12.韓国に向う  ー韓槵生村ー

天孫降臨の場所に共通する高千穂は、本来稻を高く積み上げた山であって、特定の地名ではなかった。
特に古事記の降臨場所は「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」、日本書紀一書一の降臨場所は「筑紫日向高千穗槵觸之峯」となっているが、この降臨地を北部九州であるとする説がある。
両者の地名の特徴は、日本書紀本文や他の一書では日向となっているところが、筑紫日向となっていることである。
この筑紫日向を筑紫の国の日向と解釈し、古事記の「此地は韓国に向ひ」と言う降臨地への国誉めから筑紫の国、つまり北部九州の朝鮮半島を向いた地とするのである。
そこで日向を北部九州の小地名に当てたり、やはり古事記の「朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。」と言う国誉めから、特定の地名ではないとするのである。

しかし筑紫の日向の高千穂と言う場合、筑紫は必ずしも筑紫の国ではなく、九州島全体を表す場合があることに注意すべきである。
例えば日本書紀景行紀には、「天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居」のような例がある。
北部九州説の文献的に唯一の積極的根拠は、古事記の国誉め「此地は韓国に向ひ」のみである。

ところで風土記逸文には面白い記述がある。

「(日向國ニ韓槵生村ト云フ所在ト書キ,此所ニ木槵子木ノ生ヒタリケル歟如何?……昔シ,哿瑳武別ト云ケル人,韓國ニ渡リテ,此栗ヲ取リテ歸リテ植ヱタリ。此故ニ,槵生村トハ云フ也。風土記云:)
俗語謂栗為区児。然則韓槵生村者,蓋云韓栗林歟。
(云云。)」

この韓槵生村の槵生(クシブ)であるが、薩摩の国風土記逸文に下記のようなものがある。

「皇祖裒能忍耆命,日向國贈於郡,高茅穗ノ槵生峰ニ天降坐シテ,是ヨリ薩摩國閼駝郡ノ竹屋村ニ移リ給テ,土人竹屋守ガ女ヲ召シテ,其腹ニ二人ノ男子ヲ產給ケル時,彼所ノ竹ヲ刀ニ作リテ,臍緒ヲ切給ヒタリケリ。其竹ハ,今モ在リト云ヘリ,此跡ヲ尋ネテ,今モ斯クスルニヤ。」

これは明らかに日本書記天孫降臨以下の一節を引いたものであるが、注目すべきは降臨地が「日向國贈於郡,高茅穗ノ槵生峰」となっていることである。
これは日本書記の「筑紫日向高千穗槵觸之峯」(一書一)や「日向襲之高千穗槵日二上峯」(一書四)と関連があると思われる。
つまりこの逸文の「槵生」(クシブ)は、日本書記の「槵觸」(クシフル)や「槵日」(クシヒ)と同根であると思われる。

実はこの二つの逸文はいずれも、塵袋に引かれたもので、原史料となった風土記は同じものと思われる。
従って最初の逸文の「韓槵生村」は、「韓槵觸村」もしくは「韓槵日村」と置き換えられるのである。

この「韓槵生村」は恐らく天孫降臨神話と何らかの関わりがあるはずである。
この村が現在の何処に位置するのか不明であるが、「日向國」となっているので北部九州ではない。
しかも韓との関係が示されているのである。

南九州が五世紀頃から、倭王権の朝鮮半島進出にとって大きな意味を持っていたことは説明した。
五世紀の吾田すなはち笠紗之御前は国際政治の舞台であり、百済そしてその先の南朝との交流に置いて欠かせない地であった。
そこは韓国へ向う出発地だったのである。


近年の古事記と日本書紀の神話についての研究は、利用できた原史料群が同じで、異なる方針に従って史料を選択し、編纂したものとの見解を主流とするようである。
古事記の一文は日本書紀の各書を含む史料群を用い、高千穂が目的地とする原史料を採用した上で、国誉めとして「この地は殻國に向い、笠沙の御前ヘ覓通る」の様に編纂されたものが、口誦で変化したものだった可能性もあると考える。


天孫降臨を北部九州にしたいのは、弥生期の考古学的知見に基づくものであろう。
八世紀に成立した文献に対して、一ニ世紀や紀元前後にまで遡る状況が反映されていると考えるのは危険である。
百歩譲って北部九州に本来の降臨神話があったとしても、そこに絞り込んで文献解釈や歴史理解を行えるような根拠はない。
天孫降臨神話の原型は現存風土記に残されていないだけで、九州地方全般やもしかしたらもっと広い地域にあったかもしれない。
それは稲穂の山である高千穂への稲の神の降臨の神話であり、少なくとも現存史料ベースで見る限り、日向地方がその源郷であると思われる。

では誰が九州地方の伝承を畿内に持ち込み、誰がそれを倭王権の直接の祖に関わる神話としたのだろうか。