
滝沢市牧野林から岩手山とイーハトーヴのやまやま。岩手山の前が谷地山、その左は大森、その左が石ケ森。
ガンの告知は非常に大切です。
①自分のガンがどのような種類の物かについての認識は、その後の治療方針を自主的に推進するための必須の条件です。
②医師による5年生存率の告知は、患者がその後の人生を豊かにレイアウトするために、必要不可欠なものです。
全ガンの5年生存率が58%で、42%の方がそれに及ばないという現状では、現代医学の標準治療だけが治療方法ではありません。
医師が自分の学び研究した、臨床経験のある現代医学による標準治療を、最善のものと見て強く推進することは当然の事です。
しかし上記42%のデータに現れた患者を、結果的にせよ治癒させることのできない現在の標準治療を至上の治療法として、
他の治療法を全く顧みない現状は、医師として患者に対する愛情が欠けていると言われても仕方のない態度だと言えましょう。
患者の命は現代医学による標準治療のセオリーのためにあるのではありません。
医学や薬学、更に病院などの医療機関のためにあるのではありません。
患者は助かりたい!、しかし極めて限定された知識しか持たないので、依らば大樹の陰と標準治療を頼みにしたのです。
医師もその事を良く々々分かっているはずです。それなのにみすみす42%の方々を心ならずも暗い奈落に誘導してしまっているのは、標準治療にこだわって他の治療法を頭から否定しているからです。
また医師自身が5年生存率を軽視しているという現実があります。
それではインフォームド・コンセントも曖昧なものになってしまいます。
私は個人に対して悪意があるわけではありません。しかし或るブログで、とても看過できない事柄が言われているのを見て、ここに書かせていただきます。
そのブログでは五年生存率は【あくまでも目安】であるというのです。
目安というのは標準という意味ですが、この言葉の前に『あくまでも』という言葉を置くのなら、全く意味合いが違ってきます。
不確かなとまではゆかなくとも、確固たるものではないという意味になります。
例えば5年生存率90%という場合、
『あくまでも』という言葉はおそらく用いないでしょう。殆んど正確な数字だと言うのではないでしょうか。
例えば50%の場合はどうでしょうか。
これは普通五分五分というでしょう。または伸るか反るか、或いは一か八かという言葉が当てはまります。穏やかならざる言葉ですね。
これを穏やかなものにするには、50%という数字を始めから不正確なものと考えれば良いのです。
『あくまでも目安』だと曖昧に扱えば、5年生存率の意味を、相手によって自在に変えることができます。しかしそれでは患者には気休めを与えただけで、五年生存率はきわめて不正確なものになってしまいます。
五年生存率が医師によって、また患者によってくるくると恣意的に変わってしまうなら、それこそ五年生存率は【あくまでも目安】でしかなく、患者はただ空しく無辺の荒野を空しくさ迷うだけです。

滝沢市のランドマーク
その医師にとって五年生存率が【あくまでも目安】である理由は、データの中に転移したものと、転移していないものを、一緒にしてしまっているからだというのですが、それならそのデータは完全に棄ててしまえば良いと思います。
しかしそれにしても何とだらしのない研究姿勢でしょう。このデータを作成した人間に、この世で何かちゃんと出来ることがあるでしょうか。
そのようなデータは、基本的に使わなければよいのです。
しかしどうしても使うとすれば、データの内容を詳細に説明し、患者の状態(転移しているか否か)に合わせてはっきりと告知するべきです。
そしてあくまでも目安というのはお止めになるべきだと思います。なぜなら現にその医師に、転移した自分の5年生存率を尋ねた患者は、その医師の【5年生存率はあくまでも目安】という回答後、データを『単なるデータだと思っています』と言うようになりました。しかしこれは非常に危険な傾向だと思います。なぜ危険かというと現状を軽視して、いたずらな楽観性の中に埋没してしまい、思考停止に落ちてゆくからです。
思考停止のいちばんの好例は、病は気からということばを多用することです。軽い病気のときは使わないのに、ガン治療で手立てが尽きたと思われたとき、(医学上の手立てが尽きた時)これからが病気を正面からしっかり見据えなければならないときに、目を閉じてしまうにも等しい行為だと思います。
上記はあまりにもきつい言い方かも知れませんが、患者さんには常に積極的でいてほしいのです。なげやりになってしまったら、進むべき道も見えなくなります。
ガンは自然治癒から祈祷に至るまで、治癒への道は多くあると思います。何か新しい手立ても、無下に荒唐無稽と退けずに患者さんの生活環境も勘案して、積極的に生きていただきたいと考えます。
余談になるかも知れませんが、こんなことがいわれます。日本人は絶体絶命の危機に陥ると目を閉じてしまい、感情の世界に没入してしまうが、欧米人はあくまでも目を見開き、最期まで意識を眠らせることはしないというものです。欧米型がすべて良いとは思いませんが、太平洋戦争末期に日本人はどんな考え方を持ったかを考えるとき意味深い事柄だと思います。
現代医学の中で美しく終焉を迎えるより、あらゆる世界に向けて自己を開放しておくことこそ最も大切だと思います。思考停止状態では、既定医学のドームの中で、閉塞感に苛まれて葛藤するだけではないかと切に怖れます。
今日の話は昨日の続き今日の続きはまた明日
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