白井市郷土史の会令和6年5月例会を5月11日(土)午前、西白井複合センターを会場に開催しました。

タイトルは「木下街道にある戦没者『個人慰霊碑』」で、講師は当会の小林將会員が務めました。

 

事の発端は、小林会員が令和4年9月に船橋市内の木下街道を車で通行して梨を購入しようとした際、道路が渋滞し、渋滞で止まった際に偶然個人宅の中に巨大な石碑の存在に気付いたことに始まります。そして、この偶然の発見がその後の個人慰霊碑研究、そして今回の発表に繋がったとのことです。

 

この時偶然気づいた石碑は、大正7(1918)年に山口県周南市沖の徳山湾で爆沈した戦艦・河内に乗船していて亡くなられた方の慰霊碑で、調査成果を令和5年5月の例会で発表されました。

詳細は当会のログの「令和5年5月例会報告」をお読みいただければと思いますが、爆沈の地である周南市には慰霊碑が建てられていて、そこに亡くなられた乗組員621名の氏名が刻まれてはいますが、その方々の出身地や年齢は確認できていないため不明のままとなっていたのが小林会員の調査で一部が明らかになり、現地では、乗組員に遠く離れた千葉県出身者がいたこと、そして亡くなられた方の巨大な個人慰霊が建てられていることに驚かれたとのことでした。

 

小林会員は、この個人慰霊碑が木下街道に面して建てられていることに注目し、木下街道沿いに同じような個人慰霊碑がないか調査を始めました。その結果、現在も調査中ですが、市川市・船橋市・鎌ケ谷市・白井市で計7基の巨大な個人慰霊碑を発見しました。しかも、少数の地区の寺院境内や敷地近くに建てられているもの以外は、いずれも木下街道に正面を向けて建てられているという共通点があるとのことです。

 

発見した個人慰霊碑の年代を確認すると、先の戦艦・河内爆沈事件の慰霊以外は、全てが明治37(1904)年に勃発した日露戦争に従軍して亡くなられた方の個人慰霊碑だったそうです。

そして、個人慰霊碑がこの年代に集中する理由を調査した結果、一つは大正時代から昭和一桁の頃は戦争がなかったこと、そして、慰霊碑建立について国からの通知により公有地における戦没者慰霊碑慰霊碑の建立については乱立防止の観点から制限がかかるようになったこと、明治43(1910)年に設立された在郷軍人会が複数名の戦没者名を刻んだ忠魂碑建立の中心を担うようになってきたことが影響しているのではないかとのことでした。

更なる調査の進展が期待されます。

 

ところで、こうした戦没者慰霊碑がどのように建てられるようになったり制限されたりしたのかという歩みがまとめられた資料がインターネットで閲覧できます。

それは今井昭彦氏による「群馬県下における戦没者慰霊施設の展開」という論文で、調査対象範囲が群馬県になっているので千葉県とは異なる状況であったように思ってしまいがちですが、明治時代に入ってからの歴史事象、特に国からの通牒に基づく地元自治体における対応は、ほぼ全国で統一的に実施されたと理解してよいと考えられますにでご紹介します。

 

今井氏の調査によると、戦没者慰霊碑で最古のものは西南戦争時のもので、個人慰霊碑として建てられるようになります。多くの建立が見られるようになるのは日清・日露戦争時ですが、明治37(1904)年6月になると、政府は「境内記念碑建設取扱方の件」を発出し、神社境内に招魂碑等の墓碑にまぎらわしいものを建てることを禁じると共に、同一の記念碑は1市町村に1ヶ所にまとめて建設するよう指示を出しています。

そして、明治40(1907)年頃には戦没者の氏名のみを刻んだ忠魂碑等が建てられるようになり、戦没者の個人祭祀の時代から共同祭祀へと移ったと評価できるそうです。

なお、国は神社境内への複数の慰霊碑の建立は禁じましたが、個人墓地に対しては、身分不相応な墓碑を建てることを禁じた以外には「軍の関与するところにあらざる」として建立そのものは特段禁止していません(個人邸宅内に慰霊碑がが建てられ、今も現存するのはこのような経緯があるからかもしれません)。

 

その後、第二次大戦終了と共に昭和21(1946)年に内務省・文部省の次官通牒として「公葬について」が発出され、忠霊塔や忠魂碑等の建設中止や公共施設内にある忠魂碑等は撤去することが記され、倒されたり土中に埋められたりしました。しかしながら、更にその数年後には「公葬について」が無効となり、再び忠魂碑等が建て始められるという流れとなります。

 

実際の流れはもう少し複雑ですが、最後に今井氏のまとめを引用しますと「日露戦役を機として忠魂碑の出現が一般化し、昭和に入ってからさらに規模の大きな忠霊塔に移行すること、また、その建立が遺族から在郷軍人会の手に委ねられるとともに、国家行事とのかかわりのなかで建立が推進されたこと、等々は籠谷の指摘と一致するところである。それは肉親を失った遺族がまず戦死者の慰霊のために石碑を建立するという個人祭祀を出発点とし、やがて遺族の手を離れて官による共同祭祀の形式へと統合され、本来の慰霊という意味から戦没者の顕彰・護国精神の宣場に重点が移行していった。敗戦後は再び慰霊施設の建立・再建を見ることができた。」と結んでいます。

 

当市でも白井中学校の校庭の片隅に忠魂碑と忠霊碑の2基がひっそりと建っています。このうちの忠魂碑は大正14(1925)年に白井地区の庚申塚に建てられましたが、終戦後の占領政策に応えるように倒され、昭和35(1960)年3月に、現在地に移設されたという経緯があります。

 

【参考・引用文献】

今井昭彦 1987「群馬県下における戦没者慰霊施設の展開」

 『常民文化』第10号 成城大学

群馬県下における戦没者慰霊施設の展開

 

鈴木普二男 1984「繁栄への願い」 

      『白井町の文化財ノート』

 

小林会員による講演風景