「日本は極東のスイスたれ」

「日本は極東のスイスたれ」と言ったのは、GHQのマッカーサーですが、朝鮮戦争の勃発など冷戦によって、日本を反共の防壁へと民主化の転換がなされました。1950年警察予備隊、1952年保安隊、そして1954年「自衛」隊が発足します。さらに、単独講和か全面講和かの議論の中、1951年のサンフランシスコ講和条約とともに、日米安保条約(旧安保)が締結されます。サンフランシスコ講和条約は、5人の全権大使によるものでしたが、安保条約は、吉田茂首相が誰にも告げずにひとりでサインをしました。このことはあまり知られていないようですが。その後、60年安保(新安保)が多くの反対の中。岸首相の強行採決で成立しました。そして佐藤栄作首相によって1970年からは自動延長になっています。沖縄返還も70年安保の反対運動を恐れた佐藤首相が、それを避けるために沖縄返還を使ったことー昨年202282日のブログでご紹介させていただきました。

安保条約継続のために「沖縄返還」を使った佐藤首相 | shiro0218のブログ (ameblo.jp)

 

今の「自衛」隊は真の『自衛』隊なのか

今の「自衛」隊は真の『自衛』隊なのでしょうか。専守防衛と言いながら、海外派兵を繰り返す自衛隊。さらに、自分の国を自分で守ると言いながら、アメリカに頼っている日本ー”アメリカ予備軍ではないでしょうか。戦後長く、安保か反安保、非武装中立か重武装中立かという右端と左端の議論しかなかったように思います。私は、All or Nothingの議論でなく、どの方向へ進べきか、それを議論し、実践すべきだと思います。

 

 

オーストリアの永世中立宣言

そこで、オーストリアは日本が進べき道に大いに参考になると思います。オーストリアは、ヒトラーの出身地で、ナチス・ドイツとして被害者であると同時に、加害者でもあります。戦後は、米英仏ソの四か国による統治がなされ、独立に向けて永世中立を目指し、米英仏は賛成したが、ソ連(当時)が躊躇したのですが、60回にも及ぶ交渉(当時の外務次官は後に首相になるクライスキー氏です)でモスクワ覚書(Moscow Memorandum)で、合意を取りつけます。そして、1955515日に独立し、占領軍のひとつイギリス軍が撤退した19551025日の翌日の19551026日に憲法で永世中立を宣言し、各国に承認を求め、永世中立が実現します。ちなみに日本は最初に承認した国とか。

 

3つの永世中立国

永世中立国は、スイスが1815年ナポレオン戦争後のウィーン会議で、承認されましたが、オーストリアは1955515日の独立後の19551026日憲法で永世中立を宣言し、各国に承認を求め、永世中立国になりました。さらに、旧ソ連から独立したトルクメニスタンは、永世中立国宣言をし、1995年国連総会で永世中立が認定されました。

 

 

 

田畑忍先生との出会い

私は、若き日に大学を辞めて(手続き上は休学)、長崎から京都にーそこで、田畑忍先生(元同志社大学学長)に出会い、憲法9条に従い、永世中立宣言の必要性を確信しました。正ー反ー合の弁証法、国民の51%を組織すること、そして政党を動かし、国民をうごかさなけらば・・・などなど。京都に帰省する度に、田畑忍先生のご自宅を訪ねていました。田畑忍先生は、1994年に亡くなられています。

 

 

 

寅さんとオーストリア・ウィーン

葛飾区に住むようになって知ったのが、葛飾区とウィーンのフロズイドルフ区が友好都市で、男はつらいよシリーズで、唯一寅さんが海外でロケされたのが、ウィーンです。第41作ー心の旅路、竹下景子さんがマドンナでした。以前、寅さん記念館に山田洋次監督と竹下景子さんが来られた時、伺ったことがあります。そして、今、ウィーンにはトラサンパークがあります。さらに、隔年葛飾区とフロズイドルフ区と青年の交流があり、先日も報告を伺いました。

 

 

観光コースでないウィーン

葛飾区に転居した頃の2004年に出版されたのが、『観光コースでないウィーン』松岡由季(高文研)です。彼女は、オーストリアにあるヨーロッパ平和大学(現在は閉鎖されているようです)で学ばれました。被害と加害の歴史、国連の誘致などから文化まで書かれています。そのヨーロッパ平和大学のあるスタッドシュライニングは、オーストリアの南東部に位置し、今もオーストリア紛争解決センターと平和博物館があります。第2回の平和のための博物館の国際会議は、ここで開催されています。

 

東ティモール

私は、ケニヤ、スウェーデンからの帰国後の92年春、東ティモールの運動に参加させていただきましたが、スウェーデンからノーベル賞の資料を持ち帰ったこともあり、92年秋ベロ司教のノーベル平和賞推薦を提案、代表の貴島正道さんがオーガナイズされ、私もノルウェー・ノーベル委員会に国際電話をしたりー939495年そして964回目のトライで、ベロ司教とラモス=ホルタ氏が受賞されました。95年には東ティモールの会議がオーストリアのスタッドシュライニングで開催されています。

 

 

パレスチナ

パレスチナ解放機構(PLO)で先日イベントがあり初めて伺いました(麹町ー英国大使館の近くから今年6月に南麻布に転居)が、ブルーノ・クライスキーブルーノ・クライスキー - Wikipedia首相時代に、PLOの代表部が世界で最初に設置されたと記憶しています。ウィーン国際センター、国際連合ウィーン事務局もそうです。

 

 

アフガニスタン

松戸にあるアフガン・サフラン(バブリさん主宰)にこの2年伺うようになりましたが、アフガニスタンの民主勢力の会議が、すでにオーストリアで4回開催せれていることも先日知りました。アフガンサフランは、ドライフルーツ(とてもおいしいです)やアフガニスタンの絨毯(女性たちによって織られています)を扱っておられます。

 

核兵器と原発を憲法で禁止

オーストリアはツヴェンテンドルフ原発を建設しましたが、1978年国民投票で、50.47%の反対で原発を稼働せず、また、1999年には憲法で核兵器だけでなく、原発も禁止しました。

福島を経験した日本ーしかし、稼働の延長、さらに原発の輸出を行っています。私も90年代からノーニュークスアジアフォーラムで原発輸出ーとりわけ台湾への原発輸出に関わってきましたが、台湾はピープルズパワーで、原発を2025年までに全廃することを決めています。国内の原発もスウェーデンのように段階的に廃止する(実際は廃止していませんが)のがいいかなとも思っていたのですが、福島原発事故で、原発はすぐに停止できないことを知り、また、水素爆発(原子炉の内側のジルコニウムと水が反応して、水素が発生ーあまり知られていないようですが)、メルトダウンの隠ぺい、その後の被害の方々の現実を知り、国内も今すぐやめるべきだと思います。実際、火力発電も半分くらいしか稼働していなかったことも知りました。被害が、セシウム(カリウムと同じ+1、内臓に蓄積)、ストロンチウム(カルシウムと同じ+2、骨に蓄積、白血病などの誘発)、ヨウ素(甲状腺に蓄積)が原因となることもあまり知られていないようです。

 

 

核兵器禁止を主導

また、第2回核兵器禁止条約締結国会議が202311127日からニューヨーク国連本部で開催されましたが、第1回は、2022621日ウィーンで開催されています。この条約は、201777日国連本部で開催された核兵器禁止条約交渉会議で採択され、同年2017年ノーベル平和賞を受賞しました。運動のスタートは1996年ですが、核兵器の非人道性に関する国際会議で、第1回が20133月ノルウェー・オスロ、第2回が20142月メキシコ・ナジャリット、そして第3回が201412月オーストリア・ウィーンで開催されています。日本は、核兵器禁止を唱えるだけで、核兵器禁止条約に参加どころか、オブザーバーに出席していません。

 

非核・軍縮から永世中立・自衛=軽武装永世中立へ

以下の3段階を提案したいと思います。

1 非核・軍縮

ー核兵器禁止条約の批准そして主導を

ー沖縄の米軍基地の削減ー海兵隊を中心に、辺野古新基地ではなく、普天間基地の閉鎖を

ー自衛隊の海外派兵を禁止ー安保3法の廃止

ー国際緊急援助隊の拡充ー非軍事の国際平和協力

ー自衛隊の半減ー何年かかけて自衛隊とは別の災害救助隊(非軍事)を

ー武器の輸出の禁止、輸入の制限、武器見本市の禁止

ー北東アジアの非核軍縮の会議を

ー北方領土の非武装化の提案による返還をーフィンランドのオーランド諸島を例に

 

2 永世中立・自衛=軽武装永世中立

ー国会で永世中立宣言をー各国に承認を求めるか、国連総会で

ー自衛隊の海外派兵をやめ、自衛隊は半減し、軽武装永世中立を

*日本の軍事費に比べ、スウェーデンは10分の1、スイスは12分の1、オーストリアは15分の1です。

 

3 非武装永世中立

これは理想ですが、まず、第1段階、第2段階があってからだと思います。ちなみにコスタリカは、かつて永世中立を表明しましたが、表明しただけで、かつ米軍基地をおいています。

 

みなさんのご意見をお待ちしています。