前編では移築門で引っ張ってからのー、、城跡登城。
後編では、いよいよ天守台跡から琵琶湖へと出る
関ヶ原の戦いの翌年、徳川家康は大津城を廃城とし、新たに膳所崎(ぜぜさき)に築城を決めた。
藤堂高虎に縄張りの計画をさせ、天下普請(諸大名に命じて造らせる)で築いた第一号の城だ。
この地を選んだ理由は、昔より「瀬田を征するものは天下を征する」と言われた瀬田に近かったから。
城主:戸田一西、その子の氏鉄→本多康俊、その子の俊次→菅沼定芳→石川忠総、その子の憲之→再び本多俊次
以降、明治維新まで本多氏。
寛文2(1662)年地震で建造物が倒壊。俊次は城の大改修
を行う。
↓天守台石垣
天守台とされているこの辺の石垣は遺構との事だが、整いすぎている。
江戸時代中に改修工事した時のものかもしれない。
このようにこの先は海岸線に出られるようになっている。
犬走(いぬばしり)門とは、あるいはここについていたってことはないだろうか
↓石垣
海岸に出た。振り返ってみると低いものの割と広範囲にわたって石垣が積まれている。
周りと同じ高さの石垣の上に急に天守を築くだろうか怪しいものだ。
↓湖岸の石積
護岸のためだろうか、沿岸部分にも石がいっぱい。。
当時は船を停泊させる港もあった事だろう。
塩津・坂本・長浜など、当時は琵琶湖水運ネットワークが構築されていた。
↓近江富士
琵琶湖を眺めると、近江富士を発見。。
本当の名前は三上山だが、形が富士山に似ている事からそう呼ばれる。
目立つ山なので、滋賀県に来たら見つけやすいこの山を探してみよう。。
↓二の丸跡
南方面には橋でつながる二の丸跡。蔵か何かのような建物が雰囲気を壊さない。
信じられないことに、浄水場の施設だそうだ。
↓膳所城_遠望
膳所城址公園の北側は遊歩道がついている。少し北側から膳所城跡を振り返ってみた。
なるほど、現在では半島状ではあるが、海に突き出た地形だとわかる。。
↓近江大橋
城跡のすぐ北に近江大橋が架かっている。
これを通れば、瀬田大橋を経ることなく、直接草津市方面へ近道できる。
また、手前には簡単な港湾施設があった。
当時は水運の要衝だった、膳所の名残りか。
また、公園内でもそうだが、周辺は釣りを楽しむ人を多く見かけた。
↓中大手門跡
城跡を後にして、移築城門(まだあるんかい)がある膳所神社
を目指す。
道中、偶然「中大手門」の石碑を発見。草木に埋もれそうで目立たない。
↓いびつな道
その中大手門のあった交差点を振り返る。
道の先に膳所城址公園の模擬大手門が見える。
中大手門より外側(こっち側)とは、道がややいびつな形状になっている。
スムーズに攻め込ませないための工夫か。
城下町によく見られる形状だが、こういう道を見ると、たまらなく・・・いい
↓膳所神社_由緒
徒歩2分ほどで膳所神社に到着。
天智天皇が大津宮(おおつのみや)に遷都(せんと)の際、とあるから相当長い歴史を持つ。
膳所が「膳」の「所」と書く地名の由来も理解できる。
↓本丸大手門(移築)
膳所神社の表門が、膳所城の本丸大手門だった門で重要文化財。
形式は薬医門(やくいもん)。(屋根が中央でなくどちらかにせり出して取り付けられている)
屋根が立派ゆえ、柱、梁なんかも太く丈夫そうだ。
↓重要文化財碑
「舊膳所城々門」「國寶表門」。「舊」は「旧」の旧字。「國寶」は「国宝」。
大正時代に重文指定だから、大正に建てられた石碑か。
↓本丸大手門(移築)内側
控え柱(ひかえばしら)が大きく後ろに張り出している。
控え柱も雨露に濡れないように、屋根の位置を調整しているのか。
↓膳所神社北門(移築)内側
こちらは膳所神社の北門。どこの門かは不明だが、こちらも膳所城からの移築とか。
控柱の上の梁(冠木)に、曲がった木材を大胆に使用している。
↓膳所神社北門(移築)
外側から見てみた。なかなか立派な門だ。
膳所神社から帰途につくのだが、膳所本町駅は北門出てすぐ。
ここから京阪に乗って浜大津
へ寄っていくことにする。。
おわり。。。