今週末からゴールデンウィークに入るそうです。

ゴールデンウィークといえば、5月1日から5日までの5日間に88ヶ所の札所を巡拝する「東葛印旛大師講」の季節です。

講の公式HPである「准四国八十八ヶ所東葛印旛大師巡拝(送り大師)公式サイト」※1によると、今年は柏市(旧沼南町)の片山地区が結願区となっています。

 

公式HPにUPされている今年の行程表を見ると、

5月1日 

南蔵院(片山)→手賀→布瀬→平塚名内今井梶原大師堂(小名内、解散)

5月2日 

南蔵院(片山)→円林寺(金山)→富塚→藤ヶ谷→藤ヶ谷新田→高柳→佐津間→粟野軽井沢→初富(一文字大師堂、解散)

5月3日 

南蔵院(片山)→高龗神社(六実)→五香→金ヶ作→佐野→南増尾→逆井→藤心→塚崎→増尾→名戸ヶ谷→豊四季(正満寺中原分院、解散)

5月4日 

南蔵院(片山)→長全寺(柏)→戸張→大井→五条谷→大島田→若白毛→箕輪→鷲野谷→泉(伊津美神社、解散)

5月5日 

南蔵院(片山)→弘誓院(上柳戸)→下柳戸→片山手賀→南蔵院(片山、結願) と、なっています。

 

ということで、白井市内で巡拝風景が見られるのは5月1日と2日のみで、同じく5月2日には白井市近くの鎌ケ谷市粟野・軽井沢地区も通ります。詳細な時間等は公式HPでご確認ください。

 

なお、今年も一般の方も自由に巡拝できるそうですが、先達一行が車両での移動になるため、事故防止の観点から先達一行と一緒に巡拝することは不許可とのことです。くれぐれもご注意ください。

 

また、公式HPには「コロナ禍を境に、組合員・講員が急減してしまったため「巡拝を含む活動」の新たな方向を模索しています。」との記載と共に、平成16年に白井市平塚地区が結願区を務めた際の記録映像が紹介されています。※2

 

※1 東葛印旛大師公式HP

准四国八十八ヶ所東葛印旛大師巡拝(送り大師)公式サイト

准四国八十八ヶ所東葛印旛大師巡拝(送り大師)公式サイト (google.com)

 

※2 白井市平塚地区が結願区を務めた際の記録映像

東葛印旛大師講平塚結願区2004 (youtube.com)

※全編60分、解説付き(正式名称は「東葛印旛大師講-白井市平塚地区結願-」で、過去には(財)地域創造のHP内で5分間のダイジェスト版も公開されていましたが、現在は公開されていないようです。企画:白井市教育委員会、撮影:株式会社共映)。久しぶりに全編見ましたが、組合長のKさん、平塚地区の大世話人だったFさん等、鬼籍に入られた方が多くなったとしみじみ感じました。

 

東葛印旛大師における白井市付近の札所

機関誌『たいわ』第39号を刊行しました。

会員諸氏からの投稿と、例会における講演要旨等も掲載しています。

今後、千葉県内近隣自治体の図書館等にも順次寄贈いたします。

 

第39号 2024(令和6年)年3月発行 頒布価格500円

                      (送料別)

 

はしがき

 

1 研究・随想等

石堂正彦「近世、西宮神社配下えびす社人に注がれた蔑みの

     眼差しと、その脱却-下総国 若白毛組を通して-」

小林將「戦艦河内爆沈事件105周年について」

高花宏行「史料紹介-総州印旛郡名内村内検地帳-について」

川島利一郎「白井村の馬の思い出

         ~山口幸吉(ゆきよし)さまのお話~」

小林正継「白井に関係する歴史や文化あれこれ」

蕨由美「【講演要旨】印西地域の石造物

                -本埜地区の調査から-」

森伸之「【講演要旨】陸軍航空教育の組織と人材育成

             ~下志津飛行学校を中心に~」

佐藤誠「【講演要旨】正岡子規、北総を往く

              ~房総旅の足跡を追って~」

大関枝美子「【講演要旨】千葉ニュータウンの歴史と発展

                 -印西市域を中心に-」

 

2 白井市郷土史の会関係資料

『たいわ』の歴史と全号の目次

白井市郷土史の会会則

令和5年度の事業報告、令和6年度の事業計画

 

あとがき・編集後記

 

※購入希望等の問い合わせは以下の連絡先までメールにてお願いいたします。

  hitoha0419★yahoo.co.jp(★を@に変換)

白井市郷土史の会では初となる「座談会」を4月13日(土)午前、西白井複合センターを会場に開催しました。

タイトルは座談会「木下街道の魅力ー会員5人が語り皆で考える興味のポイントー」です。

 

トップバッターとして、小林正継副会長が現代の木下街道について、県道59号線で市川印西線という名称であり木下街道は愛称であること、江戸時代には「街道」ではなく「脇往還」であったこと、江戸からは三社詣、江戸には鮮魚の輸送等が行われたこと等、概要の説明がありました。

 

2番手として小林將副会長から「木下街道にある戦没者「個人慰霊碑」」と題して、木下街道に面した場所に建てられた高さ3m以上もある巨大な「個人慰霊碑」の存在について行徳から八幡、鎌ケ谷、白井の道順に紹介されました。

紹介された「個人慰霊碑」は、その言葉どおりいずれも明治37(1904)年の日露戦争や大正7(1918)年の戦艦河内爆沈事件で犠牲となった方(個人)の慰霊碑です。

なぜ木下街道に面して建てられているのかについては、来月(令和6年5月)の例会で諸例の詳しい紹介が調査成果の考察と共に発表される予定となっています。

 

3番手として石堂正彦会員から「木下街道を通って様々な人々が村々を来訪または徘徊した」と題して江戸時代の村々に来訪した虚無僧・伊勢御師・修験者・陰陽師・神事舞大夫といった宗教者、浪人、座頭・瞽女といった芸能者についての解説と、来訪者は信仰や娯楽、情報をもたらすというプラスの面がある一方、虚無僧や浪人、一部の座頭や瞽女等は過度な金銭や止宿、食事の提供要求等、村々にとってマイナスをもたらし、更には治安問題にも発展したとの話をされました。

往来の激しい道は、物資や普通の人びと以外に遠方等からも様々な方々が通ることが理解できました。そして来訪者への村での対応が古文書(御用留)等に記録されていて、それを読み解くことで、来訪者から受けた要求やそれに対してどのような対応をされたのかがわかるそうです。来訪者に対応した村役人の苦労が偲ばれます。

 

4番手として川島利一郎事務局長から「写真で見る木下街道と白井」と題して、昭和30年代から50年代、平成10年代の船橋市藤原・馬込沢駅付近、鎌ケ谷大仏駅付近、国道16号と木下街道の交差点・京成バスの白井車庫、完成直後の北総鉄道、西白井駅と商店街のの写真について写っている風景や人々の特徴と、現在との比較について話されました。

特に昭和30年代から40年代の木下街道について当時を知る方から聞き取った事項を紹介し、雨が降ると泥濘が酷かったこと、白井周辺では道の両脇に高く木が生い茂り日中でも暗かったとのことです。

 

5番手は髙花宏行会員で、白井市域や白井地区を中心とした木下街道沿いの史跡等について紹介がありました。具体的には白井第一小学校敷地内にある上人塚と徳本名号塔、白井宿と白井宿の旅籠「藤屋」に渡辺崋山が宿泊したこと、伊勢屋宇兵衛による「伊勢宇橋」の架橋、神々廻地区の赤く塗られた庚申塔群、神々廻木戸、十余一地区の香取神社と一億供養塔、印西市域に入り泉新田大木戸野馬堀遺跡、そして最後に木下街道の終点である利根川に面した木下河岸跡について紹介されました。

 

こうして会員が各々関心を持っている分野の発表をした後、小林正継副会長が文化の伝播路として俳句や短歌の広がり、明治時代になって広まったキリスト教の話をしつつ発表の総括をされ、その後、参加した方々から発表者への質問や各々が木下街道や木下街道周辺の歴史・文化について知っていることを話し、発表者・参加者全員で木下街道が通っていることが白井市の発展にどのような影響を与えたのか改めて考えて座談会を終了としました。

 

「座談会」は当会では初めての実施でしたが、参加された方も一緒に木下街道について考えを巡らす良い機会になったのではないでしょうか。

今後もこのような新たな試みを行っていきます。

 

総括する小林正継副会長

白井市郷土史の会令和6年5月例会を開催します。

当会会員の小林將氏を講師に迎え、「木下街道にある戦没者『個人慰霊碑』」と題した例会を開催します。

 

小林会員は、昨年度の例会で「歴史の見方(定説・通説と私説)2」と題した発表をされ、その中で大正7(1918)年、山口県周南市沖の徳山湾で戦艦河内が爆沈し、乗組員1,020人のうち621人が亡くなった「戦艦・河内爆沈事件」について触れられました。

この事件を調査することになったきっかけは、偶然通りかかった船橋市の個人宅敷地内に、遠く離れた山口県で爆沈した戦艦河内に乗船して亡くなられた方の個人の慰霊碑があり、しかもその慰霊碑の巨大さに驚愕されたことです。

 

そして、戦艦河内に乗船して亡くなられた千葉県内の方々や、亡くなられた方の個人慰霊碑を調査を進めた結果、木下街道に面した場所に巨大な個人慰霊碑がいくつも建てられていることを確認しました。しかもそれは、ある年代に限られるとのことです。

果たして、木下街道沿いにいくつ巨大な個人慰霊碑があるのか、また巨大な慰霊碑が木下街道沿いに建てられた目的は何か、当日の講演でその謎が明かされます。ご期待ください。

 

日時  令和6年5月11日(土)午前9時30分~

                    午前11時30分

会場  西白井複合センター2階視聴覚室

    (白井市清水口1-2-1、

     北総鉄道西白井駅北口下車徒歩2分)

演題  木下街道にある戦没者「個人慰霊碑」

講師  小林 將 氏(当会会員)

参加費 400円(資料代)

申込  不要(当日先着順です)

 

*お問合せは hitoha0419★yahoo.co.jp(★を@に変換)まで

 

鎌ヶ谷大仏脇に建つ大型の個人慰霊碑

(小林將会員撮影)

白井木戸地区は名前に「新田」がつくことからもわかるように江戸時代に成立した新田村(村立新田)で、『白井町史』史料集Ⅰの解説によると成立は延宝4~7(1676~1679)年頃と推定されています。

成立時は今の冨士地区から国道16号の白井交差点付近くらいまでの範囲を呼びましたが、現在は木下街道でいうとベルク(スーパー)がある付近から八木ヶ谷交差点付近までの範囲を指すと思います。

 

地区の中央、木下街道に面した場所には鎮守である天神社がありますが、もともとは地区内にある某家の氏神だったそうです。神社の創建は享保15(1730)年とされ、現在の本殿は昭和51(1976)年に再建されたものです。

境内には白井木戸地区の歴史を刻んだ「白井新田村造四百年記念」碑があります。

碑文を引用しますと「吾が部落の歴史を住民等しく知りたくまた後世に伝えるため古老の説や古文書神社仏閣等をつぶさに調査した所 最も古い後藤々左衛門家は徳川家康軍直轄の名主であり次の橋本仁右衛門家は古文書等の資料もあり又三番目に古い鈴木平右衛門家は代々戸長として住民の信望厚く村の発展に努め1603年から1717年までの百余年余り戸数13戸とは云え其存在は明らかである 特に村の中央に天神社の回り其境内にある石塔類も30貫から50貫のものであるが馬車もない時代に人力のみで建立されていることを見るに信仰の加護はもとより住民の団結心と苦労の跡が偲ばれる 特に宝暦天明の大飢饉天保寛政の浅間山大噴火の災禍には疫病疱瘡の多発流行に加えて苛酷な重税に百姓一揆各地に起こり世上は騒然とした 農産物は育たず田畑は荒れるにまかせ食もなく人心はすさみ野犬を捕らえて喰えば野犬も又人を嚙み行路病死は至る所にあったが人々これを顧みる余猶がなかった 然し住民は一致団結営々として村を興した 時は明治を迎え住民は増加するばかりの折り同十年村の氏神天神社の氏子秋本新兵衛同茂平衛同与一伊藤長九良の四氏は白井の地に氏神とともに移り今なほ栄えている

今我が部落四百年の星霜を顧みるに 祖先の血と涙に苦しみを重ねた賜ものと住民等しく心に刻み移りゆく後世に伝へるためこれを記す」とあります。

 

この碑文を読みますと、地元では白井木戸新田の成立を慶長8(1603)年まで遡ると捉えています。

また、下線を引いた箇所は以前このブログの「白井地区の天満宮」の記事で紹介しましたとおり、ここの天神社と白井地区の天満宮には関係があることの根拠となるものですが、その詳細は史料を基に調査が必要です。

 

 

白井新田村造400年記念碑(表面)

 

白井新田村造400年記念碑(裏面・その1)

 

白井新田村造400年記念碑(裏面・その2)