てつこの部屋 | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 38年の軌跡

白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 38年の軌跡

私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して38年経過しました。








            『鉄』この部屋


 ♪汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり           愛宕の山に入り残る月を旅路の友として♪


日本初の鉄道は新橋横浜間に敷設されました。
私は横浜駅近くの高島町で生まれたので、特にこの鉄道唱歌は馴染みやすいものでした。


唱歌では新橋を出発した岡(陸)蒸気は5番目で横浜駅に到着します。
鶴見神奈川あとにしてゆけば横浜ステーション湊を見れば百舟の煙は空をこがすまで♪

さすがに横浜駅をステーションと歌うのは、この鉄道が横浜を租界とする、西洋列強の要請によってつくられたものだからでしょう。

東海道篇の鉄道唱歌は66番まであるそうですが、誰でもとても全部は覚えられないので、私のように大抵は1番とあとは自分の駅の歌詞を覚えたのだそうです。

高島町は横浜駅から数百メートルの距離にある所で、現在の「みなとみらい」の西端にあります。「みなとみらい」は三菱造船横浜造船所の広大なドックヤード跡地に開かれたものです。

私の生家は二つの鉄道の間にありました。
生家の裏3メートルに隣接する複線の鉄道は、ドックヤードに石炭や資材を運ぶ、なんと蒸気機関車の貨物が通る鉄路でした。そして家の前8メートル向こうの高架には、東横線と国鉄(現在の京浜東北線)が各々複線で走っていました。
さらに高架の向こう側には、市電と呼ばれた路面電車がこれまた複線で走っていました。当然車道もあるので常時騒音の中でした。

一日に数回これらの複線上を汽車、電車が同時に走る時がありました。他に昔の騒音トラックも走ります。物凄い事になりました。
さらにご丁寧な事に家から2メートルの所に、ドックヤード入口の踏切があるものですから、二台の蒸気機関車が警笛を鳴らすのです。
向こうの市電と高架の電車、裏の蒸気機関車らが同時に走る…もうこれは大したご馳走です。
まことに蒸気機関車という物は凄いもので、二台がすれ違いで通る時には、生家が規則正しく震動するのでした。

幼稚園に入る頃に磯子区の根岸に引っ越しましたが、高島町の生家に比べると、典型的な下町の根岸が閑静な住宅地のようでした。

今思ったのですが、私が静かな図書館で勉強ができないのは、この猛烈な環境で育ったからかも知れません。


12歳中学一年生の夏休みに、本格的昆虫採集を目指して、八ヶ岳南陵の縦走に行きました。

新宿駅から中央本線で行ったのですが、最終23時45分の列車が、これがまたなんと蒸気機関車でした。いくら五十数年前とはいえ、新宿駅で蒸気機関車には驚きました。

小学生の頃に切手を集めていて、この写真の通称「東海道電化」は垂涎の的のひとつでしたが、それはともかく、東海道完全電化は私が7歳の時です。それから5年経って新宿駅で蒸気機関車に乗るとは、当時の私でも少々意外でした。
また初めてスイッチバックも経験しました。

東海道新幹線開通は1964年でひかり『号』と呼ばれていました。
そして今は高架を走る東北新幹線と違って、盛岡~秋田間では在来線上を走る「あきたこまち」が、極めて間近に見られるのですが、いつも見るたびに人間は凄いものを作れるんだなぁと思うのです。
凄いというのは大きさや重厚感もさることながら、とにかく走行音が静かなのです。
特に宮沢賢治の描いた雫石町橋場の「化け物丁場」を通るとき、車両の巨大さと、ほとんど音がしないかのような静粛さは、畏敬の念さえ覚えます。

新橋横浜間開業は1872年でした。
それから146年で日本の鉄道は著しい進化を遂げました。


   LTEさんのブログをリブログさせていただきました。




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