白井市郷土史の会令和6年1月例会を1月13日(土)午前、白井駅前センターを会場に開催しました。

タイトルは「印西市の石造物-本埜地区の調査から-」、講師は房総石造文化財研究会会員の蕨由美さんです。

 

お話の内容は、2022年12月に刊行された『印西市石造物調査報告書 本埜地区の石造物』の調査成果に基づき、印西市本埜地区における石造物の代表的な事例を中心に種別ごとに紹介いただきました。また、本埜地区の石造物と同じ種別の石造物で白井市にあるものも併せて紹介されましたので、参加者も本埜地区と白井市域の比較や、白井市域の身近な場所にある石造物についての理解も深まったことと思います。

 

概要をまとめますと、

まず庚申塔では白井市域よりも本埜地区の方が古い時期から建てられていて、最古のものは寛文2(1662)年だそうです。三猿が浮き彫りにされた初期庚申塔に続き、江戸中期の人身の頭部らしき袋状のもの(「ショケラ」とも言う)を持ち迫力がない邪鬼がうずくまる姿の特徴から所謂「生首持型」と称されるもので、本埜地区の他、白井市域を含む印西地域でも複数見ることができる事例を紹介されました。石田年子氏は、同じ石工又は同じ工房による作例と推定し「石工X」と述べられているそうです。

また、庚申塔100基からなる「百庚申」の事例を紹介されましたが、「百庚申」は白井市域には存在しません。その代わり、1石で庚申塔100基分を意味する「一石百庚申」が法目地区の八幡神社にあります。

他、江戸時代後期になると道標を兼ねる庚申塔が複数確認されるようになり、これについて「庚申塔が道標を兼ねた理由として、庚申塔の立地がムラの入り口の道路沿いや分岐点に多いこと、庚申信仰に加えて、公共の利益のための行いがさらに功徳を増すと思われたからであろう。」とされました。

 

続いて月待塔の話で、白井市域にもある十九夜塔と二十三夜塔の話から始まり、昨年度もお話いただいた十九夜塔から子安塔への変化、そして類例の少ない十五夜塔、十七夜塔、二十夜塔、二十六夜塔の話へと続きました。白井市域では二十夜塔や二十六夜塔は存在しなかったと思います。

 

次に仏像供養塔として大日如来供養塔、地蔵菩薩供養塔、馬頭観音塔、聖徳太子像塔へと続き、その中で本埜地区をはじめ白井市域を含む北総地域に分布する「花見堂地蔵」のお話を詳しくされました。「花見堂地蔵」は、現在、建てた目的がわからなくなっていて、石塔に刻まれた「花見堂」や「童男童女」、「子供中」の文字、建てられた日が三月三日や三月吉日である事例が多いことから「おそらく旧暦の3月子供主体に地蔵様を祀り飲食した行事であったろうと推定されるがその実態は不明である。」とされました。

 

その次は信仰関係で富士講関連の石造物、印西大師等写し霊場に関する石造物、弘法大師供養塔等を紹介し、続いて本埜地区は低地に展開している集落が多いことから水の神を祀る石造物が多いとのことで、これは白井市域との違いが浮き彫りとなりました。集落立地の違いが信仰の違いに繋がっている事例です。見られる場所はいずれも安食卜杭・酒直卜杭・押付ヤシロ・本埜小林等旧埜原村の新田地区で、印旛沼の洪水との闘いの歴史を持つムラだそうです。主なものとして水神社と弁天社がありますが、白井市域は広い低地よりも樹枝状に伸びる谷津が発達しており、谷津頭の湧水のある場所には弁天弁天池がありますので、弁財天が祀られている事例は多いと思いました。

 

最後に、その他の神々として道祖神と天神等神像のある石祠の話、そして近代の記念碑・顕彰碑、平松基(幕臣の最上徳内の孫)の筆子塚、吉植家関係の碑、隣接する村との争いにまつわる義民碑の話をされて締めくくられました。最後の吉植家や義民碑の話は本埜地区に特有な石碑であり、白井市域でいえば「五十嵐善太郎翁顕彰碑」や「石橋源四郎氏顕彰碑」が該当するものかと思います。

 

現在も路傍や社寺境内で見ることができる石造物の概略をよく理解でき、今後、参加者自身による探求や調査にも役立つ機会となりました。

 

『印西市石造物調査報告書 本埜地区の石造物』の紹介

 

所謂「生首持型」と称される庚申塔の紹介

 

笠神地区の南陽院境内にある印西大師関連の石碑の紹介

 

白井市域の民間信仰に基づく石造物も紹介

(庚申塔群・道祖神等)