日本糖尿病学会が 一般内科医向けに発行している『糖尿病治療ガイド』2024年版は,ついに9月末までに発行されませんでした.

いつ出るのだろうと調べたら,この通りでした.

 

 

 

ご興味のある方はご覧ください.

 

 

叔母の葬儀を終えて戻ってきました.

 

昨今の日本は高齢化社会ですから,高齢の親族の葬儀に 一年に何回も出た,これは もはや珍しくはないでしょう.

しかし,私の場合 2月に兄の急死で葬儀の喪主となり,今回も叔母の葬儀の喪主となり,1年間に2回も喪主となりました. 

 

どちらの故人も 生涯独身だったからです.配偶者も子供もいない場合,喪主はそれ以外で もっとも近い親族から探すことになります. 叔母の場合は,私 以外にも 甥・姪は何人かいるのですが,そこは田舎のことなので,『喪主は 本家から』ということになりました. 本家・分家っていう言葉は 最近の若い人にはわからないでしょうね.

 

ともあれ,来年は一周忌が2回,さらに翌年は 三回忌が2回あることになります.(二周忌・二回忌はどこへ行ったのだろう)

なお,実家周辺の田んぼは とっくに稲刈りを終えて二番穂まで伸びておりました. 当家のお米も農協に出荷済みでしたから,今頃は どこかのスーパーに並んでいるのでしょう.

(C) Sousuke48 さん

 

 

 

叔母が亡くなりました. 享年95歳. ブログは しばらく休みます.

 

 

前回記事の通り,谷間は谷間,平地は平地で,それぞれの水田だけに専念していれば平和なのでしょう.

 

 

しかし,谷間の水田はめったに水不足にならないのに対して,平地の水田は すぐに水不足になりがちです.

平地の人から見れば,『あの谷間の水を使えればいいのに』と思うでしょう.


しかし,これは谷間の水田(=谷戸水田)を持つ人にとってはたまったものではありません.自分たちは不自由していないのに,その水田を潰してため池にしろと言われたわけですから.

すると その後 何が起こったのか,それが 常陸国(ひたちのくに) 風土記の行方郡(なめかたのこうり)の条に こう書かれています.

[原文]=====

古老曰
石村玉穂宮大八洲所駁天皇之世
有人箭括氏麻多智 献自郡 西谷之葦原墾闢新治田
此時 夜刀神 相群引率 悉尽到来 左右防障 勿令耕佃

於晃 麻多智 大起怒情 着被甲鎧之 自身執仗 打殺駈逐
乃至山口 標梲置堺濠 告夜刀神云

自此以上 聴為神地
自此以下 須作人田

自今以後 吾為神祝 永代敬祭 冀勿崇勿恨。

設社初祭者 即還耕田一十町余

麻多智子孫 相承致祭 至今不絶

其後至 難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世
壬生連麻呂 初占其谷 令築池堤
時夜刀神 昇集池辺椎槻 経時不去

於是 麻呂挙声大言 令修理此池 要孟活民
何神誰祗 不従風化
即令役民云 目見雑物魚虫之類 無所憚懼 随尽打殺

言了応時 神蛇避隠 所謂其池 今号椎井也
池面椎株 清泉所出 取井名池

=====

これをぞるばが勝手に読み下すとこうです.

[読み下し]=====

古老曰く

石村玉穂宮大八洲所駁天皇(=継体天皇)の世に
麻多智(またち)と言う人が
自らの郡より西の谷の葦の原を開墾して新田を作り献上した.

その際,夜刀神(やとのかみ)が大勢で押しかけてきて耕作を妨害した.

これを見た麻多智は大いに怒り,鎧甲冑を身に着けて自ら矛をとり,打ち殺して追い払った.
その後 山の入り口に 境界として杖を挿し,

これより上は (夜刀)神の地である
しかしこれより下は 人間の田とする

これを守るなら 今後は社(やしろ)を設けて 夜刀神を 子々孫々まで祭るであろう.

と宣言した,
そのため 麻多智の子孫はこれを継承して現在まで祭りは絶えていない.

ところが その後 難波長柄豊前大宮臨軒天皇(=孝徳天皇)の世になって
壬生連麻呂(みぶのむらじ まろ) がその谷を占領し 池の堤防まで築いてしまったので,
夜刀神は 池の周囲の木に登って抵抗し,いつまでも去らなかった.

それを見た麻呂は 大声をあげて
『この池は民衆を活かすためのものだ. どんな神であれ従う必要はない. 目障りな 魚・虫の類は打ち殺してしまえ』
と命じたので,夜刀神は逃げ出してしまった.

=====

最初は 谷間と平地とで 境界を定めて それぞれの領分は侵さないと合意したのに,後の世になって 谷間で耕作していた人を追い払い,池の堤防=ため池を作ってしまいました.

 

ひどい話ですが,実際に武力を用いて谷間を占領し,ため池を築造したのでしょう.

なおこの記述にある ため池の一部は 現在も 茨城県 行方市にある神社の奥の『椎井池』(しいいのいけ)として 清らかな水が今も湧き出ています.

 

椎井池

 

そして その神社の名前は『夜刀神社』,つまり『谷戸神社』なのです. 残忍なことをしたので,祟りを恐れたのでしょうね.




 

 

糖尿病の人は もちろん血糖値が高いのですが,それ以外にも 糖尿病の人は中性脂肪が高い,あるいは逆に BCAAが低い,だからこのサプリをのみましょう などという広告はよく見かけます.商業広告だけでなく,学術文献でもこういう報告は多いです.

糖尿病の人は血中ナントカ成分が低いことを発見した

ですが,そのナントカ成分の過不足だけで 糖尿病のすべてを説明できるのでしょうか.別の成分は不足に(あるいは過剰に)なっていないのでしょうか.

そうです,個々の成分の多い/少ないだけで すべてを説明できるわけがありません.

調べるのなら ぜーーんぶ調べてみないとわからないでしょう.

 

 

ご興味のある方はご覧ください.

 

 

 

弥生時代に稲作が始まった時,この図のような自然地形があったとします.
 

 

ここまで見てきたように;

谷あい(谷戸)の水田
山間部の傾斜地を利用した棚田です. 水源が既にあるので 安定したコメ作りができます. さらに谷の上部に専用のため池も作れます.しかし,耕作面積には最初から限界があります.

平地の水田
安定した灌漑用水と排水路を確保する必要があります. 非常に広い水田を作れますが,水源が川なので,水量は一定しませんから,水不足になると『水争い』が頻発します. もちろん ため池は必須です. しかし洪水が起こるとすべてが流されてしまうリスクもあります.

この状況で,谷戸水田 と平地の水田とで それぞれ稲作が始まったら こうなるでしょう.

 

ここで平地で水田を持つ人が,ふと谷間を見て こう考えたらどうでしょう.

 

あの谷を全部 ため池にすればいいのではないか?

 

 

そうすれば,平地の水田に十分な水が供給できるので,もはや川の位置に制約されずに,広々とした水田が作れます. 当然 コメの収穫量はけた違いに増大するでしょう.

 

 

これは実際にも起こったようです. 下図は弥生時代の水田遺跡です.初期から中期までは,自然地形と川の流れに沿って小規模な水田が散在していたのに,後期になると,突然 整然とした大規模水田が登場しています. 十分な貯水量のため池と 灌漑水路が完成したからだと思われます.

大阪府 池島・福万寺遺跡の弥生水田
『遺跡に学ぶ 023』p.84 図53に加筆
(C) 新泉社


どうしてこういうことが可能になったのでしょうか?

 

 

水田による稲作には 豊富な水が必須です.水の枯れた田んぼからは 収穫はまったく期待できません.水田は畑よりも保水層が薄く,意外に乾燥に弱いのです.
なので,水を奪い合う「水争い」は 時に●し合いにまで発展します.

では,稲作農家の立場になって考えてみてください.安心してコメ作りを行うには,どうするのがベストでしょうか?

Myため池

 

それは『自分専用のため池』を持つことでしょう.これなら誰にも水をとられません.

そんなことができるのかと思われるかもしれませんが,谷戸水田で,水源のある山全体が自分の名義であれば 意外に簡単に作れます. 実際 私の母親の実家では.山間部の棚田の更に上の山側に 自家用ため池を作ってあります.

方法はこの通りです.
谷の合間を利用したこのような棚田があるのなら;

 

水田の更に上の 水源に近い斜面を切り崩して,その土で堤防を作るだけです.

 

 

稲刈りが終わったら 翌年の田植えまで ここに水を貯めておくのです.これで非常用水源が確保できました.
このような ため池は 日本全国には無数にあります.

これは岡山県総社市の例ですが;

 

(C) Google Map

 

谷間の斜面の一番高いところにため池を作っています.

現在 日本に存在するため池の7割は江戸時代以前に造られたようです.

すべてのため池は自治体に登録されていますが,さらに防災の観点から ある程度以上の規模のものは「特定農業用ため池」と指定されて管理保全の義務があります. なお江戸時代以前に 個人が作ったため池は 作った人の名前がついていることも多いです.村人が安心してコメ作りができるよう 村の庄屋様が一肌脱いで作ったのでしょう. 母親の実家も庄屋だったので おそらくそうだったと思います.

 

 


 

 



 

 

 

戻ってきました.
今年の夏旅行は 昨年の青森に続いて岩手県でした.

東京や大阪に暮らしていると,デーンと構える雄大な自然を目の当たりにすることはまずありません. せいぜい高尾山や箕面の滝くらいのスケール.

都会では自然はほぼゼロですが,東北を旅していると 自然と人間との割合がまるで違うと感じます.

優美な岩木山とは対照的に,雄大な岩手山は迫力のある姿です.

 

岩手山

 

八幡平では

 

勇敢な赤トンボが 奥様の帽子の上で休憩していました.

 

最終日には盛岡市内で

 

岩手銀行 赤レンガ館

 

岩手銀行 赤レンガ館 ホール

 

さらに 盛岡冷麺のコリコリシコシコまで

 

 

十分に堪能いたしました.