別称金華山城。林小城(福山城)から大嵩崎集落のある谷を隔てて東側の尾根に築かれた谷戸式城郭を総称して「林城」と呼ばれるそうです。
1459年、府中小笠原家の小笠原清宗が築城したとされています。信濃国守護であった府中小笠原氏は当初さらさらは井川城を拠点にしていましたが、後に清宗の曾孫小笠原長棟が同族の松尾小笠原氏を屈服させ、小笠原氏を統一した後に拠点を移したと云われています。
大城は、小城より新しい時代のものと考えられていましたが、最近の研究では、小城よりも前の時代のものと推察されているそうです。
松本市中心から東部の薄川沿いにある筑摩山地に位置した山城で、縄張りは小城と同じく尾根先に置かれた本丸の背後は高土塁と堀切によって断ち切られており、本丸は東西48m、南北21から37m程で、西方を除いて石垣、土塁がめぐっていたとされます。また尾根伝いに堀切と曲輪を連ね雛壇状に列べた曲輪群になっていたとされます。
長棟の子、長時が当主となった時期から甲斐の武田氏と対立。1545年、武田晴信が福与城の藤沢頼親を攻めた際には福与城の後詰として竜ヶ崎城に陣取ったものの、武田氏の家臣、今井信甫、板垣信方らにより陥落。林城に撤退しました。
1548年、武田軍が上田原の合戦で敗北すると信濃の国人衆の間で動揺が広がり、7月には諏訪西方衆らが反乱。これに呼応して小笠原長時は塩尻峠に布陣しました。これに対して武田晴信も出陣し対決。塩尻峠の合戦と呼ばれる戦いで小笠原軍は1000名が戦死して敗退しました。
塩尻の合戦に勝った晴信は村井城を築城して前進拠点とし、いったん上原城へ帰陣。1550年に小笠原氏17代当主の長時が武田信玄に攻められ、深志城など支城が次々に落城すると、小笠原長時は、林城で応戦せず北信濃の村上義清を頼って落ち伸び、一夜のうちに落城しました。その後武田氏により破却され、そのまま廃城となりました。
【交通アクセス】
JR松本駅よりアルピコ交通バス入山辺線バス、入山辺出張所バス停下車。登城口まで徒歩約10分。登山口から主郭まで徒歩約35分