9012月下旬から911月上旬までのクリスマス休暇、スウェーデンからロンドン経由、アテネ、エジプト、イスラエル、ケニヤ、ロシア、フィンランドを旅しました。世界一周最後の部分が、ケニヤ航空でロンドンからエジプト経由でナイロビまで、ストックホルムーロンドンは別に購入、また、ナイロビーモスクワも別途購入、モスクワからは、列車とフェリーでという旅路でした。

 

ケニヤ航空はロンドンーアテネーカイローナイロビと飛ぶのですが、ロンドンでチェックインするとき、なんと今日はカイロには行かないと。アテネまでで、一泊して別のフライトでカイロにとーイスラエルの日程も限られていたので、クレームするも、結局アテネで一泊、パルテノン神殿をみて、カイロからイスラエルは当初バスでスエズ運河を通って行く予定でしたが、イスラエルでの時間の関係で仕方なく飛行機のチケットを買い、イスラエルへ。帰りは予定通り、バスでスエズ運河を通ってカイロに戻りました。

 

 

カイロでは郊外にあるギザのピラミッドへ。行くとラクダのかしつこい勧誘を受け、乗ることに。スピードを出され超怖かったです。

 

 

カイロからテルアビブくへ。イスラエルのビザも当時の南アフリカと同じで、パスポート上でなく、別紙でもらいました(パスポートにあると他のアラブ諸国に行けないため)。テルアビブの空港では荷物検査が超厳しかったです。一番の目的はイエスの足跡を訪ねることでしたが、イスラエルの歴史、パレスチナ問題も知りました。

 

 

 

イスラエル・テルアビブからエルサレムへ。岩のドーム(イスラム教)、嘆きの壁(ユダヤ教)、そしてキリストが十字架にかけられたゴルゴタの丘に聖墳墓教会(Church of Holy Sculpture)に。ここまでの道はヴィア・ドロローザVIA DOLOROSA(悲しみの道)でイエスが十字架をかついでゴルゴタの丘まで歩いた道です。聖墳墓教会の中にイエスが十字架にかけられた場所などがあります。これらは、知ってるつもりの最終回イエス・キリストがお薦めです。(45) イエス・キリスト 知ってるつもり 最終回 - YouTube

 

万国民の教会、最後の晩餐の部屋、ヴィア・ドロローザ、聖墳墓教会、園の墓(Garden Tomb)(イエスが3日に蘇った)、オリーブ山(イエスが昇天したとされる足跡が)などを巡りました。

 

 

 

到着してすぐに予約した北部を巡るツアーに参加。ナザレにある受胎告知教会(Church of Annunciation)へ。教会内部には各国のマリアとイエスの絵が飾られており、日本のものも。ガリラヤ湖畔の山上の垂訓の教会、パンと魚の逸話の場所、ヨルダン川のヨハネがイエスに洗礼を授けた場所(そこの水も持ち帰りました)。死海も半日くらい滞在の予定でしたが、帰り道、死海の近くで休憩で止まったので、急いで死海まで行き、水を持ち帰りました(その後蒸発してしまいました)。

 

その後、進め電波少年で、松本明子がPLOの本部でずっと待ち、アラファト議長とテントウ虫のサンバをドゥエットしたいという企画があり、あなたと私がのところをアラファトと私がと替え歌で歌いましたが、アラファト議長は反応しませんでした。また、死海の水でお漬物をという企画では、作るもまったく辛かったので、日本の専門家に電話して豆腐なら作れると企画を変えて成功する番組がありました。死海の水はNaCl(塩化ナトリウム)=塩ではなく、MgCl2(塩化マグネシウム)=いわゆるにがりで豆腐に使われる=が主成分であることを知りました。

 

 

 

そして、901224日クリスマスイブの日に、イエス・キリスト降誕の地ベツレヘムへ。降誕教会(Church of Nativity)の地下にイエスが生まれた場所がありました。ちょうど、湾岸戦争勃発前で、今まで日本からスウェーデンに電話などしなかった父が、イスラエルはやめるようにと電話がありました。空港でのチェックも厳しかったですが、イスラエルからエジプトへのバスも先頭を軍か警察の車が先導し、緊張感がありました。実際翌911月中旬湾岸戦争が勃発しています。

 

 

200812月イスラエルによるガザへの攻撃が始まり、その翌年20091月か2月に参議院議員会館であったパレスチナ問題の集会に参加した。当時小池百合子氏がカイロ大学に留学し、アラビア語が堪能だからなのかパレスチナ議員連盟の会長をしていた。その前に防衛大臣を経験していたが、アフガニスタンとパレスチナを訪問したことも報告していた。私は、1992615日のPKO協力法と改正国際緊急援助隊法が成立し、政府答弁の中で自衛隊を戦争による難民救援、国際緊急援助隊を自然災害に分け、かつ大規模な自然災害には自衛隊も参加できるようになったことに対し、疑問を持ち、議員会館で講演会を開くなどしていて、従来通り、国際緊急援助隊を難民救援にも派遣すべきだと考えている。小池百合子氏は、その問題にまったく触れず、ガザにガーゼをとくだらいないジョークを言っていた。結局、日本は国連機関を通じて支援し、直接を支援は行っていない。

 

カイロからナイロビへ。半年ぶりの友人らに会い、モスクワへ。ツブロフという中型機で、中東の都市を給油のため経由したのですが、離発着はボーイングやエアバスの飛行機と遜色ない感じでしたが、機内は古く、無事着陸すると乗客から拍手が起こっていました。

 

 

モスクワはクレムリン、赤の広場を、そして夜行列車でサンクトペテルブルグへ。エルミタージュ美術館はその日休館で観れませんでした。

 

そして、ヘルシンキへ。テンペルアウキオ教会という岩の中にある教会など、シベリウスのフィンランディアのカセットテープを購入。そして、列車で北西の街タンペレへ。ここには、SIPRI(ストックホルム国際平和研究所)、PRIO(オスロ国際平和研究所)と並ぶTAPRI(タンペレ国際平和研究所)があり、そのために行ったのですが、コピーしたガイドブックに、タンペレ市立図書館の地下にムーミン博物館があるとのことで行きました。絵葉書を購入。

 

 

その後タンペレ美術館に移動、さらに2017年夏にムーミン美術館がオープンしています。私は、その後2015年ムーミン誕生70年の年にテレビ東京の美の巨人たちでトーベ・ヤンソンの特集をやっていてムーミンの原型=GARMにナチの批判を書き、そこにいつも怒っている醜い生き物であることを知りました。それは、今でも動画で見ることができます。

美の巨人 トーべ・ヤンソン - 動画 Dailymotion

 

また、図書館で昔のムーミンのDVDを借り、日本語を消すと聞き覚えの言葉がースウェーデン語でした。トーベはスウェーデン語系フィンランド人で、ムーミンはスウェーデン語で書かれていることを知りました。そこからフィンランドの歴史を知ることになります。フィンランドはスウェーデンに約750年支配されており、その後ロシアに約100年支配下に、そして1917年独立をします。その前にカレワラという叙事詩や、フィンランディアなどフィンランド人のアイデンティティが確立され、独立につながります。カンテレという民族楽器や、ヒンメリというライ麦の穂で作る芸術作品も知りました。

 

帰り、トゥルクからフェリー(シリアラインとバイキングラインがある)でストックホルムへ。トゥルクはアヴォという名前も記載されていましたが、アヴォはスウェーデン語でスウェーデン時代の首都であったことを知りました。