下記論稿に基づいて、韓伝の国名について論じます。
国名でみる三韓の地域性について
この区分の国は下記のようになります。

監奚卑離
古蒲
致利鞠
冉路
兒林
駟盧
内卑離
感奚


この中で兒林は下記論稿で位置を議論し、全羅北道任実郡と推定しました。
爾林
A群の断点がどこか判断するうえで、兒林の比定地が、基本的にはこの7分の4区分より南にあるはずの、7分の5区分のいくつかの国々よりも南にあることが気になります。
つまり兒林はどちらかの群の最後にあると思われますが、7分の4区分内の順番から見て、B群の終わりになると思われます。
するとこの区分は、今まで見てきた中で7分の5区分以外が該当した、A1を断点とするパターンであると思われます。

A群
藍奚卑離
駟盧
内卑離
感奚


B群
古蒲
致利鞠
冉路
兒林


その前の冉路は、秋風嶺の向こう側、弁辰辰韓3分の2区分の、戸路甘路につながる国であるので、冉路は秋風嶺の近くであると考えられます。
国名でみる三韓の地域性について・6.弁辰辰韓の国名区画を調べる
問題はその前の致利鞠で、有力な説に三国史記の知六、現在の忠清南道瑞山市地谷面があります。
しかし続く冉路との関りで、致利鞠はあまりにも離れています。
そこで別の候補地を探すと、三国史記の珍悪山、現在の忠清南道扶余郡石城面がみつかります。
三国志の卑離が、三国史記の夫里に当たることからすると、母音のiとuの交代の可能性があり、致利鞠について次の推定ができます。

致利鞠/tiliguk/->/tuluguk/

これは珍悪の新羅読み/turak/に近似すると考えます。

致利鞠の前の古蒲は、B群の始まりになります。
読みは/kobo/のようになりますが、忠清南道扶余郡石城面の近くで有力な候補は、三国史記の熊津、現在の忠清南道公州郡公州邑です。
ここは475年南遷した百済の都があったところで、中国史書の北史百済列伝に都曰居拔城亦曰固麻城とあります。
すなはち当時の中国人には、居拔/kyobat/のように聞こえたことがわかります。

 

冉路の候補は、三国史記の難珍阿、現在の全羅北道鎮安郡鎮安面があげられます。
秋風嶺からは離れるますが、冉路/nenlo/と難珍阿/nantula/にはある程度の近似があります。
これでB群は完成しました。

A群に関してはあまり有力な比定地がありません。
まずどういう領域になるのかを抑えたいのですが、対応するB群は非常に南北に伸びており参考になりません。
そこでまず北の7分の3区分の比定を行いたいと思います。
対象国は下記になります。

古爰
莫盧
卑離
占卑離
臣釁
支侵
狗盧
卑彌


ここにみえる地名のひとつ支侵は、日本書紀応神紀八年条にそのものずばりの地名が現れます。
しかしこの記事に関しては何らかの混乱があると思われます。
東韓と東道
他に三国史記に掲載された、總章二年(669年)の唐の熊津都督府下にまとめられた7州の地名に支潯州が見えます。
支潯州には九県が属しますが、現在地の不明なものが多く、分かっているものについては下記のようになります。

己汶県:忠清南道礼山郡
子来県:忠清南道唐津郡
古魯県:忠清南道礼山郡
平夷県:忠清南道瑞山郡

いずれも忠清南道北部にあることから、支侵は忠清南道北部とみてよいでしょう。

この地域で九県に及ぶ地域の中心地として、地名の類似も併せて考えると、三国史記の結已郡、現在の忠清南道洪城郡結城面が候補にあがります。
結已/kitsi/と/支侵/kisim/の類似があります。

この近くで比定できそうな地名が三国史記にあります。

庇仁県、本百済比衆県。景徳王改名:現在の地名は忠清南道舒川郡庇仁面

これは、熊津都督府一十三県の内の賓汶県、本比勿に対応するとされています。
賓汶と比勿で、汶/mon/と勿/mot/が通音になるのは、nとtが類似音であるからだと思われます。
三国志の卑離が三国史記で夫里となるように、iとuの通音も認められます。
景徳王改名後の庇仁/pini/も参考にすると、卑彌との類似性が現れます。
庇仁県は忠清南道の南端に近く、支侵狗盧卑彌は、忠清南道を北から南に連なっていると思われます。

間に挟まれた狗盧の候補は、三国史記の古良夫里県、現在の忠清南道青陽郡青陽面です。
古良夫里の夫里は多くの地名に共通するもので、固有部分は古良になります。
狗盧は下記に見るように、三国史記では古に相当します。
馬韓7分の6区分の比定
三国志の牟廬卑離が毛良夫里になることから、狗盧は古良に対応します。
このことから、この三つの国は地理的に連続しており、この区分の構成はA1を断点とする標準的な構成であることがわかります。

A群
古爰
支侵
狗盧
卑彌


B群
莫盧
卑離
占卑離
臣釁


A群がおおむね忠清南道の西部に見られることから、B群も忠清南道で考えるのが妥当でしょう。
B群で目に付く地名は卑離です。
これに類似した地名は、日本書記の比利です。
神功紀即位49年条では、百済王の南下とともに降伏してきた国が、全栄来説では、比利、辟中、布彌、支半、古四の五邑ですが、次の論稿に見るように、これらの邑はほぼ北から南に並んでいたと考えます。
馬韓7分の5区分の比定
したがってここに比定した、卑離、辟卑離、不彌、支半狗素も北から南に並んでいたのでしょう。
従って卑離は辟中の有力候補、全羅北道金堤市より北でしょう。
また好太王碑に、比利城三家爲看烟とあります。
漢城百済時代の高句麗との関係から考えて、そうとう北方に予想されますが、この碑が好太王の治績を讃えるものであること、396年には百済王弟を人質にとり、百済を屈服させたことを考えると、必ずしも漢城以北を考える必要はないでしょう。

さて卑離は韓伝地名に多く接尾する語で、単独の地名になっているのは珍しいケースです。
この地名の比定候補地は、三国史記の伐音支、現在の忠清南道公州郡新豊面になります。
伐音支は熊津都督府下の富林県本伐音村、に当たります。
なぜ伐音支が富林になるかというと、伐/bat/音/im/支/ki/ですが、伐は朝鮮漢字音では/bal/になり、朝鮮語では語頭の濁音が清音になることを考えると、/pol/になります。
したがって伐音支/polimki/となり、富林/pulim/につながるのです。
そしてこれが韓伝の卑離/pili/につながると思われます。
なぜ夫里のように書かなかったかですが、単独の夫里では多くの夫里終わりの地名とのバランスが取れなかったのではないかと考えます。
可能性としては、三国史記の地名の忠清南道に比定されるものに、加林や舌林など林/lim/で終わる地名が多いことから、何らかの理由で語尾にmを付けることがこの地域で流行した可能性がありと思います。

占卑離ですが、流布本では占離卑ですが、翰苑に引く魏志および通志では占卑離となっており、全体の傾向を考えると占卑離が正しいと考えます。
さて卑離を伐音支としたとき、その近くで占卑離に比較的近似するのが、三国史記の所夫里、現在の忠清南道扶余郡扶余邑です。

さらに伐音支を中心に卑離の前の莫盧の候補を探すと、三国史記の馬尸山、現在の忠清南道礼山郡徳山面があげられます。
馬尸の尸は三国史記などでは、r音を表している場合が多い。
したがって馬尸は/mar/となり、莫盧/makla/の候補になります。

A群の古爰や、B群の臣釁は不明ですが、これでこの区分は、概ね忠清南道を埋めていることが判ります。
したがって、続く馬韓7分の4区分はその南、全羅北道があてられますが、金提市に馬韓7分の5区分の辟卑離を比定し、その北に萬廬を置くと、この区分のA群にはほとんど比定地の領域が当てられません。
そこで馬韓7分の4区分のA群の地名を見てゆくと、監奚卑離と感奚という国名に、/kam//kam/のようなm終わりの音節の文字が目立つことです。
そこで三国史記の地名の内、全羅北道の金提以北に比定される地名を見てみると、甘勿阿/kamura/や金馬渚/komatso/のような地名が見えます。
監奚卑離を三国史記の甘勿阿、現在の全羅北道益山市咸悦邑、感奚を三国史記の金馬渚、現在の全羅北道益山市金馬面を比定したいと思います。
するとその間にある、駟盧の候補地として、三国史記の馬西良県、現在の沃溝郡沃溝邑が有力です。

ここで馬韓7分の4区分と馬韓7分の3区分を地図上に載せてみました。

馬韓7分の3区分(緑、青は7分の4区分)

馬韓7分の4区分(青、緑は7分の3区分、赤は7分の5区分)