高天神城を後にして、掛川駅まで戻ってきた。。
風情のある駅舎だったので、一枚パチリ。
↓掛川駅
目的はもちろん掛川城。。今夜はホテルドーミーイン掛川に宿泊。
このホテルからは、、掛川城の天守がすごく映えて見える。。
(少しズームはしてるが・・・)
↓掛川城 遠望
平山城(小高い丘の上に築城されている)だという事がよく分かる絵となっている。
↓大手門
大手門は、平成7年に復元されたもの。本来はここから50mほど南にあった。
馬にまたがったまま通れるようになっている。
↓大手門番所
門をくぐると、大手門番所が。。
移築はされてるが、1859(安政6)年に再建された当時のままのもの。。
城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所だった。
↓三光稲荷神社
大手門番所のすぐ裏には三光稲荷神社。。
山内一豊が掛川城主だった文禄年間、秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった縁で、大手の鎮守として伏見稲荷を勧請したのが由来。
↓逆川と掛川城天守
大手門からも小さく見えていたが、逆川沿いに天守へと近付いて行く。
逆川(さかがわ)は蛇行が激しく、たびたび水害をもたらしてきた暴れ川。堤が欠ける(決壊する)ことから「かけがわ」(欠川→掛川)とも呼ばれ、当地域が「掛川」と呼ばれる由縁となったと伝えられている(諸説あり)。掛川城のすぐ南を流れ、天然の濠としても使われていた。(Wikiより)
城内に突入。城内には内堀として機能した二つの特徴的な堀が見どころだ。
↓十露盤堀
十露盤(そろばん)堀は、見た目四角く、算盤に見える事からそう呼ばれているようだ。
↓三日月堀
三日月(みかづき)堀は武田氏の築城技術の特徴といわれる堀の形で、丸馬出
の外側を防御するため、必然的に三日月状の形となる。
↓太鼓櫓
天守前の階段から、見下ろせる位置にある。
正保城絵図では、荒和布(あらめ)櫓と呼ばれる見張りの櫓があった場所。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓(たいこ)櫓。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築された。(現地説明板より)
↓掛川城天守と登城路
↓掛川城天守と築地塀
キターーーーーーー
築地塀の付いた石段から、高く見上げる位置にそびえるこの感じ。。
なかなか他では見ない威圧感。圧倒感。(逆光なのが残念だが)
天守丸という、本丸からさらに独立させて発展させたのは山内一豊。
そのせいか、石段でショートカットしたようで、本丸をスルーしてしまうイージーミス。。(後で気付いた)
↓霧吹井戸
天守丸内にある水源の井戸。深さは45mで日本第3位の深さという。
永禄12年(1569)、徳川家康が今川氏真のこもる掛川城を攻めた時、井戸から立ち込めた霧が城を包み、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説が。(嘘つけ)結局は落ちたが・・・
↓天守丸のようす
天守石垣
平成5年(1993)、天守は城絵図や古記録を元に復元された。
日本初!の本格木造での復元天守。。(鉄筋コンクリートは多々あるが・・・)
外観三層、内部四階から成る。
石垣は紛れもなく、山内一豊が拡張した時のものだろう。(一部修復箇所はあるかも)
↓石落し
実際に下が見下ろせるようになっているのは、珍しい。。
ここから、石垣をよじ登ってくる敵兵に向け、石や糞尿をかけてみたい
↓天守内部のようす
これぞ木造復元展示物などは無い方がよいのだ。。
↓天守からの眺望(掛川城御殿)
二の丸(掛川城)御殿は全国でも珍しい現存城郭御殿(重要文化財)
中でも二の丸御殿が残っているのは二条城と掛川城のみ。
1854年(嘉永7年)東海大地震で倒壊した後、当時の藩主だった太田資功が再建したもの。
写真左上の茂みは掛川古城だ。後で行ってみよう。。
↓眺望(南南西)
高天神城は、写真一番左の方のさらに奥か。
↓掛川古城の大堀切
掛川城を後にして、掛川城の北東へ徒歩7分、掛川古城へ。
今川氏が朝比奈氏に築城、守備させた。今の地に掛川城を築き移るまで、こちらが掛川城だった。
その後も徳川家康が今川氏真の拠る掛川城を攻めた際には、本陣として使用されたという。
↓掛川古城の大堀切
おおいまなお残る見事な堀切。。左の土塁上が本丸、右上が二の丸。。
あぁ疲れた~~今夜は露天風呂
つきのホテル
でゆっくり寝る
としよう・・・