映画「チョコレート ドーナツ」を観た!! | 次郎とマーマの なんじゃこりゃ日記

次郎とマーマの なんじゃこりゃ日記

知的しょうがいA1判定=次郎 
その次郎がマーマと呼ぶ私とのなんじゃこりゃな日々

お久ぶりです!


いつの間にか次郎は二十歳になり、様々な行政手続きに、翻弄され、その顛末などと書こうかと思っていましたが、そのことはいづれ。


今日は映画「チョコレート ドーナツ」を観た感想など。。。。

感想というより、書かないと眠れないので、書きます。

なんだ?!眠れないなんてことのないマーマが眠れなくなる映画「チョコレート ドーナツ」


マーマは映画評は、出来るだけ書かないと決めていました。

これから観る人に悪いし、観た人にも、共有できない言いっぱなしの文章は書かないようにしていました。


しかし。


ここから先は、観た人はぜひ読んでください。これから観る人は、観た後読んでください。

私の評価を読んでから観ようと思う人は、このまま読んでください。


この映画、観る価値のある素晴らしい映画です。

あの結末さえなければ。

なにしろ、俳優が素晴らしいので、感動の嵐です。

特に、アラン・カミングの演技は、観る価値あり。ひとりで、この映画を盛り上げていると言っていい。


それでだまされちゃうんです。

私も、だまされました。

感動して、泣いて、そして、映画館を出ました。

映画館を出た後も、会う人会う人に、「いい映画だった」と言いました。


しかし、首をひねるようなシーンが次々に思い出されて、寝るころには、腑に落ちないことだらけになって。


でも、頭を冷やそう、一晩寝て、冷静になって考えよう。

そう思って寝ました。疲れていたからいったん寝れました。

そして、3時間で、「やっぱ腑に落ちん!!!」と目が覚めたというわけです。


先ほど書いた「あの結末さえなければ」、という、最悪の結末というのが、障がい児=マルコの死です。

予告編からして、これはマルコが死ぬな。と匂ったから、ちょっと見たくなかったのですが、次郎の親としたら、観なきゃ!と思って観たのです。


最初から、マルコの死を匂わせながら、物語は始まります。


あ、昨日寝る前に、検索したんですよね。この映画の評判を。

そしたら、私が感じているように、感じている人がいないようだったから、なおのこと、書かかなければと思ったのです。


この映画は「実話から生まれた」とチラシにあるので、構想は得たけれど、実話とは違うということだと思います。

そして、実話がどうであったか?私がネットで見る限り、わからないようです。


私の予想は、実話ではマルコは死んでいないと思います。

もしも、本当に死んでいたとしても、あのようなストーリーにはならなかったと思います。

私の2つの仮設を聞いてください。


<第一の仮設>マルコを殺したのは、脚本だ!

マルコが死ぬというこの受け入れがたい結末を、観客がいつの間にか受け入れるような仕掛けが、最初からしてあって、最悪の事態であるにも関わらず、なんとなく、マルコが死ぬことを、あらかじめ、予期していたかのように、さらりと受け入れてしまう。このことに、私は、あとからあとから後悔することになる。

なぜ、マルコは死ななければならなかったのか?腑に落ちない。

マルコが死んだのは、社会の偏見と、差別と、無慈悲なシステムのせいであるというように、気持ちは持って行かれるが、そのことを言わんがために、マルコが死ぬという最悪の事態をもってくることはないだろう!と思うのだ。

死に方が、全く、取って付けたようだった。マルコは、母親のもとに無理やり連れ戻されたあと、行方不明になり、死んで発見される。私はこのことに、とても違和感を覚える。

私は次郎という障がい児と暮らしている経験から、障がい児と死が結びつかないのだ。大人は死をすぐにイメージして、死んで終わらせようとするけれど、障がい児に死のイメージはない。生きることしかないと言っていい。次郎に限らず、たとえば、こんな話がある。障がい児の親が子どもの将来を悲観いして、一緒に死のうと、障がい児を連れて死に場所に行ったけれど、その障がい児自身が「生きていれば、いいことがあるような気がするから、死にたくない」と言って、親を説得して、死を免れた。という話。


障がい児を死なせたいのは、大人なのじゃないか?!

障がい故の、差別に耐えられないのは、大人なのじゃないか?

障がい児はいたって、健気に、前向きに、ひたすらに生きるだけだ。とくに、知的障がいと言われる子どもたちの明るさは、社会を照らす光であるとさえ思っている。


なのに、マルコは、まるで死を望むかのように、彷徨って、いとも簡単に死んでしまう。


そして、マルコの死を伝える小さな新聞記事を、関係者に送りつけるシーンは最悪だ。

障がい児がひとり死のうが生きようが、偏見に満ちた憎らしい大人たちが改心するはずもないのに、「ほーら、みてみろよ、あんたたちのしたことが、こんな結果になったんだよ」と、見せつけるやりかたは、ちょっとした復讐心を満足させるから、また、イヤになる。マルコは死んだのだ。どんなにしたって、取り戻せない。そんなどんでん返しなら、いらない。差別心にあふれたイヤな大人だらけの、理不尽な社会でも、生きてさえいてくれたら、それでいい。生きてさえいれば、いつかは、少しでも、世の中はよくなっていく。


感動的な話にするために、マルコには死んでもらうことにしたこの映画を、私は、やはりいい映画とは思わない。社会にはびこる差別を描くのなら、ゲイのカップルの話だけで十分だ。障がい児の死まで出さなくとも、この世界は、差別と偏見に満ちている。


<第二の仮設>マルコが死んだのが事実ならば。


マルコの母親は、育児放棄の薬物依存症ということになっているけれど、マルコを産み、14年間育てたのだ。どんな劣悪な環境であっても、マルコがその世界しか知らないならば、その世界から出てゆこうとはしない。あんな母親よりも、ゲイのカップルのほうが数倍まし。という気にさせられながら、物語は進んでいくけれど、マルコにとっては、母親が「ホーム」だったのだ。

少なくとも、14年間死なせずに、暮らしてきたのだ。命を守ってくれた人だ。

その母親のところから「ホーム」を探して彷徨い出たとすれば、ゲイのカップルのしたことは、なんだったのか?愛した。というけれど、その愛が、マルコを死なせる結果になるのなら、なんという悲劇だろう。

俳優アラン・カミングが魅力的すぎて、その役ルディが勇気ある愛にあふれた人物に見えてしまうけれど、実際はどうだろう?カミングアウトすれば、マルコとの生活を続けられなくなるとゲイであることを隠しているポールが意気地なしだろうか?

子どもを守るためなら、主義も主張も、自分自身さえも、かなぐり捨てて、子どものために生きればいいじゃない?!と、思う。自分自身であること以上に、命は重いと思うのだ。自由に生きて子どもの命を危険にさらすより、不自由でも命だけは保障してくれる(命の保証すらない施設もあっただろうけれど)施設にいたら、マルコは死ななかったかもしれない。と思うと、なんということをしてしまったのだ!!あのカップルも立ち上がれなくなるのじゃないか?と思う。


ところが、マルコの死さえも、乗り越えて、ゲイのカップルは前向きに、生きてゆく。


もう二度と立ち上がれなくなっているのは、母親だろう。私は、あの愛想なしの、薬物依存の母親がマルコを愛していなかったとは思わない。体に悪かろうが、チョコレート ドーナツを与えた人だ。大音量の音楽の中でも、マルコと暮らした人だ。自分が刑務所に入って、「あの子は元気?」とつぶやいた人だ。ゲイのカップルを信じて、託した人だ。最後に薬物と男におぼれマルコを部屋から追い出すシーンでも、私は、優しさを感じた。「ママがいいと言うまで廊下にいてね」。そういわれたマルコは、ママがいいと言うまで、廊下で待っていたはずだ。14歳までしてきたように。


なのに、マルコはそのまま、いなくなってしまう。そんなことは、今までなかったのに、いなくなったことに、あの二人に責任はないのだろうか?

それでなくとも、緩やかに死にむかってるような生活をしている母親は、もう二度と立ち上がることはないだろう。


この映画が描いたのは、素晴らしいゲイのカップルが、ひどい偏見と差別の中、前向きに生きる姿。そして、それを劇的に盛り上げる障がい児の母子家庭の死だ。


そう思うのは、私が障がい児の母子家庭当事者だからだろう。殺されるほうだから、眠れないのだ。


さて、夜が明けた。


理不尽だろうが、無理解だろうが、なんであろうが、生きてゆくのだ。

生きてさえいれば、いいことがある。そう信じて。


眠れない夜にお付き合いくださり、ありがとうございました。

一緒に生きて行きましょう!

簡単に死なせやしません。しぶとく生き抜きましょう!!!!