23ケ月ほど前、ひっきりなしに映像の世紀 バタフライエフェクトをやっていましたが、久しぶりに先日63日(月)映像の世紀 バタフライエフェクト 安保闘争をやっていました。直前に知り、観て、録画をし、再度観ました。

映像の世紀バタフライエフェクト - NHK

受信料を払われていれば、ネットで観ることができますし、613日(木)2350から再放送されるようです。

 

 

一人で安保条約に署名する吉田茂

1951年のサンフランシスコ講和条約は5人の全権大使によって署名されましたが、安保条約は、吉田茂が一人で署名したことは知っていましたが、詳細に報じていました。思えば、30年くらい前映画『吉田茂』が公開された際、彼は再軍備に反対する平和主義者として描かれていましたが、まさに売国奴ではないかと。

日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約 - Wikipedia

 

砂川事件

安保条約が、国民的関心を持ったのは、砂川事件。伊達判決は東京地裁で、米軍駐留を憲法違反とした初の唯一の判決です。しかし、アメリカの要請を受け最高裁に飛躍条約、そして統治行為論で判断が回避されました。その時の裁判長が田中耕太郎です。彼は、その後湖オランダ・ハーグにある国際司法裁判所の裁判官へ。皮肉なー否、政府、米国の意向に沿ったから?

砂川事件 - Wikipedia

 

 

60年安保闘争

1960116日に渡米(羽田空港での阻止行動も)した岸信介首相が119日に署名。そして520日自然承認のぎりぎりの日に衆議院での採決を強行。そして30日後の619日に参議院の審議がないまま自然承認。そして4日後の623日に岸は退陣を表明。彼の偽善者のような顔(あくまで主観です)が高笑いをしていた。さらにキモかった。連日国会を人々が。最高10万人。その中で全学連の委員長であった唐牛(かろうじ)健太郎が紹介されていました。

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 - Wikipedia

 

 

樺美智子さんの死

また、その子で東大文学部4年生の樺美智子さんが亡くなられました。両親のコメントがあり、その想いを思うと。

 

佐藤栄作と沖縄返還

その後池田隼人の所得倍増計画で高度経済成長へ、そして、1964年岸信介の弟である佐藤栄作が首相に。直後、沖縄から米軍機がベトナム爆撃を。70年安保を恐れた佐藤は、沖縄返還を前面にーしかし、そのことは、いっさい触れられていませんでした。このことは、昨年ブログでもご紹介させていただきました。

安保条約継続のために「沖縄返還」を使った佐藤首相 | shiro0218のブログ (ameblo.jp)

 

大学紛争そして新左翼を中心とする70年安保闘争のなか、1970623日自動延長。ちなみに、佐藤栄作は1974年ノーベル平和賞を受賞する。私は、ケニヤ、スウェーデンから帰国後の92年春東ティモールの運動に参加させていただき、ノーベル賞の資料を持ち帰った私は92年秋、ベロ司教のノーベル平和賞推薦を提案。貴島正道さんがオーガナイズされ、939495年そして96年、4回目トライで、ベロ司教とラモス=ホルタ氏の受賞が実現。961月ラモス=ホルタ氏来日に際し、ノルウェー大使館で祝会をしていただき、その担当になったのあですが、96年末ノルウェー大使館の方から、ノーベル委員会のメンバーは、佐藤栄作にノーベル平和賞を授与したことを後悔していると聞きました。その半年後くらいに新聞の1面に小さく掲載されていたのを覚えていますが、佐藤栄作Wikipediaにも、その後正式文書として出されていると記載されています。あまり、知られていないようですが。

 

 

唐牛健太郎
最後に、60年安保闘争で、全学連委員長として指揮していた、北海道だがくの学生唐牛健太郎のその後が、紹介されていました。その後大学を除籍処分になり、船に乗り、料理などを担当していた。しかし、その表情からは、信念に従って生きたというような感じを私は受けました。

唐牛健太郎 - Wikipedia

 

私は、学生時代、学生自治会の役員をすることになり、暴力反対や授業改善の取り組みをしていました。当時、学生運動の残留の56の右から左までのセクトがありました。暴力反対を訴える私は、新左翼(極左)から殴られたことがあるが、その後公安警察が下宿先まで来たことがありました。破防法はもともと右翼や左翼の暴力集団を取り締まるためにできたのですが、共産党や市民運動までしらべていることを知りました。今でも、市民のデモに公安が来ています。以前はメモをしていましたが、今ではビデオカメラで撮っています。

 

私は、大学を辞め(手続き上は休学)、京都市内にいる時、田畑忍先生にお会いすることができました。同志社大学学長で、憲法研究所を設立、日本の永世中立宣言の必要性を主張されていました。弁証法を引用し、正ー反ー合、つまり、憲法ー安保ー永世中立を説かれ、国民の51%を組織するため、政党を動かし、国民を動かすことの必要性も説かれていました。私は、京都に帰省するたびに田畑先生を訪ねていました。

 

その後何十年も経ち、自分の非力も感じながら、田畑先生の遺志を伝えなければと思っています。今まで、平和運動も、労働運動も、いつも平和勢力は分断、新左翼(極左)もマイナスイメージ、経済についても市民運動は弱いです。沖縄のように、平和を愛する経済人から共産党まで、幅広い勢力が結集することを願っています。戦後の日本の政治は、つねに、保守のタカ派が主導してきたのではないかと。