「姫路城!!!~その2./4回」は、→こちら。。
↓備前門の石棺
コロナ対策で、天守を公開していない(訪問は2021年6月)ので、本丸(備前丸)を後にする。
江戸時代には備前丸に城主らの居館があり、勝手口のような役割を果たしていた門。
門扉だけでなく、柱や梁(はり)も鉄板で覆われている。
右柱のすぐ脇に縦長の大きな石。古代の石棺を石垣に転用している。
(くりぬかれた部分は、内側に隠しているため見えない)
↓備前門
階上の渡櫓(わたりやぐら)の部分は、明治15(1882)年の火災でほかの備前丸の建物とともに焼失してしまい、門だけが残されていた。昭和38(1963)年元の姿に復旧された。
門を出て、向かって左の建物は井郭櫓(いのくるわやぐら)。櫓の中に井戸を構える珍しい櫓。
重文だが、この日は井戸は見れなかったハズ。。
↓帯曲輪
右側のが本丸東面石垣。
左には帯の櫓(おびのやぐら)入口と土塀が続き、正面は太鼓櫓となっている。
↓帯の櫓入口
石垣をくりぬいて造られた埋門(うずみもん)。ここから降りていって帯郭櫓(腹切丸)へ行けるが、この日は立入禁止
エリア。
↓本丸東面石垣
石垣を拡大。真四角の切石が目に付いたが、特に説明は無かったと思う。
↓白漆喰(しろしっくい)屋根瓦
帯郭櫓(腹切丸)はここより一段低い位置にあるので、天守に上れなくても屋根の様子が見れた。
白い部分の面積が広い。なるほど、遠目には白く見えるわけだ。
↓太鼓櫓と「りの門」
帯曲輪から上山里曲輪へと出てきた。
「りの門」の解体修理中に、軒天井板の裏面から「慶長四ねん 大工五人」の墨書きが見つかっている。
慶長四年といえば関ヶ原の戦いの前年にあたり、姫路城主は北の政所の兄の木下家定
だった。
つまり、池田輝政が増改築を行う以前の建造物、ということが確定している。。
「への櫓」は通称「太鼓櫓」と呼ばれている。
だが、明治時代以降にここに太鼓を保管していただけで、本物の太鼓櫓は三の丸にあったという(なお、保管していた太鼓もどこかに行ってしまった)。
↓本丸石垣_南面
上山里曲輪(二の丸)。そこそこ広い。
本丸石垣もそこそこ高い。
↓お菊井
ここ二の丸には、世にも有名な「お菊井(戸)」がある。
すると、この中にお菊さんの亡骸が・・・
ひょっとすると、覗き込むと声が聞こえてくるかも・・・
なんて事は大正元年の姫路城公開時に、仕組まれたプロモーションの一つ。
お岩さんの話を始め、この手の怪談は全国いたる所にある。
↓天守、小天守、お菊井
↓上山里曲輪から見る天守、小天守
備前丸(本丸)から見るより見栄えがするのは、高石垣の上に乗っているからか。
↓ぬの門扉
りの一渡櫓、りの二渡櫓、ぬの門は修復工事中だったようだ。
何故写真が無いんだろう、と思っていたら扉の向こうに足場が組まれているのが見えるので。
↓扇の勾配
たっけーーーー
隅部は短辺と長辺を交互に積む「算木積み」。
この積み方が用いられるようになって強度が増し、高い石垣を一段でそびえさせる事が可能となった。
この上は備前丸だ。
↓備前丸石垣
下の方に、前に四角く飛び出した石垣が
これは、江戸時代に石垣が前方に膨らんできたので、崩壊を避けるために抑えとしてあとで積んだ石垣との事。
裏込石(うらごめいし)が見れて、石垣の仕組みがお勉強できるよね。
↓西北腰曲輪下の石垣
正面の土塀が「はの門東方土塀」、正面の二階建てが十字架紋のある「にの門櫓」、
一段低い左端は「はの門櫓」かと思うが、違ったらゴメン。。
土塀に石落としがつくのは、極めて珍しいが・・・(西の丸渡り廊下にもあるそうな)
↓「いの門」と「ろの門」の間から天守群を臨む
左が乾小天守(いぬいこてんしゅ)で右手前が西小天守。その奥が大天守。
西小天守(3階)よりも乾小天守(4階)の方が高かったんだね。知らなかった。
乾小天守の最上階には火灯窓(かとうまど)が、・・・写真では見えるかな
↓いの門(裏)
登城するとき、必ず通過するであろう門。
通常の順番は、、菱の門→いの門→ろの門→はの門・・・
だが、今回は、、菱の門→西の丸→はの門・・・で登城し、
帰りに、、・・・ぬの門→いの門→菱の門で下城するよう、
ルートが定められていた。
ろの門は写真背後にあるが、行きにチラ見したのでまぁいっか
。。
↓ろの門(裏)〈再掲〉
↓いの門
いの門から出てきて振り返った。
ろの門と同じ高麗門スタイル。似ていて混同してしまいそうだ。
いずれも門としては脆弱な造り。わざとこっちに敵を誘い込もうとしているのか。
↓三国堀と天守群
ここからのカットもなかなかいいね!
右の方の工事中のシートが残念だが・・・
堀の上にも狭間(さま)がきられている。
この方形状の堀のせいで、軍団は列にならざるをえない。
つまり、丁度狙われやすい状態が、ここ三国堀曲輪を通過するまでずっと続くこととなる。
↓三国堀石垣
目を凝らすと、中央辺りの石垣に隅石が向かい合ってた痕跡、はっけん。
秀吉が城を築いた頃は、ずっと北の方に堀が続いていたという。
池田輝政が奥の方の堀を埋め立て、石垣を補充して塞いでしまったようだ。
↓るの門_遠景
ここから東の方へは見学できないように導線が張られていた。
ロープ越しに拡大するも、あちらは行き止まりにしか見えない。
よーく見ると三国堀(木柵がある所)の先に、石垣に窪みがあるのが確認できる。
あれが「るの門」で、伏兵があっちから出てきて背後を襲われる仕組み。
↓菱の門(裏)
心残りだが、有料エリアを後にする。お帰りは菱の門(裏)を正面から見れる。
ロープの右側が、西の丸へ続く登城ルートで、こっちには来れなくなっていた。
400年以上を経て現存の門。よくぞご無事で。
↓天守の庭
菱の門を出て退場。真っ直ぐ進むと、「天守の庭」・・・これは
天守を支える地盤が徐々に沈下し、高低差を生じてしまった。
そこで昭和の解体修理時に天守基礎をコンクリートで固めた。
取り除かれた従来の礎石を、もとの配置で再現展示したのがこれ。
総重量6,000トンといわれる天守を、長年支えてきた彼らに拍手っ
つづく。。。