浜松城は元は曳馬、または引馬城といった。
築城主、築城時期は不明。南北朝時代だろう(ざっくりすぎる)
↓浜松城遠望
永正十四年(1517)に今川氏は遠江を制圧。今川家臣の飯尾氏が城主となる。
永禄三年(1560)桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にすると、飯尾氏も衰退。
永禄十一年(1568)に徳川家康が遠江に侵攻。武田との対決都合上ここを根拠地とするべく城を拡張。
その時、名を浜松城と改める。(「引く馬」が負け戦を連想させ、縁起が悪いとかなんとか・・・)
↓野面積みの石垣
家康が拡張した頃の石垣か。なかなかに高く積み上げられている。
その後、三方ヶ原の戦いを経て、徳川家康は秀吉の命により関東へ移封。。
城主は堀尾吉晴に。吉晴はさらに天守を築くなど、浜松城を近世城郭へと改修。
徳川の世が来ると、幕府は浜松城に譜代大名を配する。(天保の改革で知られる水野忠邦など)
↓荒々しい石垣
ここらへんの石垣は、なるほど二俣城よりも荒々しいのが分かり易い。。
↓天守門(復元)
天守曲輪側(内側)から見たところ。
櫓が両脇の石垣に乗る渡り櫓の構造。西日本で多く見られる。
↓天守と天守台
堀尾吉晴が築くも、17世紀のうちに失われたという(失火)。
現在の天守は昭和33年、鉄筋コンクリート製で復元されたもの。。
↓浜松城天守
天守石垣に対して、天守が小さく復元されている。。
↓天守拡大
↓天守台石垣
↓地下井戸
天守には穴蔵と呼ばれる地階があり、その中央部には石組の井戸がある。
かつては城内に10箇所あったという井戸。
なかでも天守内にも設けているのは、籠城戦を想定した場合、万全の備えというわけ。。
↓天守からの眺望(北)
北は三方ヶ原、井伊谷方面。
家康は浜松城を無視して通過しようとする武田軍の動きに、誘い出されてしまった。
↓眺望(東)
正面グラウンドが二ノ丸跡。左奥の茂みが曳馬(ひくま)城跡だ。
あとで行ってみよう。。
↓眺望(八幡台櫓跡)
かつては石垣の上に櫓があった。
↓眺望(南西)
目を凝らすと、後方にわずかに佐鳴湖の湖面が見えるような・・・
↓若き日の家康像
二ノ丸跡に立つ。イメージよりかは細身に造られているようだ。。
↓曳馬(ひくま)城跡石碑
浜松城から徒歩5分かからないか。浜松城の前身・曳馬城跡に到着。。
意外な事に、三方ヶ原合戦当時の浜松城はこちらが中心だった
↓元城町東照宮
明治時代になり、曳馬城跡地には東照宮が造られた。
↓二公像
東照宮境内にある、最近造られた家康と秀吉の2英傑の像。
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家康は31歳頃を想定。秀吉は信長に仕える前、16歳前後に浜松で暮らしたという。
↓椿姫観音
浜松城から徒歩5分。曳馬城の飯尾家の女城主・お田鶴の方(亀姫)らを祀る椿姫観音。。
飯尾連竜の未亡人である彼女は、永禄11年家康の攻撃を受け、死闘の末侍女らとともに18人玉砕。城は落城した。
↓椿姫観音
その後徳川が塚を築く。築山御前(家康の妻)自ら塚の周りに椿を植え、供養したという。
おわり。