時は2024年10月。
5月いらい暑さに負け
、どこへも出かけてなかったんやな。

この日は、
JRで大和小泉→JRで郡山城下→近鉄で筒井城跡という工程だったと思う。
いうわけで、大和小泉城の紹介がまだでした
↓富雄(とみお)川

大和小泉駅から北西へ徒歩5分。
斑鳩町を南北に流れ、佐保川に合流する大和川支流の富雄川。
この川を越えた先すぐに、大和小泉城は存在した。
↓小泉中之町の大神宮灯篭

この前の道は大和街道。
お伊勢参りの道しるべで、全国に何百基とあるがそのほとんどは三重県と奈良県に集中して残っているという。
かつてここに橋は架けられておらず、渡しを安全に行う為の常夜灯だっただろうか。
嘉永五年と刻まれている。
↓金輪院山門

川に沿って北上。
金輪院(小泉庚申堂)。
↓小泉庚申堂本堂

小泉藩主片桐貞昌の時代、家臣で茶人の藤林直良が創建。大和国の庚申信仰の総道場だった。
↓境内の花壇

↓金輪院西門_内より

西門は小泉城移築裏門らしい。
降り棟飾り鬼瓦に片桐氏家紋の「割り違い鷹の羽」が刻まれている。
↓金輪院西門_外より

門のタイプは薬医門かな。
小泉城移築門という確たる証拠は見つかっていないが、家紋があるのでまず間違いなかろう。
↓大手枡形跡

この道の先に大手門があったようだ。
かつては南北に3回折れ曲がる枡形だった。その名残か、道が湾曲している。
↓土塁跡

大手門の辺りで、左手には樹木が生い繁ったエリアがある。土塁であったと考えられる。
↓親子塚

その樹木エリアに入ってすぐ、親子塚なるものが建つ。1613年に起きた小泉の仇討ち事件
で亡くなった親子の墓。

あらましは育ての親を殺された明石藩の若侍が、小泉でその仇を討ったが、仇討ち相手が実の父で、若侍も後を追うように自害したというもの。・・・なんてこと、悲劇や~

↓主郭への登り坂

主郭に向かう方向は、少し高台になっている。
↓片桐城址碑

突然道の片側が拓けたので、見つけやすかった。
片桐城址の碑。
↓堀跡

広場のすぐ脇に注目すると、幅広目の側溝が。
これ、堀跡という事らしい。
↓主郭への階段

広場の正面へ進むと、ちょっとだけ階段がある。主郭中心部はさらに高台にあるようだ。
↓主郭跡

階段を上がった先に、小泉城趾の碑。
碑の後ろの土地も同じ高台にあるのがわかる。
↓小泉城趾碑

昭和26年に建てられたそうな。
↓小泉城跡_説明

~小泉城年表~
- 室町時代、小泉氏により築城
- 1443年(嘉吉3)小泉氏、筒井氏と対立
- 1459年(長禄3)筒井順永により落城
- 1475年(文明7)筒井に攻められ再び落城
- 天文年間、小泉秀元、筒井順昭の姪を娶り
筒井氏重臣となる
- 1585年(天正13)筒井定次が伊賀へ移封されると、小泉氏も小泉の地を去る
- 1580年(天正8)豊臣秀長家臣・羽田長門が城主に
- 1601年(慶長6)片桐且元の弟・片桐貞隆が一旦城主になるが、関ヶ原戦
後、摂津茨木城主に移される
- 1623年(元和9)大坂の陣
後、幕府より16400石を与えられ片桐貞隆が返り咲き、小泉陣屋を築く
- 以降、維新まで片桐氏。
筒井氏と対立って・・・筒井城、こっから目と鼻の先やけどなあ

そりゃ大変。バッチバチ
やったろうなー。

↓顕彰碑

要約すると、
「この付近は小泉陣屋、また小泉神社のあった処として親しまれてきた。昭和二十三年、中学校建設にあたり、土地の所有者より市に寄附された事を顕彰するものである。昭和五十五年」
その片桐中学校
だが、昭和40年頃には廃校となり、現在では宅地として分譲されたようだ。
