大河ドラマ「麒麟がくる」で注目を集める明智光秀の城
光秀の丹波攻略の拠点
本能寺の変では、光秀はここから本能寺へと出陣した
来年になると人で混むだろうから、その前にいち早く訪れてみた。。
(訪問は2019年2月)
ってなわけで京都駅からJRに乗り亀岡へ。
↓保津川
JRの車窓から撮れた奇跡の一枚。
渓谷を小さな船で下る「保津川下り」が有名だが、冬なのでやっていない。
川の名前はてっきり「保津川」と思い込んでいたが、地図を見ると「大堰川(おおいがわ)」と出る。
亀岡流域の保津地区から保津峡の間の限定的な呼び名なんだって。
下流はそのまま「桂川」と名を変える。
↓南郷公園(内堀)
内堀
亀山城内外は、内堀外堀惣堀の三重の堀と御土居で仕切られていた。
現在では一級河川「雑水川(ぞうずがわ)」となり南郷公園の一角として市民の憩いの場となっている。
↓明智光秀公築城亀山城址碑
明智光秀が築城、1578(天正6)年に完成か。堀・土塁・石垣などで周囲を防御した惣構(そうがまえ)という構造をもつ堅固な造り。
1591(天正7)年に城主となった小早川秀秋の時代には二の丸と三の丸が造られた。
最終的な惣構の完成は、北条氏勝が在番を務めた慶長年間(1596~1615年)か。
江戸時代は譜代大名が置かれた。
天守は築城当初は三層、小早川時代には五層。
江戸時代には天下普請で近世城郭に改修し、五層の層塔型天守と二層の小天守(複合式天守)。
(江戸末期の写真が残っている)
・・・時を戻そう。
↓南郷池
雑水川の一部。
釣りを楽しむ人がたくさんいた。
何を狙ってるのだろう
↓明智光秀公の像(建設中)
亀山城天守にあった鯱瓦(しゃちがわら)のレプリカ。
何やら工事中のようで、近くに寄ることができなかった。
後から知ったのだが、この場所に2019年5月、明智光秀公像が建てられたようだ。→こちら
訪問は2019年2月。行くのを早まってしまったようだ。
↓亀岡史跡案内図
城跡は限られた一部しか見学できないので、城下も後で主な所を周るとしよう。
↓大本(おおもと)案内図
城の案内図ではなく、宗教法人大本の境内案内図。
明治になり廃城。建物は荒廃し取り壊された。
払い下げられたのを大正時代に新興宗教・大本(おおもと)が購入。
1936(昭和11)年、日本政府による大本への弾圧があって城跡も破壊された(大本事件)
神殿は1500発()のダイナマイトで爆破
され(すげwww)、主な石は再利用できぬよう日本海に捨てられたという。(なんてことをするんだ
)
第二次大戦後に再び大本の所有となり、現在に至る。
↓万祥池
この池も内堀の名残り。
↓入口附近の石垣
大本の信者らの手によって、かつての石垣跡に沿って積み直されたもの。
↓刻印石
このあたりの石垣をよく見ると、刻印が彫られている石がチラホラ。
大名たちが天下普請で持ってきた証だ。
↓万祥橋より右手の石垣を見る
↓亀山城入口跡附近の石垣
万祥橋を渡り、万祥殿の左から門をくぐっていく。石垣が見えてきた。
石垣の上に櫓とか塀とか建っていたのだろうか。
↓天守石垣
ほどなく天守台に到着。
おお、結構高い
天守台に登る事は禁じられているため、この城の見どころはほばここしか無い。
↓天守石垣を見上げる
昭和11年、大本は宗教弾圧に遭い、石垣も破壊されてしまったという。
その後信者によって積み直された。
下三段ぐらいが天正期に積まれたままの状態という。
だが、その積み直した境目が判らないほど見事に積まれている。驚きだ。
↓天守台
正面階段は途中までは上がる事はできる。
↓天守台(右手より)
↓正面奥の石垣
↓天守石垣
階段を降り、さらに奥に続く石垣を堪能する。
結構長く続いている。
↓万祥池を見下ろす
天守台に登らずでも、この高さがある。
↓井筒
江戸時代からあったらしく、現存するものとして貴重な本丸井戸の井戸枠。
↓薬研堀附近
石垣に沿ってそのまま西出口へ。
出口から右手を見下ろす。
写真に写る道は周りよりも低くなっている。
地図ではこの辺が薬研堀(やげんぼり)となっているが、下の道に降りていれば、堀底道だと実感できたかもしれない。
↓外堀跡
西出口から王子並河線に出て南へ。
二股の道を右に行くと程なく外堀跡の看板が。
狙って訪れた場所では無く、これは通りがかりに偶然発見したものだ。
↓外堀跡(反対側)
看板の建っている方と、橋を挟んで反対側の方が、堀の雰囲気がある。
当時はもっと堀幅もあったのだろうか。
つづく。。。