「密着型ブルマー」はいかにして広まったか | 白河清周の脱線する話

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新年度が始まってしばらく経った。

 

電車から、一見して「青春18きっぷ」の利用者と分かる旅行者の姿が消え、通勤通学の日常が戻ってきた。

 

「服装、頭髪検査」云々という女子高生の声が聞こえてきた。見上げると、某私立女子高の生徒。

 

この学校の生徒は、皆同じような三つ編みかおかっぱ。まるで昭和の時代から抜け出したかのようだ。公立だと、田舎でも、もっと垢抜けている。

 

だいぶ前だが、あるテレビ番組で、「橋北中学校水難事件」の再現VTRが流れていた。それを見て、「昭和30年にスクール水着があるかよ?」と思った。スクール水着や、今から取り上げる「密着型ブルマー」のようなぴったりした素材は、化学繊維が発展・普及した高度成長期以降に広まったと考えられるからだ。実際の水難事件のニュース映像も見たことがあるが、もちろんスクール水着、もっといえば「学校指定水着」など存在しない。この時代は女子の水着はスカートつきが主流だったようだ。

 

このブログで学校の理不尽さを取り上げるようになったきっかけが、ブルマーに関する話題からだったが、その発端である山本雄二著『ブルマーの謎 <女子の身体>と戦後日本』、これは読まなくてはと思い、しばらく読んでいた。

 

表紙が実物の「密着型ブルマー」の写真である。電車の中で読むには勇気がいる装丁だが、内容は極めて真面目。まさしく、学校が長きにわたって冒されていた、体罰やへんな校則、導入過程も分からないままいつしか導入され、そのままずぶずぶ惰性でやり続けていた事、その原動力を、女子体操服のブルマーという切り口で解き明かすという本だった。

 

根っこにあるのは、戦後民主主義派と伝統回帰派の奇妙なねじれの構図である。戦後の学校教育は、民主主義の伝道機関であったと同時に、家父長的な伝統が生きながらえる温床でもあったということだ。

 

まず、学校に、どういう過程で「密着型ブルマー」が導入され、あっという間に廃れたのかという疑問。

 

巷間言われてきた風説としては、「東京オリンピックの女子バレーボールの、ソ連チームのブルマーがカッコよくて広まり、ブルセラショップが出てきてなくなった」というものである。

 

本当にカッコよかったのだろうか。実は河西昌枝ら“東洋の魔女”のところにも、あるメーカーが密着型ブルマーを持ち込んできたが、「こんな下着のような恥ずかしいものは穿けない」と断ったと証言しているのだ。

 

密着型ブルマーの導入過程を探るうえで、山本は同じ青弓社から出ている『ブルマーの社会史』の、掛水通子による調査に注目している。これは2006年に東京女子体育大学の学生に依頼して、その母親にアンケートをしたものである。それによると、1966年以降に急速に広まったこと、小中高の別では中学校で突出していること(中学校に関しては、実に70%以上で密着型ブルマーが採用されている)、およそ10年かけて直線的に広まっている事が分かる。権力によって一斉に強制されたのであれば、ある時点で不連続的に増加するはずだからそうは思えないが、何らかの組織力が働いたと考えられる。

 

そこで、中学校体育連盟(中体連)という団体に注目する。

 

実は中体連は、元々は「中学生に大会をさせないための団体」だった。

 

戦後、まさに学校は日本に民主主義を根付かせるための機関と位置づけたられた。その頃の学校スポーツに関する指針は、スポーツエリート主義・勝利至上主義の否定だった。対外試合も学校教育の一環、せいぜい宿泊を要しない範囲と、著しく制限されていた。

 

一方、日本水連や日本陸連といった競技団体は、戦前の大日本体育協会の流れを汲んでいて、「国際大会でメダルを獲ることが国威発揚に繋がる」というスタンスである。本書ではこの立場を「スポーツ大日本派」と呼ぶ。軍国主義とは違い、スポーツ大日本派はむしろ敗戦後に勢いづいた。“フジヤマのトビウオ”古橋広之進の活躍に、大衆が熱狂した。しかし日本がようやく復帰を認められたヘルシンキオリンピックでは、全盛期を過ぎた古橋は入賞すらかなわなかった。後継は育っていなかったのだ。

 

スポーツ大日本派の勢いはオリンピック東京開催が決まると最高潮に達する。しかしローマでも東京でも、ことごとく不振に終わった。東京オリンピックはバレーボールや柔道の活躍は知られているが、これらは東京大会から採用された種目であり、日本のお家芸だったはずの水泳と陸上は振るわなかった。

 

選手が育成できない元凶は、中学生の対外試合を制限しているせいだと、スポーツ大日本派は主張する。

 

都道府県の中体連はたかが校長の集まりである。競技団体は政治家を会長に抱くような巨大組織。スポーツ大日本派に対抗すべく、都道府県中体連の連合体として、全国中体連が1955年に出来る。ところが対外試合の制限は隣県、ブロック大会とだんだん骨抜きにされていって、東京オリンピックの不振を受けて、ついに中学生の全国大会が解禁されることになる。

 

ところが文部省が、中学生の全国大会を認めるにあたって条件をつけた。「全国大会の主催者には教育機関が教育関係団体を入れること」。その役割を担うことになったのが、他でもない中体連だった。

 

かくして、中体連は、「大会をさせないための団体」から、大会の胴元に変質する。

 

しかし、元々「大会をさせないための団体」であった中体連には資金集めのノウハウは乏しい。

 

そこに、知恵者が現れる。

 

高島という商社のスポーツ衣料担当で、中体連に顔が利いた、千種基という人物である。

 

千種が出した奇策が、「学生服メーカーを中体連のスポンサーにつけること」だった。そのメーカーの商品を推薦して、マークの独占使用権を与える代わりにロイヤリティを得る。学生服メーカーなら全国津々浦々に販路を持っているし、体操服は中学生がみんな使うものだから莫大な利益を生む。

 

そこで、まず明石被服(富士ヨット)に話を持っていくが、明石被服は乗らなかった。そして次に話を持っていったのが、同じ岡山・児島にある尾崎商事(カンコー)で、尾崎商事はこの話に乗ることになる。

 

国庫補助を受けている中体連が特定の企業にマークの独占使用権を与える事は問題とされた。そこで、中体連とは別に中学校体育振興会(中体振)という団体を設立した。カンコー製品につけられた中体振マークは、中体連のマークに「振」の文字を入れただけのものであり、中体連と中体振が同体であることは隠しようがなかったのだが。

 

千種は高島を退社し、葵という会社を設立する。尾崎商事は、ジャージは自ら製造するが、水着とブルマーは千種に製造を委託した。「なぜ、このとき中体振が広めたのが密着型ブルマーだったのか」という疑問は、千種が組んでいた工場が水着の工場だったからだということのようで、密着型ブルマーはちょうちんブルマーから「進化」したのではなく、海水パンツから派生したということになる。

 

だからといって、「中体振マーク」が葵の印籠になったわけでもなかったという。カンコーが弱い地域、大阪のように地場の繊維産業が強い地域、いろいろあったが、中体振推薦ではない他社商品も含めて、中学生の女子体操服といえばブルマーになるほど席巻された事になる。

 

ここで、興味深い事に、営業の現場では、「中体振推薦商品を学校に採用してもらう事で、中学生の大会支援に繋がる」と言っていたが、体操服と違い部活動のユニフォーム、こちらは中体連・中体振ともカンコーとも無関係だったということ。なぜならば、美津濃などのスポーツ用品メーカーの領域であり、学生衣料メーカーの領域ではなく、価格帯も求められるものも違っていたからである。