大坂冬の陣!!!~前編 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

 

近年になり、新しい石碑が次々と建立。今、城東区が熱い!?

 

ここでは大坂冬の陣における前哨戦のひとつ、「鴫野(しぎの)・今福の戦い」が行われた。。

 

それではいってみようビックリマーク(探訪は2019年1月)

 

 

 

大坂城より東に1.7km、大阪メトロ今里筋線電車の鴫野駅下車徒歩5分。

まずは、上杉景勝が布陣したという八剣神社神社に到着。。

 

↓八剣神社

八剣神社

 

応永3(1396)年の創祀と伝われる。祭神は八劔大明神・武速須佐雄大神(たけはやすさのおのおおかみ)・罔象女大神(みづはのめのおおかみ)。ご利益は主に災難除け。


ある夜、鴫野村住民の夢の中に一人の老翁おばあちゃんが現れお告げがあったので、翌日川辺に来ると小蛇ヘビが悠々と陸に上がって行った。村人らはついて行き、その留まったところに小さな祠を建てて祀ったのが始まりだという。

 

 

↓上杉景勝像?

上杉景勝像?

 

神社に入ると、まずこの謎の石像が目に付く。

が、webで調べたところ、とある相撲力士の引退記念に建てられたものだそうだ。

 

でも、引退したての相撲取りにしては細すぎる。「アルテイシアにしては強すぎる。」byシャア

 

肩当てのような衣装からも、戦国武将に見えて仕方がない。

その力士が、地元の神社にゆかりの上杉景勝像を寄進した、とは考えられないかはてなマーク

 

 

↓上杉景勝 本陣之地碑

上杉景勝 本陣之地碑

 

最近建てられたであろう真新しい石碑。

2018年2月には無かったと思われる。

 

当初ここに布陣したわけではなく、この地を奪取して滞在した、という事かはてなマーク

 

↓上杉景勝 本陣之地碑_説明

上杉景勝 本陣之地碑_説明

 

真田丸の戦いを除いては、小競り合い程度かと思っていた冬の陣だが、ここではなかなか激戦ドンッが繰り広げられたようだ。

 

 

↓八剣神社 境内の様子

八剣神社 境内の様子

 

境内は広くは無く、ここに上杉勢5000は布陣しきれない。

本陣のみ布陣したのか。

 

徳川による大坂城建築の際、余った石材を、神社の石垣として使っているらしい(刻印がある)。

見逃してしまった。

このあたりはかつて水運船に恵まれていて、各地から集められた石材の集積場だったようだ。

 

 

 

八剣神社正門(西口)出てすぐ。

城東小学校の敷地内に、鴫野古戦場碑と大坂冬の陣四百年記念碑がある。

 

 

↓鴫野古戦場碑

鴫野古戦場碑

 

柵越しのため、写真写りカメラは残念な事になっている。

 

左は大正9(1920)年建立の鴫野古戦場跡碑。

右は平成26(2014)年11月建立の新しい記念碑。

 

 

↓鴫野古戦場碑

 

石碑も年代を経るとシブい。

かつては痕跡を示すものはこの石碑ぐらいしか、この界隈にはなかったはずだ。

 

 

鴫野の地名の由来

昔はこの地域 は川で囲まれた広い湿地帯で、鳥のシギが 群生していた、という説。

江戸時代以前は「志喜野」という漢字が当てられていた。

 

 

↓鴫野古戦場跡_説明

 

当時この周辺は水上交通の要衝。。

豊臣方は鴫野村に三重に柵を設置して防御。

 

1614(慶長19)年11月26日早朝、徳川方の上杉軍らが鴫野の柵を攻撃し、奪取に成功。

危機を知った豊臣軍12,000が来援し反撃するも、上杉軍らは撃退した。

 

戦闘に不向きな地であったため、銃撃戦や堤防上での遭遇戦を繰り返したという。

 

 

 

 

 

つづいては鴫野古戦場より北へ徒歩13分。

三郷橋(さんごうばし)稲荷神社へ。

 

↓三郷橋稲荷神社_遠望

三郷橋稲荷神社_遠望

 

赤い柵に囲まれて狭く細長く、道路に面して鳥居が立つ。

 

当時ここを流れていた鯰江川(なまずえがわ)が埋め立てられ、三郷橋が廃橋となったのちに、三郷橋及び閘門(こうもん)の旧蹟を記念して建立されたかと思われるが、詳細は不明。

 

↓今福・蒲生の戦い跡碑

今福・蒲生の戦い跡碑

 

先ほどの鴫野からは、川を挟んだ対岸にあたる。

この神社の前に今福・蒲生の戦い跡碑(後藤基次・木村重成奮戦の地碑)がある。

 

 

↓今福・蒲生の戦い跡_説明

今福・蒲生の戦い跡_説明

 

ここでは大坂方が四重の柵を設け守備。

徳川方の佐竹義宣軍1500は、上杉の鴫野攻めと並行して今福・蒲生の砦を攻めた。

 

大坂方は緒戦で苦戦ガーンするも、大坂城から援軍に来た後藤基次(又兵衛)らが奮戦し、一時は佐竹軍を追い詰めた。

 

窮地に陥った佐竹は、すでに鴫野で勝利を収めていた上杉軍に助けを求め、見事大坂方を撤退させた。

 

↓五叉路(ごさろ)

五叉路

 

すぐ近くの交差点は五叉路となっていた。

 

合流点もあり水量を調節する閘門もあったとの事で、鯰江川を埋め立てて道にした結果、このような入り組んだ道となったのかはてなマーク想像を掻き立てられる。

 

 

 

↓寝屋川

寝屋川

 

 

今福・蒲生の戦い跡より徒歩4分。新喜多橋上から見た寝屋川。

写真は上流の四条畷市方面。

 

寝屋川ってこんな所流れてんのはてなマークって感じ。寝屋川市ってここからずいぶん北だけどはてなマーク

 

地図で確認すると、京阪電車寝屋川市駅の方からほぼまっすぐ南下下矢印し、四条畷のあたりで90°西に進路をかえ次項、大坂城近くまで流れてきている。にやり

 

また、大正時代、このあたりは巡航船船の船着場があったようで、鉄道の駅から離れたこの地域界隈の人にとって貴重な交通手段だったようだ。

 

 

↓若宮八幡大神宮の鳥居

若宮八幡大神宮の鳥居

 

新喜多橋より徒歩4分。

お次は若宮八幡大神宮神社に着いた。

 

 

 

↓若宮八幡大神宮_由緒

若宮八幡大神宮_由緒

 

 

祭神は仁徳天皇。創建年月は不明。

この境内に、徳川方の佐竹義宣が本陣を張ったという。

 

当時はもっと広く、うっそうとしていたようだ。

樹齢1000年越えの名物の大樹やしの木があったびっくりそうだが、枯れてしまって今はない。

 

↓佐竹義宣本陣跡碑

佐竹義宣本陣跡碑

 

外に向かって建つ新しい記念碑。。

最初境内を探したが見つけられなかった。外から見えるようになっているのだが、提灯などが設置されており少し陰に隠れる形で見つけるのに案外苦労した。

 

以前は「夏の陣」と間違って表記されていたようだが、今では訂正されている。

 

 

 

つづく。。。