http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%81%9f%e3%81%a3%e3%81%9f%e4%b8%80%e7%99%ba%e3%81%a7%e2%80%a6%e8%aa%9e%e3%82%8a%e7%b6%99%e3%81%90%e2%80%9c%e4%b8%80%e5%ae%b6%e5%85%a8%e6%bb%85%e3%81%ae%e6%82%b2%e5%8a%87%e2%80%9d/ar-BBD4bIA?ocid=TSHDHP#page=2


日テレNEWS24


「沖縄・平和祈念公園にある「平和の礎」には、住民、軍人、国籍に関係なく、沖縄戦で亡くなった24万1468人全員の名前が刻んである。しかし中には、名前がなく「~の娘」「~の長男」「~の妻」のように刻まれている人々もいる。なぜ彼らには名前がないのか。一家全滅という悲惨な出来事を語り継ごうとする戦争体験者の思いを聞いた。

■「今でも顔が浮かんでくる」

 「戦争が終わるちょっと前まで一緒でしたからね。隣近所だもん、みんなね、顔が浮かんでくるよ」――礎のための名簿調査に協力した大城藤六さん(86)。大城さんも14歳で経験した沖縄戦で多くの知り合いを亡くした。

 1945年3月26日に始まった沖縄戦は、6月23日に事実上終結するまでのわずか3か月あまりで、県民の実に4分の1にあたる12万2228人が犠牲になった。大城さんは最後の激戦地となった南部の糸満市で、“ガマ”と呼ばれる洞窟に隠れていた。しかし―

 大城さん「この壕を兵隊さんに貸してくれと。あなたたちは安全な所を探して移ってくれと」「(Q:安全な場所はあった?)ないんですよ。あまりに弾が激しくて」

■たった一発で一家全滅

 戦況の悪化と共に行き場をなくしていた日本兵は、住民を守るどころか追い出したという。親族が散り散りになってはいけないと考えた大城さん一族は、ガマ以外の頑丈な場所を求め、沖縄の伝統的なお墓に27人で身を寄せた。

 しかし、そこにもアメリカ軍の砲弾が直撃した。たった一発の砲弾で親族13人が亡くなり、いとこの家族は一家全滅してしまった。

 大城さん「この墓でみんな死んでしまいました。集まっていて。あと祖母も一緒にそこでやられていますから」「(Q:一家族ごといなくなるっていうのは)あの人が生きていたら何歳だろう、何をしていただろう。今でも考えることがあります」

■「1人でも多くの名前を残したい」

 大城さんのいとこのように、一家全滅した家族は、糸満市だけでも440世帯にのぼる。そして、戦後50年近くたち、「平和の礎」が建設されることになった。大城さんの親族は、大城さんが生きていたことによって、名前を刻むことができたが、一家全滅などにより、今もなお、名前のない人たちがいる。

 “1人でも多くの名前を残したい”大城さんは名簿調査への協力を志願した。糸満市には今でも、一家全滅した家の跡地があちらこちらにある。かつて家族がいた場所は、今も主を失ったまま。小屋のような建物で、静かに一家が弔われている。

■名もなき犠牲者たちは訴える

 大城さんは、全滅した一家の知り合いを求めて調べたが、戦後50年近くたっていたこともあり、当時を知る人は県外に移っていたり、亡くなっていたりしていた。特に幼い子どもたちの名前を特定するのは困難だった。そこで、「父」「母」「息子」などといったつながりを刻むことにした。

 大城さん「生まれた証を残すためにもやるべき。生き残った者はそれを大きな務めだと思っています。今でも」

 戦後72年の慰霊の日。朝から多くの遺族たちが礎を訪れた。礎に刻まれた名前は、1人1人の生きた証。名もなき犠牲者たちは今も命の尊さを訴えている。」


武器輸出を進める安倍政権、お金のためにそれを後押しする経済界、その罪深さを、安倍政権を支持する人達にはよくよく考えてもらいたいね。


人が亡くなるということのリアリティを痛いほど感じる今だからこそ。