「青天を衝け」と「伊那の国学」 | 城取博幸のスーパーマーケット見聞録

城取博幸のスーパーマーケット見聞録

城取博幸が国内外のスーパーマーケットを回り、ヒットしそうな商品紹介を
して行きたいと思います。

2回目のワクチン接種をしました

1回目と同じように筋肉痛のような痛み

少しだけだるさがあるが他に問題はない

 

道路の脇に赤い花が満開

思わず車を止めて写真を撮る

ポピーだ

毎年キレイな花を咲かせる

季節の花は撮影しておくようにしている

「青天を衝け」(NHKドラマより)

登場人物を紹介する

孝明天皇(1831年~1867年1月30日)

1863年、徳川家茂が上洛した時に、「攘夷の勅令」を下している

また、水戸藩に対し幕府の頭越しに「戊午の密勅(幕府改革の指示)」を出している

徳川家茂(1846年~1866年8月29日)

徳川14代征夷大将軍

病弱であったため、慶喜に将軍の跡目を望んでいた

1866年8月29日没 満20歳

5カ月後に孝明天皇逝去

岩倉具視(1825年)~1883年)
日本の公家、政治家

幕府に目をつけられ5年謹慎

佐幕から尊王へと変わる

明治政府に大きく影響を与えた人物

岩倉具視使節団

この写真を見れば岩倉の影響力の強さが分かる

岩倉は明治維新の表も裏もすべて知っていた

大久保利通(1830年~1878年5月14日)

薩摩藩士

西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)と並んで「維新の三傑」の一人

岩倉具視らとともに「公武合体」路線を目指した

慶喜の「大政奉還」に対抗し、「王政復古の大号令(江戸幕府廃止)」で慶喜を排除する

そこから「戊辰戦争」へと突入

松平春嶽(1828年~1890年6月2日)

越前福井藩16代藩主

橋本左内

テレビにはほんの一瞬しか映らなかった

松平春嶽公像(福井市立歴史資料館)

福井藩藩主「松平春嶽」

徳川幕府の幕政に関与

橋本左内(1834年~1859年11月1日)

福井藩士 春嶽の側近として江戸詰めを命じられる
「安政の大獄」で左内は投獄、処刑される

処刑された理由は曖昧

長州の吉田松陰と共に安政の大獄の被害者

由利公正((1829年~1909年4月28日)

福井藩士

明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らとともに「五箇条の御誓文の起草に参画

「太政官札」で渋沢栄一と対立し退官

1871年に東京府知事に就任

 

栄一と喜作の別れ

栄一は「勘定奉行頭」

深沢喜作は一橋派の「軍制所調役組頭」

小栗忠順(ただまさ 1827年~1868年5月27日)

江戸町奉行 外国奉行

フランスから600万ドル借款しようとしたが薩摩の横槍で失敗

取り調べもされぬまま斬首される

フランス公使 レオン・ロッシュ

「フランス&江戸幕府」VS「イギリス&薩長」の代理戦争となった

五代友厚(1836年~1885年9月25日)

薩摩藩士 1865年、薩摩藩遣英使節団として英国に出発

帰国後、薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任

戊辰戦争では西郷、大久保とともい倒幕に活躍

後に「鉱山王」と呼ばれるようになる

イギリス公使「ハリー・パークス」

通訳「アーネスト・サトウ」

通訳「アレクサンダー・シーボルト」

アレクサンダー・シーボルトは、日本地図を海外に持ち出したドイツ人医師「フランツ・シーボルト」の長男

このアレクサンダー・シーボルトが後に大きな問題を起こす

薩長同盟から戊辰戦争へ

これから時代は大きく変わる

 

話は天狗党の乱に戻ります

伊那谷の国学

天狗党は伊那谷を通り、木曽馬籠に進んだ

そこで、伊那の「国学者平田門下生」が道案内をした

武田耕雲斎

藤田小四郎

藤田東湖の四男

1863年3月、藩主徳川慶篤上洛に随従

長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞と交流する

天狗党を案内した伊那の国学者平田門下生

「尊王攘夷」を唱える国学者平田門下生は幕府から目をつけられ伊那に潜伏していた

伊那、木曽路行軍経路図

天狗党が通った道

国学とは

江戸時代中期に勃興した学問

儒教や仏教の影響を受ける前の古代の日本にあった、

独自の文化・思想・精神世界を明らかにしようとする学問

 

本学神社(下伊那郡高森町)

国学者を祀った神社

国学の四大人

源氏物語の研究「本居宣長(おとおりのりなが)」の名前も

高森町歴史資料館には四大人の遺品が展示されている

「高森町歴史資料館」「本学神社」「豊岡村歴史資料館」はまたの機会に詳しく説明します

松尾多勢子

幕末のガチガチの「尊王攘夷派」 国学者平田門下生

53歳で京都の上洛し、岩倉具視などと親交を深める

「木造さらし事件」

平田門下生の一部が足利家三代の木像の首を外し鴨川の三条河原にさらした事件

多勢子も容保に目をつけられ、長州屋敷に逃げ込み、品川弥之助と交流を深める

長州から短刀を賜っている(豊岡町歴史資料館に展示)

地元の話だと、多勢子の子供が天狗党を道案内をしたという

 

詳しくはユーチューブで

 

 

アン・ウォルソール「たおやめと 明治維新」

専攻 日本近世民衆史、女性史

お茶の水女子大、明治学院大学、国際基督教大学などの客員教授

今崎藤村「夜明け前」の研究から、「松尾多勢子」の生涯を英語で出版

後に和訳される

松尾多勢子の生涯

明治維新後の国学はあまり評価されないようになった

 

天狗党征伐に向かう慶喜

このころ慶喜は「公武合体」を唱えていたため、

天狗党の「尊王攘夷」とは考えを異にしていた

田沼意尊(1819年~1870年1月25日)

天狗党征伐総督

江戸時代の大名 遠州国相良藩主 上総国小久保藩初代藩主

曽祖父は「田沼意次」

1865年、越後国敦賀で降伏した天狗党武田耕雲斎ら352名を処刑

生かしておけば、天狗党が慶喜と合流することを恐れての処分とも言われている

次回は、江戸幕府パリ万博出展のもう一つの目的について

その前に、熊本のスーパーマーケットの紹介もしなくては

話題が飛んで申し訳ない