日蓮上人の鎌倉入府ルートの二つ目は、六浦(横浜市金沢区)から朝比奈切通しを抜けて鎌倉へ至る六浦道(むつらみち)になります。
六浦の湊は古くから房総半島と海運で繋がる鎌倉の玄関口で、日蓮上人は行徳(千葉県市川市)から船を使ってこの港に着岸されたと寺伝に残されています。
「宗祖船中問答御着岸霊場」は、下総中山(千葉県市川市)の豪族である富木常忍(ときじょうにん)と日蓮上人が同じ船に乗り合わせて仏法論を戦わせたという言い伝えです。
これにより富木常忍は法華経に帰依し、日蓮上人入滅後、出家して日常上人となって現在の中山法華経寺(中山門流大本山)の基礎を築きました。
(たまたま屋根を修復中の中山法華経寺大祖師堂)
これは富木常忍が日蓮上人の壇越(有力後援者)となった経緯を説明するものですが、初期日蓮教団の支援者については後に改めて検討してみたいと思います。
なお安立寺に祀られている『感応の祖師』像は、日蓮上人の姿を富木常忍が彫り、日蓮上人が自ら開眼したと言われています。
次に上行寺ですが、ここは元々富木常忍の祈願寺であり、船中での問答を聞いて真言律宗から法華経弘通の道場になったと伝わっています。
その後道場は一時衰退しますが、南北朝時代、六浦の豪商だった荒井平次郎景光が開基となって現在の上行寺が開創されました。
この景光の夢枕に称名寺(横浜市金沢区)の仁王尊が現れ、「身延山の護神となるから連れて行け」と告げたそうです。
(金沢北条氏の菩提寺である称名寺)
そこで景光は称名寺に掛け合いましたが受け入れられるはずもなく、囲碁好きだった住職と自身の領田を賭けて渾身の勝負をして二勝一敗で勝利してしまいます。
称名寺住職はどうせ一人で運べるはずもないと侮っていると、景光は仁王像二体を背負って三日三晩歩き通して身延山に納めてしまったそうです。
その功績で景光は身延山から正式に妙法院日荷上人という尊称を賜りました。
これは現在の称名寺山門と仁王像ですが、この二体を身延山まで背負って運んだことから、日荷上人は健脚の神様、勝負の神様(囲碁)として信心を集めることになり、東京都台東区谷中にある六浦山延壽寺の日荷堂も参拝者が絶えることが無いそうです。
2021年5月5日、杉田の妙法寺(横浜市磯子区)を参詣した際、私と美月はこの日荷上人の石像を見つけて吃驚仰天してしまいました。
後に調べてみると、この杉田妙法寺も上行寺と同様、景光即ち日荷上人の開基と伝えられていました。
「いくらなんでもこれは無いだろう」と日荷上人像の荒唐無稽さに私と美月は笑い転げてしまいました。
美月に至っては日荷上人の真似をして大はしゃぎする始末です。
当然、仏罰が下りました。
この後、私は膝を痛めて正座出来なくなり、美月はしばらく腰を痛めてしまいました。
日荷上人、大変申し訳ございませんでした。