忘れてた。月山富田城年表。。
- 保元・平治頃、平景清が築城か(伝承)
- 1221年(承久3)佐々木義清が守護となり、月山富田城に入る
- 1341年(暦応4、興国2)塩冶高貞追討の功により、山名時氏が守護、富田秀定が守護代となり月山富田城に入る
- 1343年、佐々木道誉が守護、吉田厳覚が守護代に
- 1364年、山名時氏が守護となる
- 1392年(明徳3)京極氏(佐々木氏)が守護に返り咲き、甥の尼子持久を守護代に
- 1484年(文明16)尼子経久、守護代を一時逐われ、その間、塩冶掃部介が守護代に
- 1486年、経久、月山富田城を奪回。以降、城域を拡大・整備し、実質的守護に
- 1537年(天文6)詮久(晴久)、家督を継ぐ
- 1543年(天文12)大内・毛利連合軍に攻められる(第一次月山富田城の戦い
)が、これを撃退
- 1560年(永禄3)義久、家督を継ぐ
- 1565年(永禄8)毛利氏に攻められ、翌年降伏(第二次月山富田城の戦い
)
- 1567年(永禄10)天野隆重が城代
- 1569年(永禄12)山中幸盛ら尼子再興軍に城を攻められるも、落ちず
- 城督・毛利元秋→末次元康→吉川元春→吉川広家
- 1600年(慶長5)堀尾吉晴、23万5千石で出雲・隠岐に入る
- 1611年(慶長16)堀尾忠晴、松江城に移り廃城となる
↓新宮党館跡_説明

チャリを駆使してさらに西へ。
新宮党館跡。
新宮党とは経久の次男・尼子国久の一族衆のことで、この辺りは新宮谷という。
尼子氏における軍事の中核を担った集団。いわば国久は軍奉行
のような役回りだったと思われる。

↓新宮党館跡

一族を祀った太夫神社
。

その左手に一族の墓所が玉垣に囲われている。
↓伝尼子国久・誠久・敬久の墓

近付いて見る。国久とその子、誠久・敬久の墓。
どれが誰のんか調べても判らなかったが、大きさから左のが国久、嫡男誠久が右前、敬久が右後ろかな、と。
新宮党は力を持ちすぎて、当主・尼子晴久の意に従わなくなったため、1554年(天文23)粛清された。一説には毛利元就の謀略に乗せられたとも。
※ ※ ※ ※ ※
新宮通りをさらに東へ進んで右手の山に入ると塩治掃部介の墓、伝堀尾忠氏の墓へ行けそうだが・・・
結構ヤブな山道の雰囲気なのと、バスの時間がそろそろ迫ってきたため、諦めてここで引き返す。
↓城安寺山門

城安寺墓地にはすでに行ったが、城安寺はまだだった(墓地と多少離れた位置にある)。
山門は、松平直諒の寄進によるもの。扁額も
直諒自身の書との事だが、撮れてないわ~。
↓城安寺_説明

正和年間(1312~1317)の創建だって。古刹やな。
↓城安寺山門_内側

安政6年(1859)建築された。
八脚楼門、上層部は四方高欄付の荘厳な門である。
↓城安寺本殿

朽ちかけてる、シっぶぅ~

↓伝尼子義勝の墓

城安寺訪問の真の狙いはこれ。伝尼子義勝の墓。
尼子義勝(または久幸)は経久の弟。吉田郡山城の戦いで討死した人物。
そーいや思い出したわ
以前に吉田郡山に行ったとき、タクシーの運ちゃんにワガママ言うて久幸墓所入口まで行ってもらったのを。

ここにも墓があったのか

↓伝尼子義勝の墓_概要

実は、参拝したときから今調べるまで、「勝久」と勘違いしてました
山中鹿之助に担ぎ出され、再興軍の旗頭となり、上月城の戦いで敗れ自害した人物と。。
なまえ、皆よー似とるからな、、
義勝さん、ゴメンなさい!
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↓尼子経久公像

新宮橋を渡って飯梨川西岸へ。南へ下る。
ここに尼子経久の騎馬像がある。

カッコええ像やな。
経久は大内氏一色であった中国地方から大きく勢力図を塗り替え、出雲守護となり、十一ヶ国の太守にまで登り詰めた文武両道の将である。
~尼子経久年表~
- 1458年(長禄2)尼子清貞の嫡男として誕生
- 1484年(文明16)出雲国守護代の地位を剥奪されるが、のち奪還
- 1511年(永正8)船岡山合戦
大内氏らとともに上洛し、足利義稙方として参戦、勝利
- 1517年(永正14)備後・備中・美作方面に出兵
- 1518年(永正15)嫡男・政久が討死
- 1519年(永正16)安芸・石見において大内氏と戦う
- 1524年(大永4)伯耆の城を次々攻略
- 1534年(天文3)塩冶興久の反乱を鎮圧
- 1537年(天文6)家督を孫の晴久に譲る
- 1538年(天文7)播磨の赤松氏に勝利
- 1541年(天文10)晴久が吉田郡山城の攻略に失敗、撤退する。同年、月山富田城において経久死去。享年84
↓尼子経久公像と月山富田城跡

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北上し、飯梨川から少し離れる。
↓山中公一騎討之處碑

駐車場の奥と住宅の間のわかりづらい場所にあった。
世に忘れ去られた史跡、山中公一騎討之處碑。
↓川中島一騎討之処_説明

毛利氏が攻めた1565年、第二次月山富田城の戦いにおける一場面。
毛利方の品川大膳将員(まさかず)が、勇将・山中鹿助幸盛を相手に一騎討ちを挑んで敗北し、首をあげられた。
付近に品川大膳の墓もあるが、GoogleMap上で「閉鎖中」となっていたので諦める。
※ ※ ※ ※ ※
↓山中鹿助を大河ドラマに

鷺の湯への帰り道。この歩道では行きも帰りも一人もすれ違わなかった。快適な道♪
大河ドラマぁ
、。ムリちゃうかな~


個人的には見てみたいけどな。
↓鷺の湯の滝

鷺の湯温泉の近くに滝が

行きは気づかなかった
滝の名はいざ知らず。

この後、無事レンタサイクルを返却。この日は暑かったにも関わらず、タオルを家に忘れてきてしまったようだ。
なので、さぎの湯荘で手拭いを売ってもらった。
↓ソフトクリームで一息

喉が乾いた~。バスを待つ間にソフト🍦や。
我慢できず、一口食べとるやないかい



帰りのバスは安来行きではなく、米子駅行きに乗る。
この日はここで終了し、米子のホテルに一泊する。
おわり。。。