延岡城!!!~後編 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

前編で通称「千人殺しの石垣」をすでに見た。

後編はいよいよ天守へ。

 

↓二階門跡

二階門跡

本丸から再び二階門跡を見下ろす。

門の礎石があった所に、石畳が敷かれている。

 

↓本丸

本丸

 

↓本丸跡碑

本丸跡碑

見切れているが、内藤政挙(まさたか)像。

最後の藩主にして「延岡の父おじいちゃん」とも呼ばれる。

内藤家所有の余剰電気を、安い料金で町民に供給するなど、延岡の近代化に貢献した人物。

 

↓続日本100名城ののぼり

続日本100名城ののぼり

2006年発表の「日本100名城」に続くものとして、2017年に選定クラッカー

付近では中津城、臼杵城、佐伯城なども選定されている。

 

↓天守台石垣

天守台石垣

本丸から天守に向かう途中にあったので、天守石垣かと思われるが、延岡市パンフレットには載っていないので後世に積まれた石垣だろうか。

 

↓天守台跡

天守台跡

天守曲輪ともいうべき広さ。結局のところ、天守は一度も建てられた事がない。

 

↓天守台跡碑

天守台跡碑

背後にある家は鐘守さんの家。

 

↓延岡城石碑

延岡城石碑

↓城山の鐘

城山の鐘

1656(明暦2)年、有馬康純が今山八幡宮に寄進。その後城内に移され、市民に時を報せてきたベル

「日州延岡城主 有馬左衛門佐」の銘が刻まれた鐘で、これが現在確認できる「延岡」の文字の所見資料上差し

初代の鐘は内藤記念館で展示されている。

 

現在のは二代目で、今なお一日6回、鐘守の手によって鳴らされている。

 

花々

 

↓天守からの眺望

天守からの眺望(東南東方面

天守からの眺望は南東~東に限られる。

東南東方面。

城のすぐ南を流れる大瀬川とすぐに流れ込む太平洋波

中央が安賀多橋、その奥の左端のが須崎橋。

 

↓天守からの眺望

天守からの眺望(南東方面

南東方面。旭化成の工場が見える。

大瀬橋と、右端の山は愛宕山富士山

 

↓天守からの眺望

天守からの眺望(東方面

東方面。中央通りが見える。

手前左手に見える建物は延岡市役所。

 

延岡駅は中央通りの先を左に曲がってずっと行く。遠い。

バスバスを利用した方がいいだろう。

 

↓天守からの眺望

天守からの眺望(東方面奥

東方面。

中央通りの先で、大瀬川が城のすぐ北を流れる五ヶ瀬川と合流・・・する思たら、せんのかーいビックリマーク

三角州もどきが存在し、その土地(方財町)は田んぼやソーラーシステム晴れに利用されている。

 

↓三重櫓跡

三重櫓跡

三重櫓台石垣。最初に市役所方面から見上げた石垣だ。

ここまで近付いておきながら、遠くからの写真に留めてしまった。

 

↓三ノ丸跡

三ノ丸跡

この奥に若山牧水(わかやまぼくすい)歌碑がある。

 

若山牧水は大正~昭和にかけ活躍した有名な歌人で、彼の歌碑は全国に160以上あるという。

牧水は明治29年から高等小~中学時代の8年間を延岡で過ごす。 

 

「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬクリスマスベル をさなかりし日聞きしごとくに」

 

↓井戸跡

井戸跡

これは三ノ丸周辺の井戸かと思うのだが、よく覚えていないショボーン

三ノ丸東隅にある石御門跡も、見逃している。

 

↓北櫓跡と内堀跡

北櫓跡と内堀跡

車をとめた北駐車場に戻ってきた。駐車場正面に見落としていた石垣を発見。

有馬氏時代の絵図には載っていない、北櫓台跡石垣。

江戸時代中期以降に内藤氏が築いたものだろう。

 

手前の道の辺りは内濠跡スライムで、城をぐるりと囲んでいたという。

今は埋め立てられて、その面影は無い。

 

* * * * *

 

岡城を見てきたばかりだったので、遠くまで足を伸ばした割には真顔・・・

確かに「千人殺しの石垣」は圧巻だった。。

こちらの勉強不足メモもあったが、他の見所ももっと見やすくするなど、工夫して頂ければ・・・

と思った。

 

おわり。。。