前回、渡辺崋山が「釜原」を描いた場所を白井市域とする説を紹介しましたが、鎌ケ谷市域とする説も紹介しないとフェアではありませんので、今回は「釜原」を描いた場所を鎌ケ谷市域とする説に焦点を当てます。

 

鎌ケ谷市教育委員会が市民向けに市域のあゆみを紹介した冊子である『鎌ケ谷のあゆみ』(4訂版)では、「近世」の扉部分に「釜原」の部分拡大図が掲載され、さらに「近世」を解説する本文10項目中の8項目目に「鎌ケ谷宿と助郷-木下街道を行き交った人たち-」と頁を割いています。

そこには「釜原」の全体図と共に、「江戸時代の画家渡辺崋山は、文政8年(1825)に利根川から水郷地方を遊歴ししたおり、鎌ケ谷宿付近で1枚の絵を書き残しています。「四州真景」の「釜原」の図です。崋山の旅したこの道は、木下道や鹿島道・銚子道また江戸道などと呼ばれ、行徳河岸(現市川市)から木下河岸(現印西市)を結び、さらに川船で銚子湊(現銚子市)へと至る道筋で、江戸と利根川下流域および常陸方面とを結ぶ、重要な脇往還(脇街道)でした。」と記しています。

 

ほかにも、鎌ケ谷市役所のHP内にある鎌ケ谷市域にある国・県・市指定文化財を紹介した「鎌ケ谷市の文化財」のページにおける「【市指定文化財】魚文の句碑」の解説文には「渡辺崋山文政8年(1825年)に鎌ケ谷宿付近で「四州真景図」の「釜原」を描いている。鎌ケ谷市役所1階ロビーにはこの絵を模した壁画がある。」との記載があります。

 

以上、「釜原」を描いた場所を鎌ケ谷市域とする説のごく一部を紹介したに過ぎませんが、鎌ケ谷市ではこれらの資料から「釜原」の絵は鎌ケ谷宿付近の鎌ケ谷市域を描いたと捉えていると推測できます。

 

【引用文献・資料】

鎌ケ谷市教育委員会 2017『鎌ケ谷のあゆみ』(4訂版)

 

鎌ケ谷市の文化財|鎌ケ谷市ホームページ (city.kamagaya.chiba.jp)