1.徐福伝承のはじまり

徐福伝説は日本古代史ファンの間で人気のある伝説です。
日中韓の三国に亘って、多くの伝説が残り、多数の書籍が発行されています。
ここでは伝承の原点に遡って、徐福伝承を検証し、現在の様な伝承が生まれてきた経過を見たいと思います。

徐福伝説は漢籍の世界に幾度も登場し、正史だけでも、史記、漢書、三国志、後漢書に記載があります。
その内容の骨格は、徐福が蓬莱山に仙薬を求めると秦の始皇帝を欺き、男女数千名を連れて海に入り、平原と広い沢を得てそこの王となり戻らなかったというものです。
この伝説のもっとも古い記録は、司馬遷の史記にあります。

史記淮南衡山列傳より
又使徐福入海求神異物,還為偽辭曰:『臣見海中大神,言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄,得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山,見芝成宮闕,有使者銅色而龍形,光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事,即得之矣。」』秦皇帝大說,遣振男女三千人,資之五穀種種百工而行。 徐福得平原廣澤,止王不來。於是百姓悲痛相思,欲為亂者十家而六。


平凡社史記列伝、野口定男訳
道士の徐福に命じて海上に浮かんで神異のものを求めさせました。徐福は帰還していつわって申しました。『臣は海中の大神にお目にかかりましたが、大神は、汝は西皇の使者かと問われましたので、そうですと答えますと、汝はなにを求めているのかとのおおせでしたので、願わくは延年長寿の薬をいただきたいものですと答えました。すると大神は、汝がつかえている秦王の礼物が薄いから、その薬をみせてはやるが取ってはならないと申されて、臣をしたがえて東南におもむき、蓬莱山にいたり、芝園にかこまれた宮闕を参観なさいました。そこには使者がおりました。銅色で竜形で、全身から発する光は天上までも照らしておりました。かくて、臣は再拝して、どのような物を献上したらよろしいでしょうかとたずねますと、海神は、良家の善童男女ともろもろの工作品とを献じたら、薬を得ることができるだろうと申されました』。始皇帝は大いに悦んで、良家の善童男女三千人を派遣することとし、これに五穀の種をもたせ、もろもろの工人をつけて出発させました。徐福は平原と広沢とを手に入れ、その地にとどまって王となり、ふたたび帰ってはきませんでした。かくて、人民はたがいに悲しみあい、反乱をおこそうとのぞむものが十軒のうち六軒もありました。

この話は元朔五年(前124年)に淮南王劉安が臣下の伍被に、漢の武帝に対する謀反の相談を持ち掛けた際に、伍被がそれを諫めた話の中に出てきます。
最後の反乱をおこそうとのぞむものが十軒のうち六軒もあったというのは、徐福に対する扱いなど秦の始皇帝の政策に対して、民衆の不満が溜まっていて、それが秦の滅亡に繋がったが、今の漢王朝はそのような状態にはないので、反乱は成功しないとさとしているのです。
後の徐福伝説の骨格が出来上がっており、現存史料的にはこれが源流と考えられますが、既に秦の始皇帝の時代から80年以上が経過しており、そのまま史実と認められるかどうか考慮が必要です。

まず史記の情報源は何かを考えてみるべきでしょう。
謀反の相談の内容ですから、当事者の二人以外には知り得ない情報です。
藤田勝久氏などの史記研究家によると、史記の原史料となったのは、春秋や秦記などの先行文献(1)(2)や、奏言や書信などの文字化されたものが中心、多くは漢代までに編集の進んだ、まとまった書物(3)であるとされます。
この時代前漢の朝廷は、文献の収集を行っており、司馬遷の就いた太史公は史書編纂のため、それらを読むことが出来る地位でした。
司馬遷は七回も長旅に出ており、各地の実情を見てまわっていますが、その際に得た情報は本文ではなく、多く「太史公曰」以下の贊と呼ばれる部分に記載されているとされます。(1)(2)(3)
ときにはこの贊の内容が本文と食い違い、刺客列伝の場合などでは本文を訂正していることすらあります。(1)
またこの刺客列伝の贊の内容からの推定では、年代的に司馬遷の父司馬談でなければつじつまの合わない点があり、史記の作成は司馬談から始まっていたことが分かるとのことです。(1)
史記の編纂は司馬遷が、宮刑を受けたことが大きな動機とされていますが、実際にはすでに父の代に原型ができていたのでしょう。
司馬遷の二十歳の時の最初の旅は、秦の始皇帝の最後の巡遊の経路にそっており、見聞は本文に反映されなくとも、既に史書編纂を意識しており、史料撰述には影響を与えたと思われます。(1)(2)

淮南衡山列傳について考えると、このような謀反の打ち合わせの内容が、そう簡単に公になるとは思えません。
伍被と淮南王劉安のみが知る情報が表に出るとしたら、淮南王劉安は捕まる前に自決してしまいますから、自白した伍被が自分の罪を軽くするため、奏言または書信において訴えたとしか考えられません。
最終的にどういう経緯を経て史記に取り込まれたかはわかりませんが、徐福伝説の情報源は伍被の供述ということになります。
伍被は最後には処刑されてしまいますが、武帝は伍被の言辞には漢の美点を述べたものが多いため、一度は助命しようとしたということです。

史記淮南衡山列傳より
天子以伍被雅辭多引漢之美,欲勿誅。廷尉湯曰:「被首為王畫反謀,被罪無赦。」遂誅被。

平凡社史記列伝、野口定男訳
帝は、伍被の平素の言辞が多く漢の美点をのべているので、誅罰を加えないでおこうとしたが、廷尉湯が、「被が首謀者として謀反を画策したのです。被の罪は赦すことはできません」と主張したので、ついに被を誅殺した。

淮南衡山列傳の伍被の文言を見ると、謀反の首謀者の臣下とは思えない程に、漢朝に対する美辞麗句が並べられていることが分かります。
史記が如何に漢代の書として、漢朝をたたえるべきであったとしても、如何にも不自然で、原史料に遡るものと考えられます。
淮南王劉安といえば、淮南子の作者として知られていて、一説によれば伍被も関与したとされます。
朱新林氏によれば、淮南子は方術の書では無いものの、それに関する記述が多く見られることで知られているといいます。(4)
淮南王も伍被も、方術やそれを操る方士に関心があり、方士徐福の逸話が現れたのもその影響でしょう。
しかしながら一つ確実に言えそうなことは、徐福伝説が既に巷間に広く流布していたであろうことで、そうでなければ第三者に自分の罪の軽減を願う供述に現れるはずはありません。

特に私的に関心のあるのは、伍被の諫言全体のバランスからすると、徐福の偽りの言に対する記述が非常に多いことです。
伍被の諫言では、秦の悪政の三つの例が挙げられていて、一つは蒙恬に長城をつくらせた事、二つめが徐福、三つめが尉佗に百越を攻めさせた話です。
それぞれ45字、156字、64字で徐福の例だけが長いのです。
その徐福の例のうち101字が徐福の述べた偽りの言です。
つまり偽りの言の分だけ徐福の例が長いのです。
諫言の為には徐福の偽りの言の中身など関係ないはずで、どうもおかしなバランスです。

しかし淮南衡山列傳全体の伍被の言を見てゆくと、決して違和感がありません。
それはおそらく伍被の言が、漢朝に対する美辞麗句に満ちていて、その中では徐福の偽りの言が浮いていないということでしょう。
つまりこの徐福の偽りの言は、ある種の文飾として書かれていると考えられるのです。
漢王朝は秦を倒して成立した王朝ですから、その正当性をたたえるには、倒れた秦の悪政を強調する必要があります。
伍被が徐福の偽りの言をこれほど長々と供述したのは、方士の虚言に対する批判の意を持たせるとともに、それを信じた秦の始皇帝の愚かさを強調するためではないでしょうか。

史記の徐福伝説は、伍被が自らの罪を軽減するための、漢王朝美化の文飾にまみれていると考えられます。
現在に伝わる徐福伝承では、ここにある徐福の述べた偽りの言の詳述はなく、連れ去った人びとは全て童男女となっています。
ところがここでは振男女となっていて、これは徐福の述べた偽りの言の内容にある、「令名男子若振女」に合わせたものと思われます。
つまりこの時代に広まっていた伝承を改変しているのでしょう。
特に諫言の為の例として徐福の次にあげた、尉佗が百越を攻めた話では、その地にとどまって戻らなかった上に、始皇帝を騙して多くの女性を送らせた話になっており、徐福伝説と良い対比になっているのです。
すなはち徐福伝説の最後の「徐福得平原廣澤,止王不來」は、三例めの、史実と認められている「尉佗知中國勞極,止王不來」との対句的な表現であり、その当時の伝承をそのまま書いたものではない可能性があるのです。

参照文献
(1)司馬遷とその時代 藤田勝久
(2)司馬遷の旅 藤田勝久
(3)解剖される『史記』柴田昇(記戦国列伝の研究 藤田勝久 書評)
(4)方術文献としての『淮南子』の価値について 朱新林

その他参考とした文献
秦の始皇帝 鶴間和幸
『史記』屈原列伝の史料的性格について 大澤直人
史記述春秋経伝小考 吉本道雅
『史記』における『春秋』の継承 渡邉義浩
<批評・紹介>藤田勝久著「史記戰國史料の研究」吉本道雅(書評)