前編では主に天守、中編では主に石垣を見てきた。
後編は下流方面から明智藪を見て、その後伯耆丸の撮影スポットへ。
↓明智藪
だいぶん前へ回り込んだ。
蛇の頭、いやトカゲ
の頭の方が近いか
藪の中へ入る事もできそうだが、物騒なのでやめておいた。
2020年現在では、説明看板なども設置されているようだ。
↓明智藪と福知山城
音無瀬橋上から。
明智藪が、城と城下町を守っている感がすごい出てる。
いい絵が撮れた。。
↓明智藪と福知山城(拡大)
福知山城の手前には明覚寺も見える。
疲れてきたが、最後に伯耆丸(ほうきまる)へ行くとしよう。。
↓左門丸跡_説明
通りがかりにたまたま見つけた説明板。
明覚寺へ行く途中に通った京口門の近くだったと思うが・・・
福知山城初代藩主・有馬豊氏の重臣、有馬左門の屋敷があった事から命名された。
かつての左門丸には櫓も建っていたようだ。
↓切通し
伯耆丸は本丸・二ノ丸へ続く細長い丘陵を切り通して独立させた曲輪(くるわ)だったという。
写真正面の丘の上が伯耆丸。左手が本丸・二ノ丸方向。
斜面が切り立っていて、明らかに人為的に削り取られているのがわかる。
↓二の丸石垣か?
伯耆丸へ向かう道中、城の方向を見ると興味深いものを発見。
二ノ丸の石垣ではないのか
京都地方裁判所福知山支部の裏手に見える石垣があるらしいが、これはその反対側だろうか。
元々は本丸から伯耆丸すぐ手前の切通しまで、本丸とほぼ変わらない高さの丘が続き、二ノ丸となってていた。
二ノ丸は詳細は不明だが、江戸後期から明治にかけ削り取られ消失してしまったらしい。
よく見ると一軒の家
の敷地内で段差がある。すでにそこにあった石垣に合わせて建てられている。
江戸時代後期にある程度削られたとすると、その時代に積まれたものかも知れない。
↓伯耆丸へ
伯耆丸へは、ゆるやかな坂道を登っていく。
↓伯耆丸から見る福知山城
まだ伯耆丸に辿りついていないが、視界がひらけ、再び福知山城が見えてきた。
前回の補足だが、福知山という地名は和泉式部が「吹風山(ふくちやま)」と詩に詠んだ頃から呼ばれていた可能性がある、という事だ。
当地で横山とかふくち山とか呼ばれていたのを、光秀がその頂に城を築くにあたり、城の名を決める際に採用したものと思われる。
和歌にも精通していた光秀らしい決め方だ。
なお、「智」は自らの苗字「明智」からあてたっぽいが、現在は「知」に変化している。
↓伯耆丸跡
伯耆丸に着いた。けっこう広い。
↓伯耆丸跡_説明
有馬豊氏の重臣・有馬伯耆守の屋敷があったことからこう呼ばれる。
なお、有馬伯耆守重頼とは、有馬豊氏の弟だ。
有馬氏がいた痕跡がところどころ曲輪の名として残っている。
光秀や朽木氏ばかりがクローズアップされがちだが、城下町の基礎を固めたのは有馬氏だ。
忘れないで。
↓伯耆丸から見る福知山城
おお、確かに絶景だザ・平山城。まるでお城のミニチュアのセットみたい。
↓伯耆丸から見る福知山城
かつてはこちら側のすぐ手前まで、本丸とほぼ同じ高さの丘が続いていた。
すぐ手前は切通していて、切通には橋が架けられていたという。
↓伯耆丸から見る福知山城
正面下の石垣は、こちらの面にのみ積まれている。
後世に積まれた新しい石垣とのことだ。
二ノ丸を削り取った際に補修したということか。
削った事で、この場所からの雄姿に繋がっている気もする。
↓祝甲子園出場
福知山成美高校、5年ぶり3回目の出場。
惜しくも初戦で福岡の筑陽学園に2-3で敗れてしまった。
コロナ下の現在では、甲子園出場できたのは幸せな事だったと思う。
↓清水口門跡
こちらもたまたま見つけた看板。
後ろの石垣は、雰囲気造りか。(セメントで固めてあった)
↓福知山踊りの像
駅前に戻ってきた。
あまり興味無いが目立つ像があった。
広小路通りには合計16体も福知山踊り像があり、それぞれポーズが異なる。
福知山踊りには16の手ぶりがあり、その1~16までの手ぶりを再現したものだという。
福知山音頭には、色々な歌詞があり、今なお新しい歌詞を一般公募しているという。
・・・それにしても左の子供はなぜポカンとしているのか造る意味あったのか
↓福知山駅ホーム
帰りはJRで帰る。
来年の大河ドラマへ向け、街の意気込みが伝わってくる広告だ。
(訪問は2019年3月)
おわり。。。