・~薔 薇 の 呼 吸~・

 

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ぼくの、この世で一番好きなお話しを書きます。

 

これは「薔薇という宇宙」とひとつになったというお話しです。

 

 

このお話しは、ある人経由の又聞きなので、話してくれたその人は、サラリと話しただけのことでしたが、ぼくは、この話しを聞いたとたんに「ずっと欲しかったものが手に入ったような気がした」という覚えてしまいました。

 

 

又聞きの、そのまた又聞きのハナシですが、その元ネタの元ネタを遡ってゆくと、なんと、禅のお坊さんからのお話しらしいのです。

 

 

まずは、ある人が、自分が大切に育てていた薔薇の花を、じーーーっと見ているというお姿がある、と想像してみてください。

 

 

 

それはもう、愛でて愛でて、我が心が、薔薇の花とひとつになるくらいの気持ちで見ていたのだと思います。

 

 

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すると、なんと、その人が言うには、薔薇の花の方も自分のことを見ている、と気づいてしまったということなのです。

 

 

そして、「主(見ている側)」と「客(見られている薔薇の花)」という関係の、「見る」と「見られる」の関係のままをを持続していたところ、その人が感じるには、見られているうちに自分が薔薇の花になってしまったようになったということなのです。

 

 

つまり、「主」と「客」という関係性が、見ているうちに、入れ替わってしまったというわけなのです。

 

 

見ている側(その人)が薔薇の花となる、ということは、見られている側(薔薇の花)が、その人の中に入って来てしまって、そのまま、そのまま、両者が入れ替わったということなのでしょう。

 

 

相手が動物ならば、こちらが見れば、動物もまたこちらを見ている、ということはありえます。動物には眼がありますからね。

 

 

薔薇の花には眼など、ありません。

 

 

このような状態になることを、禅では『三昧(サマディー)』といいます。

 

 

三昧(サマーディー)とは、主客一体の世界。「主」と「客」がひとつになること。ある時は主客が入れ替わったり、境い目が無くなってひとつになることをいいます。

 

 

これは、見ている側の人間と、見られている薔薇の花とが、相思相愛のひとつの関係になる世界です。これを【薔薇の呼吸】と、ぼくは名付けてしまいました。

 

 

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見ている者が、見られる側に反転してしまう。

 

 

反転だけでなく、見ている対象になってしまう(混体の状態)。

 

 

お互いが、入れ替え置き換え自在な関係。

 

 

ぼくは、このお話しを聞いて、本当に「ずっと欲しかったものが手に入ったような気持ち」になれたのです。

 

 

 

ぼくにとっては、これこそ『呼吸法の奥義』に達した境地であると。禅的な引き寄せの技法であると。

 

 

しかし、これを、ただの『呼吸法の奥義』で済ましてしまうわけにはいきません。この境地を、呼吸法だけでなく、ごくあたりまえの日常の中で自在に使えたら、もっと素晴らしいだろうなと思うのです。

 

 

これは「薔薇の花の愛好会」というお話しではありません。あくまで薔薇の花というのは「喩え」としての存在ですよ。「薔薇の花を見よう会」としてお受け取りにならないでくださいね。

 

 

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大切なことは、「主(見ている側)」と「客(見られる側)」を、日常で入れ替え自在になれることを普通に使えれば、これはもう『呼吸法の奥義』どころではない、呼吸法を超えた、すべての奥義なのです。

 

 

これなら、思い通りにならなくてうまくいっていないことにも楽しんで使えるし、うまくいっていることであれば、さらに楽しく使え、さらに、「生」と「死」ということにも使えて、使えないものは無い、というくらいに使える、というくらいの素晴らしさの「技法」なのだと思えます。

 

 

 

ぼくはこの先、まだまだ生きてゆきながら、このことをずっと思い続けてゆくのだろうと、思うのです。

 

 

 

・~  薔 薇 の 呼 吸  ~・

 

これは「薔薇という宇宙」と、ひとつになったというお話しでした。

 

 

 

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