長浜城下!!!~その1. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

長浜駅を通り抜け、商店街のある東側へ移動。

↓山内一豊と千代モニュメント
山内一豊と千代モニュメント
マンションの前にある目立たないモニュメント、山内一豊屋敷跡

像はシルエット調だが、一豊とその妻・千代の仲睦まじい様子雛人形を表現したものか。

↓山内伊右衛門一豊屋敷跡碑
山内伊右衛門一豊屋敷跡碑
通り沿いには石碑も。秀吉入城時の一豊の屋敷が、ここにあったらしい。とゆーことは、ここがいわゆる″功名が辻″って事かいはてなマーク

のちには城主になったんやから、もっと主張していい史跡やと思う。一豊像を造るとか。

↓秀吉と三成出逢いの像
秀吉と三成出逢いの像
長浜駅前。ここにあるのが、

秀吉公と三成公 出逢いの像


↓秀吉と三成出逢いの像_説明
秀吉と三成出逢いの像_説明
いやいや、法華寺って。
ここから北へ○kmぐらい離れてるしビックリマーク
まぁ同じ長浜市内ではあるけども。。


秀吉と三成出逢いの像2
おいおい、城主様やぞ。立たしとくんかいビックリマーク

ぷにゅたの中では、秀吉は座っているイメージやけど。


秀吉と三成出逢いの像3
この有名な三献の茶エピソード、実際に社長に対し実践した人いたらしい。そしたら中途採用で即、主任になれたらしいで。ホンマかどうか知らんけど。

↓長浜城家臣団屋敷碑
長浜城家臣団屋敷碑
説明のみで写っていないが、この右隣に長濱の地名起源歌碑というのがある。

竹中半兵衛が詠んだ歌で、「君が代も 我が代も共に 長濱の 真砂のか須(ず)の つき屋(や)らぬまで」メモとある。

↓豊国神社_鳥居
豊国神社_鳥居
豊国(ほうこく)神社神社は1600年創建。
1793年に再興された。

↓手水
手水
秀吉の馬印・瓢箪(ひょうたん)が手水舎(ちょうずや)についている。

↓豊国神社_本社
豊国神社_本社
この奥にある本殿は江戸時代中期のものだが、見えない。拝殿は1898年の築。

↓秀吉公座像と稲荷社
秀吉公座像と稲荷社
ここに秀吉像あるって知らんかったびっくりビックリマーク

2023年、長浜開町450年記念事業の一環として、クラウドファンディングなど広く寄付を募り設置された。
秀吉が長浜を治めた37歳頃をイメージして造られたそうだ。

↓秀吉公座像と本社
秀吉公座像と本社
奥の本殿には、恵比須神と豊国大明神が一緒に祀られている。これは、江戸時代に策を講じて恵比須宮として建設したため。

↓豊国神社_説明
豊国神社_説明
お読み下さい。

↓虎石
虎石
境内にある虎石。これははてなマーク

↓虎石の由来
虎石の由来
加藤清正こと虎之介が、城内の庭に献じた石。なるほど、それで「虎石」か。

↓加藤清正公像
加藤清正公像
お目当ての加藤清正公像だが、逆光バリバリ真顔で残念な写りになってしまったショボーン

長浜神社では秀吉のほか、加藤清正、木村重成も合わせて祀っている。

↓加藤清正公像_拡大
加藤清正公像_拡大
なので墨部を明るくする色補正。

兜ながっビックリマークコックかよ。
長烏帽子(ながえぼし)兜に十文字槍。

台座が高いうえに槍が長すぎて、槍の先端まで写せないよ~ん。あせる

↓清正公銅像再建略記
清正公銅像再建略記
戦前に造られたが、戦時中に金属供出されてしまい、台座のみ残されていた。

昭和56年に像が再建された。

↓黒壁スクエア
黒壁スクエア
黒壁スクエアとは、北国街道沿いに続く古い町並みの一角にある、旧黒壁銀行(愛称)を中心とした黒っぽい店舗群の事。

昭和時代末期には寂れた商店街となっていたが、今やこの盛況ぶり。
まちづくりの成功事例として全国のモデルケースとなっている。

↓米川
米川
米川
長浜のまちなかをジグザグぐぅぐぅに流れる。こう見えてなんと一級河川である。

長浜城の外堀の役割を果たした。




つづく。。。