穴山梅雪&平重衝最期の地!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

本日は、墓マイラーお願い。。

(マニアック度★★★★)

 

↓飯岡墓地_遠景

飯岡墓地_遠景

JR東西線・学研都市線地下鉄に乗り、三山木駅で下車。

のどかな北東の方角へ歩いて行く走る人

 

田んぼの先に見える茂み霧の中へ入っていく。

 

↓飯岡墓地

飯岡墓地

駅から16分程度だろうか。飯岡墓地という所に行き着いた。

 

たくさんのお墓が。この中から見つけられるだろうか。

 

↓穴山梅雪の墓

穴山梅雪の墓

果たしてそれは、あっさり見つかった。「穴山梅雪の墓」

手前に「穴山梅雪翁墓」と刻まれた石碑が建つ。昭和三年建立の石碑だ。

 

ここへ行った(訪問は2021年10月)後、ここがテレビで紹介されていてビックリびっくり

確か著名人グラサンが来てたはずだが、何の番組やったか忘れた。。

 

武田信玄カブト重臣のお墓が、京都郊外にひっそりの何故はてなマークはてなマーク

 

↓穴山梅雪の墓_説明板

穴山梅雪の墓_説明板

穴山梅雪(あなやまばいせつ)は信長に拝謁するため、徳川家康に同行して上洛。

 

無事所領を安堵され、家康と堺見物に出掛けていた折に、本能寺の変が起きた。

家康は伊賀越えルートをとって無事三河に帰り着いたが、梅雪は木津川原で落武者狩りに遭い、不慮の死を遂げた。

 

旧来の一般認識では、家康とは途中から別ルートを取って落命した、とされてきた。

だが、説明板によると、一行は二組に別れ時間差をもって木津川を渡ろうと意図し、後発の梅雪組だけが襲われた、という。

 

ともかく言えるのは、この時家康が死んでいても何ら不思議ではなかった、ということを、梅雪の死は物語っている。

 

↓穴山梅雪主従の墓

穴山梅雪主従の墓

4基の五輪塔。中央が梅雪のであろうか。

 

地元の人々は、木津川傍らに放置されていた武将の遺体を埋葬し、その武将を穴山梅雪、と語り伝えてきた。

墓地はもともと草内(くさじ)の渡し近くにあったが、木津川氾濫の恐れもあり、近世に現在地に移された。

 

↓武田二十四将の図より抜粋

以前行った、長篠で展示されていたレプリカより。

 

穴山梅雪は名を信君(のぶただ)という。

読み方は「のぶきみ」だと、今の今まで勘違いしてました。ハイ。あせる

 

ネット民からは、親しみを込めて「アナ雪」と呼ばれることも。。

 

武田の一門衆で、武田二十四将のひとり。

 

所領は富士山西麓で、主に今川氏との間の折衝・防衛という重要ポジション任される。

勝頼の代となり、徐々にしこりえー?が生まれ、武田を見限った(家康の斡旋で信長に通じた)という。

 

↓段々状の茶畑

段々状の茶畑

墓地のすぐ横に茶畑お茶が。

飯岡地区は、玉露の里といわれ、高級なお茶お茶の産地として有名だそうだ。

 

↓飯岡車塚古墳

飯岡車塚古墳

近づいてみると、茶畑は飯岡車塚古墳という古墳だった。どうりでコンモリしている。

前方後円墳で、いろいろ発掘されているようだ。

 

この辺り、飯岡丘陵には多くの古墳が存在している(飯岡古墳群)。

 

↓下り坂

下り坂

墓地を後にして飯岡丘陵の坂を反対側へ降り、木津川を目指す。

 

↓用水発起豊田翁之碑

用水発起豊田翁之碑

明和年間(1764~1771)、飯岡村に独力で用水・排水路を開削した、豊田武兵衛を顕彰して建てられた。

 

↓飯岡の渡し場跡

飯岡の渡し場跡

そのすぐ横にある、飯岡の渡し場跡。

 

梅雪はここで船に乗り、木津川を渡ろうとしていた所を、土民に襲われたという。

(又は、ここより北の「草内の渡し」で討たれたとも)

 

↓穴山梅雪最後の地

穴山梅雪最後の地

石碑の先は、すぐ木津川堤防。

目の前には船の形をあしらった公園がある。

 

↓ふ船休み公園

ふ船休み公園

ここが渡し場であった事を想起させてくれる演出。

この船形ベンチで昼食おにぎりとしよう。

 

食べてる間、ロードサイクリング自転車する人がしばしば前の道を通っていった。

ここは有名なサイクリングコースなのだろうか。

 

↓ふ船休みからの景色(東)

ふ船休みからの景色(東)

風光明媚やね~キラキラ

都会の喧騒を忘れさせてくれるわ~照れ。。

 

↓ふ船休みからの景色(南東)

ふ船休みからの景色(南東)

玉水駅のある方角。

 

↓木津川と玉水橋

木津川と玉水橋

現代人は、船を使わずともあの橋を渡れば東へ向かえる。

 

↓穴山梅雪の墓のある丘_遠景

穴山梅雪の墓のある丘_遠景

さて、次はあの玉水橋を目指して歩こう。

途中で右を見ると、さっきまでいた飯岡丘陵

 

奥に田辺病院があって病院のさらに奥に、梅雪墓と車塚古墳があった。

 

↓三山木駅方面

三山木駅方面

丘陵の左側はのどかな田園地帯、美しい照れ

三山木駅のある方向で、行きはあっちから歩いてきた。

 

↓木津川(下流方面)

木津川(下流方面)

玉水橋にさしかかった。木津川が美しい。

川は、堤防を固めすぎず、割と自由に流れているのがGoodビックリマーク

 

お気付きの方もおられるかと思うが、ぷにゅたは川、海とか橋、大好きかも。。

 

↓玉川

玉川

木津川分流の玉川も一気に越えてしまう。大きな橋だ。

 

かなり歩いてJR奈良線の玉水駅で電車に乗る。

3駅で木津駅に着くので、下車する。

 

↓安福寺

安福寺

駅から7分で安福寺。平重衝の墓がある。

 

↓平重衝供養塔

平重衝供養塔

山門くぐってすぐ左手にある。

十三重供養塔だ。何故か手ブレしてしまった。

 

平重衝供養塔2

一ノ谷の戦いで敗れ、西へ向かいわずか2騎で落ち延びよう競馬競馬としていた重衝(しげひら)。。

 

須磨寺近くで敵に追いつかれた時、家臣に見捨てられた事もあり、生け捕りにされてしまった赤ちゃん泣き

 

↓平重衝とらわれの遺跡碑

以前に訪れた、須磨寺駅近くの捕縛場所。

 

その後鎌倉へ護送され、源頼朝と引見し、頼朝は彼の器量に感心して厚遇した。

 

だがしかし、重衡を憎む南都衆徒の強い要求によって(重衡は以前、興福寺、東大寺などを焼き尽くした)、身柄は引き渡され、木津川畔にて斬首された。享年29歳。

 

↓平重衝首洗池への道

平重衝首洗池への道

近くに平重衝首洗池なる場所があるようなので、見に行く。

この先の狭くなる道の先にある。

 

↓平重衝首洗池

平重衝首洗池

木津川堤防にほど近いところに、このような自然な感じの所がある。

池といっても鉄道開通などのため、池は消滅してしまっているが。

 

↓不成柿の石碑

不成柿の石碑

柿の木のたもとに「不成柿」と刻まれた碑があり、説明板もある。

 

斬首した首を、ここにあった池で洗ったという。

 

重衝は死の間際に柿オレンジを所望し食べた。

処刑後哀れに思った土地の人がここに柿の種を植えたが、一向に実らず「不成柿(ならずがき)」と呼んだという。。

 

↓不成柿

不成柿

・・・って、、成っとるやないかいビックリマークビックリマーク

 

季節は10月、さすがに柿オレンジも代変わりが進み、現在では実をつけるようになっているようだ。

 

↓コスモス

コスモス

秋を感じられる花。首洗池の近くのお家で育てられたコスモス。

 

↓木津川橋梁

木津川橋梁

すぐ北にある土手へ上がってみると、何と堤防上の細い道のために踏切が設けられているではないかビックリマーク

これはチャーンスビックリマークとばかり、踏切に侵入し、狙った画が撮れたカメラ

 

正面から橋梁の内部が見れること、なかなか無いでニヤニヤビックリマーク

穴場ではないだろうか。

勇気ある方は、電車をよけながら橋を渡ってみ・・・

 

 

 

おわり。。。