前回の比定原案に至るプロセスを解説します。
まず加羅の名はでの比定を見ると、前回見たようにどうも弁辰辰韓3分の2群の12軍彌13彌烏邪馬と、弁辰辰韓3分の3群の21安邪20走漕馬の間に微妙な隙間があります。

図1

ここに、井上秀雄氏の三国史記173ページに記載された比定を載せると。


図2

 

楕円形が井上秀雄氏の比定地です。
隙間を埋めるように比定地があります。
しかしこの比定地では、3と5、6と7が著しく離れ、地域性に不満がのこります。
常識的には、5と7の比定地を見直し、南方に比定地を探すことになりますが、そうすると慶尚北道北部に、彌知地名があることを説明できなくなります。
やはり前回述べたように、次のような仮説をとると、1番目と5番目から8番目を、最北部とし、2番目から5番目をあとから合成された分岐群と考えるのが妥当であると考えます。

Aグループ
A1、A2、A3、A4

Bグループ
B1、B2、B3、B4

合成グループ
A1、B1、B2、B3、B4、A2、A3、A4

そこで1番目と5番目から8番目を慶尚北道北部として、暫定的に慶尚北道の彌知地名に彌凍地名を割り当てたものが次の図になります。

図3

ここで仮説のBグループに当たる、2番目から5番目を見ると、井上秀雄氏比定では、4番目と5番目が地域的に離れています。
考え方としては、5番目が誤りで4番目の南に本来の場所があったと考えるか、4番目が誤りで、5番目につながる場所を比定することになると思います。

そこでなぜ2グループを合成するにあたり、このように離れたグループを合成したのかが問われることになります。
一つの可能性は、この二つに彌離彌凍と難彌離彌凍という、きわめて類似した国名が現れることです。
合成した人間は、字面だけみて合成したのでしょうか。

しかし、前回指摘したように下記のケースなどは、仮説では説明できないのです。
馬韓7分の5区分の比定
ということは、機械的な合成ではなく、何らかの根拠があったと思われるのです。
そこで、弁辰辰韓3分の2群と3分の3群については、A群とB群の接点になりそうなA群の国が、分岐点となり、そのあとにB群が入っているのだと考えうるのです。
3分の2群と3分の3群については、上掲図2に見るように、A群とB群の接点になりうるA群の国が、分岐点になっていることに気づきます。

であれば、弁辰辰韓3分の1群も二つのグループの接点であったと考えられるのではないでしょうか。
それから考えると、この弁辰辰韓3分の1のBグループは、何らかの意味で慶尚北道のAグループにからんでいるはずであろうと思われます。
そう考えると実はこのBグループは、4番目が誤りで、5番目につながる場所を選ぶべきであると思われるのです。
そうであればBグループは北へ向かうグループになり、Aグループとのかかわりが出てくるからです。

さらにそうすると、4番目の接塗國が弁辰辰韓3分の2グループの領域に、食い込まなくて済みます。
そして弁辰辰韓3分の2グループの一番目、已柢國はAとBのグループの接点にあるはずです。
Bグループの最後、最北端の勤耆を定説に従って迎日とすると、そこから北上した内陸部の古噸耶に6番目已柢を比定すると、二つの群の接点になりえるのです。
已柢/kotei/と古噸耶/kotonya/にはある程度の音韻的類似もあります。

そうすると、末松保和氏以来の難彌離彌凍國の比定地、単密群とあわせて、A郡として東から西へ向かうルートが見えてきます。
これは弁辰辰韓3分の2グループのA郡の動きに似てくるのです。

古資彌凍については暫定的に知乃彌知をあててきましたが、この景徳王改名の地名化昌は、古資に通ずるものがあります。
瀆盧と東莱のケースのように、景徳王改名の地名が、古い地名を復活しているケースもあるのです。

A群最後の古淳是は、化昌懸から山越えしたあたりも考えられますが、そこは弁辰辰韓3分の2のルートの秋風嶺を抜けた地であり、ここでは三国史記冠文懸を想定した。
世宗賓録地理志や高麗史二巻五七によると、冠分懸を高思曷伊城と呼んでおり、/kosikai/と古淳是/kozunzi/の比定を考えました。

こうして次の原案ができました。

図4

ここから、韓伝国名の比定において次のような手順を考えることができます。

1.Bグループは4ヵ国連続するので、まず各グループに地理的に4ヵ国連続するものを探す。
2.次にそれを途中に挿入するAグループを見出す。
3.Aグループの分割点が、二つのグループの接点として妥当であることを確認する。

以降この手順が有効であるかを見てみます。