長島城!!!~その2. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

信長は天下一統を目指すようになってのち、自分の意に従わない厄介そうな勢力については、急いで攻めることをしない。

通行の妨げにさえならなければ、表立っての敵対を避けてきたとも言える。

木曽・長良・揖斐の三川に囲まれたデルタ地帯下三角にある長島も、そのひとつだ。

 

長島は願證寺創建いらい、一向宗信者を増やし武装化、国主を追い出し、自治体制をしく厄介な存在に。

そこへ服部左京亮、石橋義忠、斉藤龍興など信長に敵意を持つ者ムキーが逃げ込み、さらに目の上のたんこぶとなっていた。

 

1570年、信長は、石山本願寺に大坂からの立ち退きを要求。

これを機に、宗主の本願寺顕如(けんにょ)は信長と対決する事を決意ムキー、全国各地の門徒に檄(げき)を飛ばした。

長島も、顕如の檄により立ち上がったグーガーン(長島一向一揆)

 

 

↓丸石の石垣

丸石の石垣

願證寺から大通りへ戻る途中の一枚。

地盤が悪いためか石垣を組んでいるのだが、至る所で丸い石垣が目についた。

この辺りで取れる石なのだろうか。

 

↓旧長島城大手門

旧長島城大手門

願證寺から徒歩7分。蓮生寺。

この寺の山門は、長島城の大手門を移築したものだそう(ただし、大幅に縮小されている)。

長島城の数少ない遺構のひとつということだ。

 

↓旧長島城大手門_説明

旧長島城大手門_説明

 

↓旧長島城大手門_門内より

旧長島城大手門_門内より

高麗門スタイル。

控え柱の上の屋根の鬼瓦には、増山雁金(ましやまかりかね)の家紋が(飛ぶ鳥みたいなやつ)。

増山氏が城主となったのが1702年なので、それ以降のものか。

 

* * * * *

 

長島一向衆は、まず尾張の小木江(おぎえ)城を攻め、信長の弟・信興(のぶおき)を切腹に追い込んだ。
これに激怒した信長はついに軍を率いて討伐に向かった。

しかし・・・この戦いは一筋縄ではいかなかった。

  • 1571(元亀2)年、第一次長島攻撃。兵5万。砦付近を放火に留め、退却。長島方の追撃ナイフを受け、氏家卜全は戦死、柴田勝家も負傷救急車
  • 1573(天正元)年、第二次長島攻撃。兵8万。長島側に味方した北勢の土豪たちを降伏させた。予定していた船が調達できず退却。またしても追撃ナイフを受け、林秀貞の子らが戦死。
  • 1574(天正2)年、第三次長島攻撃。水軍合わせて兵12万。5つある砦のうち2つを落としたのち、陸海を大軍で取り囲み兵糧攻めネガティブ。3ヶ月後長島方は降伏を申し出て信長はこれを承諾。落ち延びようとする長島方。ところが・・・
  • 信長軍が一斉射撃銃(世紀の騙し討ち)。騙されたのを知った長島方ムキーは決死の反撃を行なった。信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成、叔父・織田信次らが討ち死に。
  • 残る2砦は、周囲に幾重にも柵を設けて閉じ込め、焼き殺したメラメラ2万の男女が焼け死んだという)。
  • これは、現在の長島町の人口の約二倍の人々が殺されたことになる。
・・・信長がカッコいいだけの人やと思ってる人らに、この話したろグラサン。。
 
* * * * *
 

↓中州の先端

輪中の先端

旧長島城大手門より徒歩8分。長島川が分流している箇所。

 

又木茶屋お茶、願證寺、旧長島城大手門らは中州にある。

長島城跡は右の川の先の、右岸にある。

 

↓JR線の鉄橋

JR線の鉄橋

大体見終えた。

なばなの里キラキラ長島スパーランド温泉には見向きもせず、長島を後にする。

 

近鉄電車車窓から北方向。

JR線が平行して長良川・揖斐川を渡っている。

 

↓養老山地

養老山地

一旦桑名駅で降り、養老鉄道地下鉄に乗り換え、25分。

美濃山崎駅で降りる。450円って切符高けぇなぁ不満

 

さらに駅から東へ抜け、のどかな農道カエルを南へ。

 

歩くこと12分走る人

決して楽に行ける場所ではない、こんなに苦労してまで、わざわざいったいどこへ行こうというのかはてなマーク

 

↓卜全塚への道

卜全塚への道

10分ほど南下した所で西へ向かい、再び養老鉄道の脇まできた。

ここまで来たら少し北へ戻る(迂回する感じ)。

 

もう、見えている目

 

↓卜全塚

卜全塚

のどかな田園風景の中にたたずむ墓。「卜全塚(ぼくぜんづか)」だ。

亡骸が、ここに葬られているとのこと。

 

背後には揖斐川の堤防も見えている。

 

↓卜全塚_説明

卜全塚_説明

氏家卜全(直元)は美濃三人衆のひとりで、斉藤氏滅亡ドクロ前後、信長に仕えた。大垣城主。

 

1571(元亀2)年の第一次長島攻撃に参戦。退却のおり殿(しんがり)を努め、奮戦するも一揆衆に囲まれ討ち死に。

 

「信長の野望」では、同じ美濃三人衆の稲葉、安藤に比べパラメータは地味だが、名前にインパクトがあるので知っている方も多かろう。

なお、氏家ト全(うじいえとぜん)は漫画家でこの戦国武将からとってペンネームにしている、らしい。。関係ないか。。

 

卜全塚2

別角度から。

「昭和十三年十月建立」とある。どおりで墓石に風合いが出てきている。

 

↓ハグロトンボ

ハグロトンボ

ここにやたら飛んでいた黒いトンボ。

 

この地で命を落としたであろう、氏家軍の多くの兵たち。

現し世(うつしよ)に現れた、彼らの姿に思えてならなかった泣くうさぎ

 

胴具足は黒かったのだろうか・・・

 

↓揖斐川

揖斐川

卜全塚を後にし、線路沿いにさらに南下、突き当りを左へ行くとすぐ揖斐川に出た。

 

卜全の進退極まった場所は、山脈(養老山地)と大河(揖斐川)に挟まれた湿地帯スライムだった。

現在でも変わらぬその地形を確認することができて満足だ。

 

↓海津橋

海津橋

1979年開通。川と川に挟まれた地域と、川西側を結ぶ橋。

 

↓シャディサラダ館みのや

シャディサラダ館みのや

卜全塚からさらに南へ徒歩13分の所にあるギフトショッププレゼント

知っていなければ、まず見逃すであろう、店の右たもとに注目注意

 

↓卜全澤の碑

卜全澤の碑

卜全澤(沢)の碑

石碑の下部には、「元亀二年五月十二日 長島合戦 氏家卜全戦死跡」とある。

氏家卜全の首を洗った沢の跡だという。

 

あるいは、ぬかるみにはまって身動きできなくなり、討たれてしまったのだろうか。

石碑のあたりは、現在では沢という雰囲気は感じられなかった。

 

↓大垣藩御蔵跡碑

大垣藩御蔵跡碑

通りを挟んで向かい側にも何やら石碑が。「大垣藩御蔵跡」。

 

これら2つの碑の側面に「昭和七年三月海津橋道路取付地形変更記念建立」とある。

初代の海津橋を造った時に、2つの石碑が建てられたものらしい。

 

↓氏家卜全と戦死者の供養塔

氏家卜全と戦死者の供養塔

ギフトショップの前から、川べりの道に出る道がある。

突き当たりの堤防のたもとに、チョコンと目立つ供養塔が。

 

↓氏家卜全と戦死者の供養塔_説明

氏家卜全と戦死者の供養塔_説明

この地で亡くなった、氏家卜全をはじめとする戦死者の供養塔だ。

ここに、卜全沢の説明もあわせて書いてあった。

 

氏家卜全と戦死者の供養塔2

 

↓海津市_散策コースマップ

海津市_散策コースマップ

卜全沢から徒歩6分で、美濃山崎駅のひとつ手前の石津駅に到着。

駅にあった散策コースマップ。

 

・・・あれはてなマーク・・・卜全さん無視されてるはてなマーク

 

もっとアピールしてほしいねぇ、海津市さんビックリマーク

信長の野望ユーザーには、割と有名なんよ!?

 

 

 

おわり。。。