地震の又三郎/宮沢賢治と三陸大地震 | 白鳥碧のブログ 私のガン闘病記 31年の軌跡

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私が過去に体験したことや、日々感じたこと等を綴っていきます。
37歳の時に前縦隔原発性腺外胚細胞腫瘍非セミノーマに罹患しました。ステージⅢB
胸骨正中切開手術による腫瘍全摘、シスプラチン他の多剤投与後、ミルクケアを5年間実践して30年経過しました。

宮沢賢治明治29年〜昭和8年 (37歳)


            2011年3月11日  東日本大震災の大津波に襲われた宮古道の駅  「なあど」
          

宮沢賢治が産まれたのは1896年で、この年は明治三陸大津波の惨禍がありました。


彼が病没した1933年にも昭和三陸大津波の惨禍がありました。

 
奇しくも宮沢賢治は二つの大災害の年に生を受け、またこの世を去って行きました。

厳密に言えば明治三陸大津波は6月15日に起こり、賢治の出生は8月27日ですから、明治三陸大地震は体験していないのですが、出生5日後の8月31日には、明治三陸大地震に連動した陸羽地震が起こったのでした。

陸羽地震は岩手・秋田の県境を震源とした内陸直下型大地震で、マグニチュードは7.2。岩手県と秋田県の真昼山脈沿いが特に被害が甚だしく、倒壊家屋は全壊約6.000戸、半壊約3.000戸、死者は200名を越えるものでした。

賢治は長く肺結核を患っていました。
晩年の無理や不摂生の末、昭和8年9月21日、急性肺炎のために花巻の実家で37年の生涯を終えました。
その半年前の3月3日、昭和三陸大地震によって発生した大津波が三陸沿岸を襲いました。



青い胡桃やすっぱいかりんを吹き飛ばすような風と共に現れた又三郎。

どっどど    どどうど    どどうど    どどう。

物語の中で森や大地を揺り動かすような大風の鳴動は、現実には大地震の地鳴りと、大津波の巨大な波濤の崩れる音となって、当時の三陸沿岸を襲ったのでした。

大震災に現れ、大震災に去っていった賢治は、風の中に現れ、風と共に去っていった「風の又三郎」と不思議な一致を感じます。

賢治の数々の美しく神秘的な諸作品は、ガラスのマントのように虹色に煌めきます。
そして私達に具わった、優しさや慈しみ・思いやりなどの「十力の金剛石」を思い出させてくれています。


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