次に獲加多支鹵大王の時代の歴年代に関して考えてみたい。
獲加多支鹵大王の時代が概ね須恵器形式のTK23に相当するとした場合、その歴年代はどうなるだろうか。
かって稲荷山鉄剣発見直後には、その須恵器形式のTK23/TK47より歴年代は考古学的に6世紀前半とされた。
したがって大王の時代に属する「辛亥年」は471年と531年の両方の可能性があった。
ただし当初より考古学者の大勢は、6世紀前半でも早い方を意識していたため、471年が優勢であった。

下記白井さんの論文によれば、相対編年でも共伴須恵器をTK47とみなした場合は、471年が妥当であるとしている。
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2003b.html

現在該当須恵器の時期の榛名山火山灰に埋もれた木材のC14年代調査からも、TK47は五世紀の中に納まり、471年説は裏付けられてきている。
http://www.hayakawayukio.jp/publication/paper/05_HAYAKAWA.pdf

「辛亥年」が471年であるとすると、獲加多支鹵大王の時代はその前後にわたると思われる。
これは中国史書に見る倭の五王の時代に重なる。

462年に倭王興の最初の朝貢があり、477年の倭の朝貢には王名が無い。
これが興のものなら、獲加多支鹵大王は倭王興となる。

ただしもしも477年の朝貢が倭国伝の武の自称記事に相当するとしたら、異なる可能性が出てくる。
自称記事は「興死、弟武立。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。 」
であるから先立って既に興は亡くなり、倭王武が立ったと考えることが可能になる。
実際倭王武の上表文に「奄喪父兄」と有ることから、興の治世があまり長くなかったことを伺わせるため、倭王武説も成立する。
いま獲加多支鹵大王が興であったか武であったかは保留しよう。
ここでかりに獲加多支鹵が倭王興であったとしても、倭王武は獲加多支鹵の弟であり、その認識に大きな差は無いであろう。
倭王武の上表文の認識は、概ね獲加多支鹵の認識であると考えてよいであろう。

ここに注目すべき一文がある。
「自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處」
すなはち、倭国は倭王武の祖先が直接武力をもって従えたのである。
ここにまさに血統による王朝の意識の一端がある。

宋書によれば、武と興の父は斉であり、斉はそれ以前の讃や珍とはつながっていない。
これをこのまま認めると、この王朝は斉が始めたことになる。
後の梁書には斉は珍の子となっているが、これは後になって倭国が主張したものである可能性がある。
何らかの理由で、斉以前に王朝を遡らせる必要があったのであろう。
実際に血統による継承が起こるためには一世代が必要であるが、王権の改革は少なくとも、獲加多支鹵の前代に始まることが分かる。
稲荷台1号墳出土の王賜銘鉄剣は須恵器編年TK208であり、関東への進出が斉の代に始まるものであることが分かる。
TK208/TK23古相期には、300m級の土師に二サンザイを最大とするも、市野山230m、軽里大塚190m、ヒシアゲ220m、大田茶臼山227mと畿内に大古墳が並立し、混沌の様相が見られるが、次のTK47古相には岡ミサンザイ247mが圧倒し、これが大古墳群の最後となる。
混乱期を収拾し、最後の大古墳として転換期となるのが、岡ミサンザイの主であり、おそらく
獲加多支鹵、そして興または武であろうと思われる。
この時期、葛城、河内、吉備などの古墳が小型化する一方、有明海沿岸と関東では古墳造成が活発化する。
倭王権が地方との結びつきを強めつつ、中央の競合勢力を抑え、中央の有力豪族の共立による王権継承から、血統による王位継承に転換しつつあったのではないか。

さて隅田八幡神社人物画像鏡について、最近の研究では同型鏡が全て、TK47からその次のMT15の古墳に納められていることが分かり、記載された癸未が503年であることが確実になってきている。
そうであればこの鏡にある、日十大王は獲加多支鹵大王の王朝に属する王であることになる。
そこには意柴沙加宮との記載があり、稲荷山鉄剣の斯鬼宮の記載と合わせて、この王朝の本貫の地がシキやオシサカ等、奈良盆地東南部にあったことが分かるのである。


この王朝の混乱期はTK10古相からTK43の時期、およそ6世紀前葉から中葉と思われる。
そしてようやく6世紀後葉にいたって、奈良盆地南部の飛鳥を中心とした王朝が安定してくるのである。