ラッセンはスピリチュアルポルノか!? | 美術作家 白濱雅也の関心事 

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だいぶ間が空いてすみません。少しづつと言いながらやっぱりまとめてになってしまうのが悪い癖で…。
長くなりますが、なんとか結論ぽいところまで書きたいと思います。ラッセンの作品の吸引力の秘密についてはわりと早く解明できたので、それについては書きます。しかし、その美術的評価、なぜラッセンは美術館にないのか?についてはこれまた難しい要素が多々あり、最近、知ったことが結論になりそうなので、次に回したいと思います。

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ラッセンの絵がなぜあんなに人気があるのか?という疑問に対する率直な答えは色んな所で見聞きする。思いつくままにあげてみよう。

自然や海を題材に癒しを与える絵柄

自然を称賛するだれでもわかる単純明快なテーマ

青系を多用した鮮やかな色合い

隅々まできっちり筆跡なく描かれたリアリズム

夕日や月などの劇的な光の効果

自然と人の営みとの調和を謳いあげるユートピア

サーファーである画家の人間像と自然啓発的な容姿

ハンサムでスマートな容姿、ハワイ出身の白人であること

などであろうか。
もう少し隠れたところでは

自然をテーマとしながら自然の脅威はなく、水槽の手前で海を眺めるような安心感がある

水が多用され潤いを感じさせる

劇的な情景設定ではあるがシリアスな陰鬱さがない

写真のようなテクスチャを多用しフォトリアリズム的迫真性と描写技術を感じさせる

自然=素晴らしいという内容で、こちらに問いかけるものはない

悲しみ、怒り、憎しみ、絶望などの負の感情的要素が皆無

筆跡など画家の個人的な匂いが皆無

要約すれば、
特別な美術や芸術の知識がなくとも内容をただちに了解でき、その理想的なメッセージと理想郷のような絵柄に納得でき、写真のようにリアルに描かれ、しかも観光絵葉書のように色鮮やかで美しい。こうしたわかりやすい魅力を率直に受け止められれば深く魅了されてしまう。それに画家本人のキャラクターや環境保護的な活動が加味されて強化される。

フォトリアリズム的な視覚効果の新しさもあって「ヤンキー」的志向と指摘されたちょっとだけおしゃれな感覚にもフィットしたのであろう。タッチを感じさせないつるっとした画面はデザインやイラストは共通する潔癖感がある。おしゃれな空間には作家の個人的な感情のこもった息吹は不要なのである。

海洋国家日本だからこそ海を題材にしたラッセンの絵が好まれるのは当然である。自然を愛する国民性だから自然と人間が調和した南国風ユートピアに憧れるのである。この異国風景画が日本でだけ好まれるのはなぜなのか、先日の川瀬巴水展を見てわかった。
川瀬巴水の描く風景には海や水辺が多くその色調もラッセンに通じている。江戸時代の浮世絵に西洋画の遠近法、陰影法を融合し、これが日本人の風景イメージの母型となったのではないだろうか。そのイメージは、スタジオジブリの男鹿和夫や山本二三の背景画に通じている。
巴水とその版元はアールヴィバンスタイルのルーツであるといえそうである。

川瀬巴水


男鹿和雄


山本二三


ラッセンのエキゾチックな南国の海は唐突な印象もあるがこうしてジブリに至る系譜を見るとラッセンの絵は日本人の伝統的大衆風景画の流れに位置づけられるのではないだろうか。ラッセンの図像が受容されているのには根拠があったといえる。

そのうえで思うのは、ここまで徹底して万人が好む理想的風景を描くというのもある意味プロフェッショナルですごい。
しかし上記のような条件をある程度満たす画家がいないわけでもない気がする。なぜここまでラッセンに魅了されるのか?前回まで書いたような構造も明かしてはみたがそれでも疑問はくすぶる。

これを書く前に実際にラッセン展を見に行った。

薄暗い中でピンポイントの照明を多用する会場の様子は見なれた美術展とは異なり、むしろスナックやバーを思わせるところがあった。その中で浮かび上がるラッセンの鮮やかな絵はネオンサインのようでもある。

ここでまずふと気が付いたのは、劇的で鮮やかな照明効果を多用するラッセンの絵は最近のライブコンサートの照明などに共通するエクスタシーがあること。人を幻惑させ陶酔させる舞台照明のような効果を持っていて、それが昂揚感を生み崇高な気持ちにさせる。ラッセンの絵では天上界からの光や逆光気味の光が多用されるが、それはステージ照明のそれに似ているのだ。




絵肌は筆跡はほとんどなく、初期にはエアブラシを多用していたようだが近年の絵はフォトショップなどのデジタルツールで描かれているように感じた。見ただけではそれは判然としない。
そこにはグラデーションが滑らかで艶やかな多用される。
波のグラデーションや水滴したたるイルカの肌を見ているときにふと「?なんか、なまめかしいな」と感じた。それに気が付いてから会場を見回すと、絵は別の姿に見え始め疑問は氷解していった。これはエロティックアートだ!

イルカの肌は色こそ違えほとんど女性の肌のように艶やかでしなやかである。そこに水しぶきが舞い散り滴り落ちる。波頭にも水の飛沫が飛散し、なまめかしさを強調する。近景の森の中から浜辺を眺める構図や夕日を明かりを中央に置く構図は洞窟から外界を眺めるようなイメージとなり、産道や子宮を連想させる。岩窟や滝は女性器を、イルカの口は幼い子のそれを、イルカ自体は男性器を連想させ、飛び跳ねるイルカの遠景や魚群は精子にも見える。
一度こうして見えてしまうと実に多くの要素がエロティックな暗喩を感じさせるのである。しかも表面的にはそうした表象が皆無であるにもかかわらず、である。

実際に比較をしてみよう。
色調をラッセンの絵と巷のヌード画像を色調を整えて比べて見た。






















それほど似てないと思うかもしれない。ヒロヤマガタとも比べてみよう。






だいぶ違うのがわかる。(ヒロヤマガタの訴求力はラッセンのそれとは異なる系統のようだ)

また背景の光り輝く月や星、夕日、宇宙などのイメージもまたエロティックである。
そもそも海は体内のイメージであるし、寄せくる波や劇的な光のグラデーションはエクスタシーの瞬間の脳内ビジュアルのようでもある。それに気付いたのは奥山民枝の作品を見たときである。
奥山民枝の作品は生命讃歌、宇宙讃歌的な半抽象の情景画であるが、それは一種の理想郷であり作家の志向からも女性的なエロティシズムが濃厚でもある。この世界とラッセンの背景はとてもよく似ているのだ。女性にも人気がある秘密はこの辺にあるのではないか?

奥山民枝








一見、自然のユートピアを描きながら、実はその裏にエロティックなイメージが充満していた。ラッセンの人気の秘密はここにあった。
自然と人の完全に調和したユートピアを思い描かせながら、エロティックな感覚を刺激して高揚へ導くスピリチュアルポルノなのだ。


こういうことは以前から指摘されていることで「メディアセックス」という本では広告イメージの中にそうとは見えてなくても巧妙にエロティックなイメージが潜んでいることを早くから指摘している。また大衆が好むもののなかに食欲や性欲などの直接的な欲望を暗示させるものが多いということも指摘されている。

私はラッセンの人気の秘密がここにあると発見したのであってエロティックだからだめだと言っているのではないしそうも思わない。これは実はアートの中にも多くみられることで、名品の中に多く見受けられる。たとえば西洋画の裸婦はもちろんのこと古い仏像がなまめかしかったり。現代的な作品でも、たとえばラウシェンバーグのこれ。



BBCのアート番組でこれはエロスを感じさせて良いと評していた。

ならば、もう一つの疑問、なぜラッセンの絵はこんなに人気があるのに現代アートと認められず、美術館にないのか?である。
この答えはまたちょっと難問です。なので次回に続きます。すみません。