと伝えなかったであろうということです。
八世紀段階の氏族にとって、そもそも原史料に明記されてもおらず、確認を取るすべもなかったでしょうから、天皇と如何に関わったかということが重要であった彼らにしてみれば、すべて天皇の事績として伝えるのが当然だったからです。

この結果編纂された天皇の一代記を、全体として編年していく際に、いたるところで天皇在位が重なってしまったのです。
記紀編纂者を含む、八世紀朝廷人にとっては、これは考えられないことであったと思われます。
そのため一度編年された各天皇紀の記事の年次を、修正する必要が出てきたのでしょう。
私見では概ね政府史料と言えるものの萌芽ができるのが、推古朝のあたりであったと思いますので、概ね編年された原史料を得ることのできたのが、敏達紀あたりからであったでしょう。
そこから遡り、記事を繰り替え繰り替え、天皇の並行在位を解消していったのでしょう。
その時に頼りにされたのが、七世紀後半に百済からやってきた、亡命貴族の著わした百済記、百済新選、百済本記などの、一応は編年体で百済と倭国の交流を記録した書物であったと思います。

国内史料の干支や即位年などは、そのままでは天皇の並行在位を導いてしまうので、改変されざるを得ず、この結果欽明紀以前の紀年は、矛盾と謎に満ちたものになってしまったと思われます。
「雄略紀分析」では、再編纂前の記事の位置をシミュレートすると、雄略紀の二回の呉への使者は、倭王世子興と倭王武の四回の朝貢に該当することが明らかになりました。
倭国の一回の朝貢が、劉宋の特異な朝貢儀礼のために、二回の連続朝貢として記録されています。
雄略紀に倭王世子興と倭王武の朝貢が含まれるのは、これを報告した東漢氏の記録が、雄略即位前の記録を雄略時代のこととして伝えていたためです。

雄略紀までは日本書紀区分論で、α群と呼ばれるグループに入りますが、安康紀以前については雄略紀以下とは異なる対応が取られました。
天皇の在位が並行した場合、それを解消するために、その記事の含干支を、干支の一運六十年ずつずらしていったのです。
そのため仁徳紀は六十年繰り上がり、応神紀は二運百二十年繰り上がりました。
神功紀については、八世紀段階で海外に活躍した存在が、神功しか知られていなかったため、複数の女王的存在の記録が流れ込み、二運引き上げた記事と三運引き上げた記事が混在することになりました。

過去に倉西裕子氏が、日本書紀紀年の多列構造を提唱されましたが、その実態は紀年の材料になった史料と、その取扱の混乱であったわけです。
また継体欽明朝の、二朝並立論や辛亥の変説も、同じく史料の取り扱いのもたらした混乱を、歴史としてみたものであると思います。

また渡来百済系漢人による文字記録が始まったのが、五世紀頃であったため、応神仁徳もそもそも口承伝承中で出来上がった祖先像であり、複数の王的存在の伝承が混ざっていると思われます。
私見では記の履中以降、敏達以前の天皇の内、実在し天皇に即位した人物をモデルとしたのは下記のようになります。

允恭
安康?
雄略
清寧?
顕宗
仁賢
継体
欽明

安康と清寧即位には疑問もありますが、モデルになった人物は実在したでしょう。
このほか吉備系の首長の支持を受けた、磐城王が即位したはずですが、雄略朝との政争のため記録されていません。
以下は実在の人物をモデルとしていますが、天皇即位はなかったと考えます。

履中
反正
武烈

また倭の五王の内、讃は応神のモデルになった人物の内一人、珍は仁徳のモデルになった人物の内一人、済は記録に残っていませんが允恭、興は安康、武は雄略でよいと思います。