白井市郷土史の会令和5年12月例会を12月9日(土)午後、白井駅前センターを会場に開催しました。

タイトルは「千葉ニュータウンの歴史と発展-印西市域を中心に-」、講師は印西市教育委員会生涯学習課の大関枝美子さんです。

 

話は今回のテーマの中心となる印西市牧の原地区の千葉ニュータウン開発前夜として、江戸時代には幕府が設置した「印西牧」という牧場であったこと、昭和16(1941)年には印旛飛行場があり、滑走路は現存しないが掩体壕が1基現存し印西市指定文化財に指定されていること、終戦後には印旛少年院(昭和24(1954)年~昭和52(1977)年)が開設されていたこと、そして昭和23(1948)年から「船穂開拓」として開拓農業組合が設立されて農地として活用された土地であったことから始まりました。

 

そしていよいよ千葉ニュータウンの話です。

ニュータウンという言葉の話から入り、千葉ニュータウン計画が昭和41(1966)年に千葉県により発表され、面積(3,300ha)、人口(30万人)、自治体(船橋市・白井町・印西町)、事業年度(昭和41(1966)年~昭和55(1980)年の15年計画)、公共交通(用地中央に鉄道・道路の敷設)、手法(新住宅市街地開発法による)がまず紹介されました。事業の背景には首都圏での居住環境のよい住宅不足への対応、新東京国際空港と都心の中間地域の振興、千葉県の内陸部の開発があったそうです。

 

昭和45(1970)年に発表された地区計画では、41の住区(近隣社会としてのまとまりを保つことが可能な一つの区域)で構成し、1住区に1小学校、2住区に1中学校、高等学校は全体で9、鉄道駅は1~8駅とされました。

また、全体を3地区に分け、白井町・船橋市(小室地区)が市街化、印西町(中央)・白井町(桜台)がニュータウンの中心地区、印西町(牧の原)・本埜村・印旛村が田園的環境で市街地には向かないため教育文化施設中心と設定されています。

土地利用計画では、住宅用地約47%、公益的施設用地約18%、公共施設用地約33%、調整池・駅前パーキング約2%でした。

 

続いて、周辺町村の期待と反発(開発が大幅に遅れた印西地区の元印西町長の回想)と印西地区反対同盟の話、用地買収と買収価格の話、そして事業進捗率や昭和61(1986)年の新住宅市街地開発法の改正、更には平成19(2007)年の新住宅市街地開発法の規制緩和を踏まえた計画変更の話が紹介され、特に新住宅市街地開発法の改正や規制緩和によって住むだけの地域から「働く」「学ぶ」「憩う」という複合的な機能を持つことが可能となったことにより現在の発展へと繋がったと述べられました。

鉄道面では、現在ニュータウン地区を貫通している北総鉄道以外にも「成田新幹線」や「千葉県営鉄道」敷設の計画があったことは興味深いです。

なお、北総鉄道は平成3(1991)年に京成高砂~新鎌ケ谷間が開業、平成7(1995)年の印西牧の原駅・平成12(2000年)の印旛日本医大駅が各々開業、平成22(2010)年の成田空港~印旛日本医大間が開業へと続き、現在の姿となりました。

 

ニュータウンの入居開始は昭和54(1979)年で、白井市西白井地区・船橋市小室地区から行われ、昭和59(1984)年には印西市の千葉ニュータウン中央地区が入居開始となりました。昭和58(1983)年にはニュータウン地区内では今も唯一となる千葉県立白井高等学校が開校しています。

続いて平成6(1994)年には印西牧の原駅圏が、平成9(1997)年には滝野地区が、平成12(2000)年にはいには野地区がそれぞれ街開きし、開発の終了が見えてきます。

そして、平成26(2014)年には事業期間が終了し、最終的に計画面積約1,930ha、計画人口143,000人(109,455人)、計画戸数45,600戸(44,964戸)、17住区となりました。

※括弧内は令和5年10月現在の数値

 

最後に、千葉ニュータウンの住みやすさは、平成9(1997)年に大妻女子大が実施した調査では「住みよい」と回答した人の割合が多摩ニュータウンよりも低い数値でしたが、令和5(2023)年には「住みよさランキング」で印西市が千葉県下で第1位、また「本当に住みやすい街大賞2023」で白井市がシニア編で第1位等、変わってきていること、事業収束後、もう少し時を経ないと千葉ニュータウンの開発の評価(成功だった?失敗だった?)が出ないのではないかと述べ、話を締めくくられました。

 

ブログ管理人としては、今後も益々千葉ニュータウン地区及び周辺地域の発展を期待します。

 

 

大関氏による講演風景1

 

大関氏による講演風景2

 

大関氏による講演風景3

 

大関氏による講演風景4