赤穂市「大石神社」と港区「泉岳寺」 | 城取博幸のスーパーマーケット見聞録

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城取博幸が国内外のスーパーマーケットを回り、ヒットしそうな商品紹介を
して行きたいと思います。

播州赤穂城

兵庫県赤穂市にある城

開業1661年 崩落1873年

城主 浅野家、長井家、森家

赤穂城説明

案内図

大手門石垣

良寛歌碑

時間がなく今回は遠慮する

 

赤穂大石神社

忠臣蔵と大石神社

松の廊下事件(1701年3月)

江戸城中松の廊下で、勅使接待役の「浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)」が、指南役の当家筆頭の「吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)」に刃傷に及んだ事件

浅野氏は即刻切腹を言い渡される

 

赤穂事件(1702年12月14日)

長矩の家臣「大石蔵之助」ら四十七義士が吉良屋敷に討ち入り主君の怨みを晴らす

同時に幕区の失策に一矢を酬いる事件

2カ月後の2月4日、武士の名誉である切腹という処分を受ける

四十七義士の石像

大石蔵之助像

説明文

赤穂義士名簿

本堂

 

浅野家の家紋

「不入りの鷹の羽(別名虫食い鷹)」

この形は「違い鷹の羽」と違い白い虫食いがある

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)

播州赤穂城藩主 五万石

1667年 行年35歳

巴(ともえ)紋

巴門は縄文遺跡にも見られる非常に古い紋

雷神が背負う太鼓や討ち入りの太鼓にも描かれている

赤穂の塩

吉良氏が赤穂の製塩方法を聞いたところ

「門外不出」と申し出を断ったという逸話がある

塩はスーパーでも買えるので水分補給用のドリンクを購入

 

後日泉岳寺へ

地下鉄泉岳寺駅

泉岳寺は歩いてすぐ

泉岳寺

満松山

参道

案内図

本堂

よく見ると

徳川家康(家光移転)が建造した寺なのになぜ「七五桐」の家紋が?

まず線香を買ってお参り

自動着火機がある

二人目だ

手前に立てる

線香を立てお参りしてから

気になるので住職に聞いてみる

すると「この家紋は今川氏」であると答えてくれた

さらに縁起をよく読んでみると

萬松山泉岳寺の縁起

1612年(慶長17年)、徳川家康が幼年、身を寄せた「今川義元」の菩提を弔うため、

江戸城に近接する外桜田の地に創建した

1641年、焼失したため三代将軍「徳川家光」によってこの地に移転した

こに移転に際して「毛利」「浅野」「朽木」「丹羽」「水谷」の五大名が尽力して完成

 

「浅野氏」は泉岳寺が菩提寺であることが分かるが、

「今川氏」は「吉良氏」の分家

「足利義氏」⇒「吉良氏」⇒「今川氏」の流れだ

何の因果か家康が今川義元を菩提(死後の冥福)して建てた寺に、吉良上野介の首が持ち込まれた

「家康は怒っている!?」かもしれない

 

義士墓所

赤穂義士墓所参道

線香が売られている

珍しいスタイルだ

浅野内匠頭長矩の墓

ここに吉良上野介の首が置かれた

ここで疑問が

「吉良の首はその後どうなったのか?」

聞いてみると

「後日、二人の僧侶により吉良邸に届けられた」らしい

浅野家家紋の「不入りの鷹の羽(別名虫食い鷹)」

正室「阿久利(あぐり)の墓」

事件後は故郷の三次(みよし)に帰り落飾した

吉良家下屋敷に住んでいた阿久利に、討ち入り前日に大石倉之助が「旅行記」届ける

阿久利は「忠義を忘れたか」と怒りをぶつけたという

実は旅行記は赤穂四十七義士の連判状であったという

阿久利の家紋を見ると鷹の羽が違う

浅野長矩は左が上であるが、阿久利の家紋は右が上になっている

これも聞いてみると

阿久利は三次浅野家の出身で、三好浅野家の家紋だと言われる

なるほど

 

四十七義士の墓

赤穂事件後は四班に分かれて預けられた

左から「松平家御預け十人」

奥は「細川家御預け十七人」

中央に「毛利家御預け十人」

手前は「水野家御預け九人」

左から「松平家御預け十人」

奥は「細川家御預け十七人」

大石蔵之助の墓

中央に「毛利家御預け十人」

手前は「水野家御預け九人」

資料館

時間がなく今回は遠慮した

小泉商店の店主が赤穂事件について詳しいとのことで寄って話を聞く

一番の質問は「なぜ浅野長矩は宮中でありながら吉良に切りつけたのか?」

答えは「武士プライド」と答えてくれた

お土産に浅野家の家紋の入った塩羊羹を

キレイな花が咲いている

この柑橘類は?

 

「赤穂浪士は養命酒を飲んでいた!?」

 

細川家預けの下から二番目に

「矢田五郎右門助武」という名前が見える

矢田は討ち入りの時火鉢に刀をぶつけて折ってしまったため、他人の刀で戦ったという逸話がある人物

 

本当かどうか「養命酒駒ケ根工場」へ行って聞いてみる

400年の証

2階の展示場

養命酒の歴史

1602年創業 塩澤宗閑翁(しおざわそうかんおう)は人々の健康長寿を願って造り上げた零酒を「養命酒」と名付けたと言われている

「徳川家康が飲んでいた」とか

「赤穂浪士が飲んでいた」とか

「山本五十六が飲んでいた」とか

などの展示が前にはあったと記憶しているが一切ない

聞いてみると

それは「酒類製造許可」の時代

今は養命酒は「医薬品」

医薬品の場合は口伝ではなく、具体的なエビデンスが必要とのことで撤去したという

養命酒に発祥は上伊那郡中川村で工場は火災で焼失し資料は残っていないという

写真は「くらすわ」の売場

「CLASUWA(くらすわ)」は10月3日に拡張オープンする

楽しみだ

脇を流れる川

養命酒はこの川の水は使っていない

独自にボーリングして伏流水を使っている

最近川の水が危なくなってきた

鍋スープを買う

2色鍋をつくる

美味しくいただきました

後日、愛知県西尾市吉良町にお伺いし「吉良氏の言い分」を聞いてきました

また後日レポートします

次回は中世の山城岡山の「鬼ケ城(鬼城山)」をレポートします

「桃太郎」の「鬼」はいったい誰だったのか

「黍団子(きびだんご)」の意味は