近年になり、秀吉の「中国大返し」の際の「御座所(ござどころ)」として注目を集めている兵庫城
そんな事を予見したのか、2020年1月、ぷにゅた、兵庫城に行ってました
三宮・花時計前駅(三ノ宮・神戸三宮から連絡)から市営地下鉄・海岸線に乗り6分、中央市場前で下車する。。
↓兵庫城跡発掘調査地
石垣のモニュメントっぽいものと説明書きをすぐに見つけた。
場所は、駅北口から出て左に行くとすぐ。イオンモール神戸南店の前にある。
先日TVで、千田先生がこのモニュメントの前に立って説明してはった。
(興奮気味に)ぷにゅた:「去年、ここ行ったねん」
家族:「・・・はいはい。」
↓兵庫城跡発掘調査_説明
現在では兵庫城はその形状を留めていない。
が、イオンモール建設前の発掘調査で、その姿がやや明らかになった。
現在は埋め戻されて見ることはできないが。
↓イオンモール内展示ブース
現在、イオンモール2階の端にちょっとした休憩スペースがあり、そこの展示ブースで発掘されたものを見る事はできる。
↓イオンモール内展示物
鬼瓦、軒瓦、食器類、キセルや人形など。。
↓展示物2
発掘の様子がわかる写真をもっと撮るべきだった。
~発掘成果まとめ~
- 東西、南北に140m~160mで、周囲には幅3.6mの堀があった。
- 当時最先端の技術「胴木(どうぎ)組み」が採用されていた(海城など地盤が緩い場所で、基礎を安定させる)。
- 注目すべき点は、本丸には正面に入口が2箇所設置されている事。兵庫城は、毛利氏の支配する中国地方征伐の重要拠点の一つ。御座所として使用すべく、信長一行が素早く入城できるようにしたものか。
京都から岡山までの街道沿いに整備された御座所には食料の備蓄があり、大勢が寝泊りもでき、留守を預かる城主から手厚いサポートを受けることができた。信長を接待するための施設が、中国大返しの際に自軍のために役に立った、というわけだ。
↓兵庫運河(南西方向)
どうしても兵庫城跡を俯瞰で見たくて、イオンの屋上へ。
屋上は駐車場なので、車に注意しながら撮影。
目の前の運河を開削時に、城中心部の大半が削られてしまったとの事だ。
対岸の正面あたりに「兵庫城跡碑」がある。
↓兵庫運河(北方向)
運河の北は右に折れ曲がり、すぐ海に繋がっている。
このイオンモールのある中之島は運河により、ほぼ島となっている。
古代大輪田泊の石椋(未訪問)が、あの突き当たりにある。
なので、古代の国際港はこの写真が捉えた辺りが中心地だったのかも。
↓清盛くん
イオンモールすぐ前にある「清盛くん」。大河ドラマやったからか
可愛いというより、不気味さを感じてしまう。
神戸市としては、兵庫城より平清盛オシのよーだ。
↓平清盛年表
64歳は、当時としては長生きだな~。
何といっても、武士の地位を飛躍的に向上させた人。
↓兵庫津遺跡_説明
兵庫津は日宋・日明貿易の拠点となり、その後も港町、宿場町として町屋が形成され、大いに栄えた。
変なものが写りこんでるな~、、消し消しっと。
↓イオンモール外観
先ほどはあそこに見える屋上から撮った。
運河とイオン、この写真の辺りに兵庫城があったのだろうか。
それにしても水位が高いなぁ。大雨降っても大丈夫
↓兵庫運河_説明
肝心な説明の部分が撮れていないが・・・
4つの運河(兵庫・新川・刈藻島・新湊川)を総称して「兵庫運河」という。
日本最大級とのことだ。
↓兵庫運河
北方向を振り返る。渡ってきた橋と遊覧ボート乗り場が見える。
↓兵庫城跡碑
兵庫城跡の碑。
1580(天正8)年、摂津を支配していた荒摂(荒木村重)を滅亡させた信長は、、
兵庫を池田恒興(信輝)に与え、兵庫城を築城させた。
↓兵庫城跡碑_裏面
石垣は花熊(花隈)城より再利用した、とも伝えられる。
江戸時代は、兵庫奉行の陣屋として使用された。
背後では、ちょうどボートが出発したところのようだ。
↓兵庫城跡・兵庫県庁_説明
兵庫城略年表
1580(天正8)年 池田恒興が築城。
1583(天正11)年 池田恒興、美濃へ転封。兵庫は三好(豊臣)秀次に与えられる。
1585(天正13)年 秀吉の直轄領に。片桐且元が代官となり「片桐陣屋」と呼ばれる。
1617(元和3)年 尼崎藩領となる。「兵庫陣屋」が置かれ、奉行が駐在。
1769(明和6)年 幕府直轄領となり「勤番所」が置かれる。堀が埋められ町屋となる。
1868(明治元)年 兵庫県庁が置かれるが4ヶ月で移転する。
1874(明治7)年 新川運河開削により、中心部の大半が削られる。
つづく。。。