印西市の木下河岸からスタートした木下街道沿いの歴史を巡る投稿も、白井市域は終盤に近づいてきました。

白井木戸地区を過ぎると、白井市域にはあと冨士地区しかありません。冨士地区を過ぎると鎌ケ谷市に入ります。

 

冨士地区の名前の由来等は別途紹介しますが、冨士地区は江戸時代は「中野牧」という幕府の馬の放牧場として土地利用されており、人々が居住し始めるのは第二次大戦後に開拓されてからですので、それ以前は草原であったり、山林であったりしました。開拓以前の冨士地区はどのような風景だったのでしょうか。

 

文政8(1825)年に木下街道を通った渡辺崋山は、鎌ケ谷宿にある鹿島屋で夕食を取ったのちに「釜原」という絵を描いています。この「釜原」の読みは「かまはら」ですので、鎌ケ谷宿を過ぎた現在の鎌ケ谷市内を描いたという説がありますが、当会の前会長である鈴木普二男氏は、描かれた場所を白井市内とされています。

しかも具体的な番地まで示していますので引用しますと「さて、その描いた原野とはどこか、釜原とは、鎌ヶ谷の地名を知る以上、通常その地先を想起する事であろう。しかし、故村崎勇(鎌ケ谷市市文審委員長)先生等との話し合いから、筆者は、描写地を本市冨士地域として特定してきた。(…中略…。)。夕食後早くも2㎞を隔てた白井木戸地先である。そこには木戸の開閉等を受け持つ木戸詰がいる。数々の事由とと現況を加味して描写地を今日探すと、結論は前述の門近く、すなわち冨士2乃至根333番地先に落ち着くはずである。言い換えると、今来た道を西に振り返り制作したスケッチ。これこそ釜原の生い立ちと明記したい。」と解説されています。

 

白井市冨士2番地・根333番地付近とは白井木戸地区と冨士地区との境界にある木下街道の八木ケ谷交差点周辺のことです。ここは小金牧の一つである中野牧の境界と木下街道が交差する場所なので、木戸、すなわち「白井木戸」があった場所です。

現在、山林原野であった面影は全くなく住宅地が広がり、またこの交差点は変形十字路のため渋滞する場所としか認識されていないかもしれませんが、渡辺崋山一行が一度立ち止まった由緒ある場所であった可能性があるのです。

「釜原≒鎌ヶ谷原≒鎌ヶ谷市域」という説が一般的なようですが、一つの説として紹介します。

 

【引用文献】

鈴木普二男 2004「崋山筆釜原の絵」『白井の文化遺産史』

 

「釜原」(渡辺崋山『四州真景図』)より