やまゆりの花(津久井やまゆり園) | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 38年の軌跡

白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 38年の軌跡

私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して38年経過しました。

2016年7月26日に起きた津久井やまゆり園事件が10回忌を迎えました。

被害者を悼みここに再掲させていただきました。




山百合の花は愛と祝祭の花です。

横浜と鎌倉を結ぶ緩やかな山陵があって、鎌倉アルプスと呼ばれ愛されています。
4時間くらいの山歩きで、最高点の大丸山が156㍍。私はよく鎌倉の建長寺に降りるコースを行きました。


小学生の頃、大きく華麗なスワローテイルと名付けられた6種のアゲハ類を採集するために、春夏秋の発生時期に幾度となく通いました。

私の住む根岸の川向こうの滝頭車庫から、当時でも珍しい、市内全路線バス中唯一のボンネットバスに乗って、円海山の麓の終点峰町まで約1時間、途中で舗装道路が切れて凸凹の田舎道を上下に揺られて行きました。

この横浜鎌倉アルプスには神奈川県花の山百合が多く、夏の採集には山百合がポイントになりました。

ある時、鬱蒼とした杣道の崖の上に群生する山百合に、一頭の♀のカラスアゲハが吸蜜にきていました。
翅の付け根や胴体を赤茶色の花粉に染めてまるで別種の蝶のようです。

そうそう、横浜では普通の大人も、白い蝶をモンシロチョウと呼ぶように、クロアゲハやカラスアゲハのような黒っぽいアゲハ類を、なぜか「鎌倉ちょうちょ」とよんでいました。遥か昔からそう呼ばれていたのでしょう。

残念ながら崖を登りきるまでにその♀は逃げて行ってしまいましたが、辺りに漂う山百合の素晴らしい芳香に誘われて、私も蝶のように、鼻を花の中に入れるようにしてその香りを楽しみました。
誰だって群生する山百合の世界に出会ったら、辺りを包むこの世のものとは思えぬ甘い芳香の虜になるはずです。





南区の白妙町に、祖父の代からまるで親戚付き合いの、藤浦さんというおじさんとおばさんがいました。

毎年お正月になるとお年玉を頂きに行くのですが、藤浦さんのお年玉は破格で、お正月には何をさて置いても、藤浦さんをはずすことは決してありませんでした。

藤浦さんのおじさんは、元町で空調設備の商店を経営していました。

お年賀のご挨拶に行くと、おじさんもおばさんもいつもにこやかに優しく迎えてくれました。

藤浦さんには私より4歳年上のつとむちゃんと中学生の清子さんがいます。

清子さんの上には長男の正夫さんがいたのですが、数年前、私が物心のつく前に若くして亡くなっていたのでした。
ですから私はそのお兄さんについては、いつも仏壇の脇の遺影でしか知らないのでした。

つとむちゃんは障害児で、知的障害の中でも最重度の障害者でした。
今は憚られる言葉になってしまいましたが、最重度で知能指数20以下の障害者は、ドストエフスキーの小説の題名で呼ばれていました。
後年この小説を読んだ時、その主人公ムイシュキン公爵はどうしてもつとむちゃんと重なって離れないのでした。


初めてつとむちゃんに会ったとき、私は幼稚園児でした。つとむちゃんは余り歩くことができず、目は虚ろで焦点はどこにもなく、言葉を持たずただ唸るだけでした。親指と人差し指で摘むように紙の切れ端を下げ、その手は緩やかに揺れて定まることはありませんでした。
ときどきまたはしばしば、手のひらで下から顎を叩くような動作を繰り返すのでした。
すべての生物の個体がもつ「目的」への明瞭な方向性もなく、外部への反応も殆どないように見え、ただ身体内部の生命的活動だけで生きているように見えるのでした。

私は驚くと言うよりも強い悲しみに襲われたことを、今でも鮮明に覚えています。

でもおばさんにはつとむちゃんの気持ちが分かるらしく、「みんなが来たから、何だろうって思って来たのね、ハイハイ向こうに行ってましょうね」と言って、出てきたつとむちゃんを微笑みながら奥の部屋に連れていくのでした。

山百合の群落との出会いのように、五感を始めとする私の世界は広がり深化して行くのに、つとむちゃんは変わることなく、私から見ると何の目的もなく、その重そうな肉体を負わされているように思いました。

どうしてつとむちゃんのようなうんめいでこのよにうまれてくるのかぼくにはあたえられたものでもつとむちゃんにはまったくあたえられなかったのはどうしてだろうそれだけではなくおじさんやおばさんのかなしみやくろうはどれほどだろうぼくのおかあさんにはぼくのせいちょうはははおやとしてさいだいのたのしみだというけれどつとむちゃんのおじさんやおばさんにはつとむちゃんのせいちょうはさいだいのたのしみといえるのだろうかやがてぼくのおかあさんがおばあさんになるのとおなじようにおじさんとおばさんもおじいさんとおばあさんになってつとむちゃんのせわもままならなくなったときだれにつとむちゃんのせわをしてもらうんだろうおじさんとおばさんはこんなにたいへんなのにだれにもやさしくできるなんてとてもえらいとおもう…

しかし藤浦のおじさんおばさんの不幸はこれだけではなかったのです。
私は清子さんのお兄さんを遺影でしか知らないと言いましたが、お兄さんは私が四歳の時に交通事故で亡くなっていたのでした。



正夫さんは酒問屋に勤めていました。
配達の途中横浜浜松町の交差点のカーブで、オート三輪の助手席から投げ出され、後続のトラックに轢かれて亡くなってしまったのです。
まだ21歳の若さでした。

当時のオート三輪にはドアはなく、横浜浜松町の交差点は、国道16号と1号国道の交差する大きな交差点で、非常に交通量の多い所でした。

事故の連絡を受けたおばさんと清子さんが駆けつけると、正夫さんの亡骸は無残にも、冷たい歩道の上に筵を掛けられて置かれていたのでした。

おばさんやおじさんの悲しみや絶望はいかばかりだったでしょうか。

それなのに私達には観音様のように優しく接してくれたのです。

やがて清子さんにお婿さんが来て、藤浦の名は残りました。それもおじさんやおばさんがこの上なく優しい方々だったからだと思います。
そしておじさんとおばさんに孫が二人できました。

不可避を静かに優しく耐えてやがておじさんもおばさんも亡くなりました。つとむちゃんを残して…。


おばさんは卒寿を越えて、なくなるまでの数年間は寝たきりになり、つとむちゃんの世話をすることができなくなりました。

おばさんは清子さんに、老いたつとむちゃんを託すことを、哭きながら詫びたといいます。それは清子さんに万一の時には二人の孫に負担がゆくからでもありました。

そしてつとむちゃんは施設に入りました。

おばさんは亡くなる数日前、自分の運命の苦しく理不尽だったことを恨み嘆いたそうです。
やはり悲しく辛い人生だった…のですね。

誰にも言えなかったわが身の辛さや苦しさを、ともに子供を持つ母親となっている娘に、自分の分身の如き清子さんに吐露したのでした。

私はその話を清子さんから直接聞きました。そして清子さんは次のように言葉を継ぎました。
「母は私がいたから安心して言えたのね」

おばさんは娘に理解されて、安心してこの世を去っていったのだと思います。

愛というものは私たちには計り知れないものなのですね。

寿命が延びて喜ばしい事が多くなりましたが、重い現実もまた背負わねばならなくなりました。

昔はつとむちゃんのような障害者は短命とされ、多くは親が看取る事ができました。
親は思い残す事なく、安心して我が子の待つ天国に旅立つ事ができました。

でも現在はおじさんやおばさんのように、思いを残さねばならない方がどれほどおられるでしょうか。



山百合の花咲く障害者施設がありました。

その山百合は多くのつとむちゃんや、藤浦のおじさんやおばさんを救っていました。

だがそこに山百合の美しい姿や香しい芳香のかけがえのなさも知らずに、つとむちゃんとおじさんおばさんの命の陰影の一面だけを見て、つとむちゃんこそがすべての辛労辛苦の元凶と裁断した、荒々しい禍津日が怨嗟と憤怒の凶器を振り下ろしました。

この時に亡くなった19人と24人の傷害を受けた人達は悉く私の、また藤浦のおじさんおばさんの愛したつとむちゃんです。

自然から離れて人間的価値観だけが支配する現代の世界に生きる私達は、慈愛を失えば容易に憎しみの裁きをする審問官に堕してしまうでしょう。

合理性や論理性、能率性、確率性などは人間知性の言わば眷族であって、この眷族も慈愛を欲しているのです。そうでなければ豊かな人間の世界で存在することはできません。
永い人間の歴史の中に、この眷族達は慈愛ある人間の手で、山百合のように美しく香しい芳香の花を咲かせてきました。

慈愛さえあればつとむちゃんも、回復してスイスの療養所から帰って来た時のムイシュキン侯爵のような、金髪で碧眼の、いや日本人だから黒髪に涼やかな黒い瞳の青年としてこの世を生きる可能性も有ったことを想像できたでしょう。

もしかしてほんとうはこれをかいているのがつとむちゃんでつとむちゃんがかいそうしているのはわたしだったかもしれませんもしもそうならわたしはつとむちゃんにわたしがいえなかったことをいってほしいとおもいますふじうらのおじさんやおばさんはわたしのちちとははできよこさんはわたしのおねえさんでまさおさんはわたしのかけがえのないおにいさんだったのですどうかつとむちゃんにはわたしがしたかったあらゆることをわたしができなかったあらゆることをしてあいのあふれるあたたかいじんせいをおくってください。

人口に占める全障害者の割合は6%だと言われています。障害者は一人で産まれてきたわけではありません。



採集が終わって北鎌倉からバスと電車に乗りました。車内でときどき、採集して三角紙に入れたスワローテイルを、三角罐から取り出して眺めました。
それは美しく立派で憧れにふさわしい姿をしていました。

私が蝶を見ているときは勿論当然ですが、見ていない時にも人が私を一瞥するのです。にこやかに微笑む人もいるのです。
私はわたしの事を知っている人なのかなと思ったり、捕虫網の竿を釣竿と間違えているのかなと思ったりしました。
でもあまりにもその人数が多いので、考えるのも面倒になって、気にしないふりをして、次の採集行をあれこれと考えるのでした。
すっかりお腹が空いて家に着くと、母も私の顔をまじまじと見るのです。
そして私の鼻に鼻を近付けて匂いを嗅ぐと
笑いながら、
『鼻の頭に何がついているのかと思ったら、百合の花粉がついているのね』と言いました。





2017年8月




白鳥碧のホームページ
ミルクケア