16.六世紀南九州の変容  ー膂宍之空國ー

六世紀に入って、南九州地域は変容を始める。
橋本達也氏の「成川式土器と鹿児島の古墳時代研究」によると、

「ほかの古墳時代社会とは生産技術・組織のあり方に違いが生じ、鉄器も古墳時代社会の中で独自の存在として異彩を放ちはじめて行く。結果として古墳時代後期末段階には独自の武装や習俗が外見に表出していたであろう」

とする。

成川式土器と鹿児島の古墳時代研究より九州南部の古墳墓編年


同書によると

「なぜ南九州は孤立化を深めることになったのだろうか。古墳時代後期、近畿中央政権はより強力に、全国的な支配体系を構築はじめる。墓制・生活様式・生産構造の資料から、それまでの中央-地域の関係が各地域首長との同盟的な連合関係から主従関係へと軸を移しはじめたと考えられる。その際に、九州南部では宮崎平野の拠点化がより進行したことが、古墳や出土資料からうかがえるのであるが、逆に大隅・薩摩地域はこの時期以降、古墳時代社会の交流圏から疎外され始めたらしい。」

大和政権の王朝化と中央政権的性格が深まり、血統断絶や政権内部の政治的混乱が生じたのではないだろうか。
継体朝は允恭雄略朝の度重なる断絶に伴い、大伴氏によって近畿中枢域外から王となったのだが、大和入りまでの期間の長さなどから、政権内の抗争があったとする意見がある。
また筑紫の君磐井の反乱や、継体朝から欽明朝への移行も百済本記に見える、辛亥年に天皇及、太子、皇子ともに崩御したと言う記述から、何らかの政変を考える説があった。
近年、河内大塚山古墳が完成前に放棄された可能性が指摘され、この説に再び注目が集まっている。

日本書記によれば、欽明朝に入って南九州に大きな影響力を持って行た大伴氏も失脚する。
倭国の朝貢は遅くとも六世紀初頭には終わっていた様である。

六世紀後半に入ると、再び南九州に対する関心が生まれる。
敏達天皇は朝鮮半島政策立て直しのため、百済高官であった日羅を呼び寄せるのだが、日羅は大伴の金村の命により百済へ渡った葦北国造刑部靭部阿利斯登の子である。
日羅が大伴の金村を我が君と呼んでいることで分かるように、葦北等の肥後と大伴氏の関わりは深い。
続く用明朝で大伴氏は重用され、これが六世紀末に阿蘇のピンク石が植山古墳の石棺に使われる理由であろう。
七世紀初頭には推古朝は隋に使者を送るが、大伴咋は隋の使者を迎える重要な役割を果している。
もしかしたらこの時、吾田も一時的に脚光を浴びたかもしれない。

しかし既に大和政権の目は、すぐに南九州を通り越し西南諸島に向いて行った。
百済の南朝および隋への朝貢は続いていたが、黄海を渡海する航海は416年以来続いており、既にそれ自体特殊技能とは言えなくなっていたであろう。
七世紀に入ると西南諸島からの人々の朝貢が目立つようになる。
一説によれば七世紀初頭の隋による流求遠征が、動揺を引き起こしていたと言う。
国家南方の境界を更に南に意識せざるおえない時代に入っていたのである。

663年白村江の戦いで敗れると、百済の滅亡と敵対する新羅の興隆により、朝鮮半島経由の朝貢路は塞がれた。
八世紀の遣唐使は南島路を通ってゆくのであるが、そこで重要となったのは寧ろ南島地域の海人であろう。
南九州はその航路の後方として、度々反乱を起こしながら、律令国家の中に組み込まれていくことになる。

隼人は小中華としての大和朝廷の、四夷としての地位に甘んじることになるが、朝廷は五世紀以来始祖が吾田の姫の子であるとしていた。
しかもそれは日本書紀一書の存在に見るように、多くの氏族の祖先伝承に共有されており、既に覆し難い伝承であった。
このため吾田の一族は、蝦夷と異なり四神の一つとして、王城を守る存在とされたのである。

天孫降臨から神武東征への神話の骨格ができたのは遅くとも大伴氏の最盛期である継体朝であり、物語は口誦で伝承されたのであろう。
その後南九州の神話である磐長姫や海幸山幸、黄泉の国などが組み入れられる時期があるが、恐らくそれは大伴氏が一時盛り返した推古朝であろう。
推古朝には天皇記、国記があったとされ、このころには伝承は一部文字化されていたのかもしれない。

津田左右吉氏は帝紀、旧辞の成立を欽明朝あたりと思われていた様である。
その後直木孝次郎氏等の研究があり、文書化のみならず伝承そのものの成立時期も次第に繰り下げられてきた。
しかし天孫降臨神話は、異伝を伴う現存形態からして、文字化された時期がかなり下るとしても、伝承それ自体を天武朝以降に見ることは出来無い。
その遥に前の六世紀中には、畿内人から見た南九州は、膂宍之空國となっていたのである。

最後に、この連載の最初の疑問である「何故天孫は南九州へ降臨したのか」に、一言で答えるとすれば次のようになるだろう。
大和政権が王朝としての形を整え始めた時期、系図や祖先神話などを整理再編し始めたちょうどその頃、まさに南九州政策が政権の朝鮮半島政策にとって、死活的に重要な意味を持っていたためである。

天孫降臨 了