愚将十奸 ~帝国陸海軍の名誉を貶めたトンデモない将校たち~

其乃捌:アジア独立の志士たちを見捨てて逃走したバックレ軍人  木村兵太郎陸軍大将

1 輝かしい経歴を積み重ねたエリート将校

 木村 兵太郎(きむら へいたろう)陸軍大将は、大東亜戦争後に占領軍に逮捕され、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑判決を受けた、いわゆる「A級戦犯」の一人として有名です。

 でも、私は戦勝国の側に立って木村を一方的に断罪するつもりは毛頭ありません。なぜなら、私は日本人の精神性を蝕んだ元凶こそ東京裁判とその諸判決だと確信しています。だから、これから肯定する木村愚将論を展開するに当たって、まずはその点を予めハッキリさせて頂きます(参照:平成23年応募作品:歴史教科書は「東京裁判」の真実を伝えているのか?(1))。



 木村兵太郎陸軍大将
 ビルマ方面司令部が首都ラングーンを無断に放棄した際の司令官です。写真はWikipediaから転用。


 さて、木村は明治21年(1888年)9月28日 に東京都で誕生(本籍地は埼玉県)。その後、広島一中、広島陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。同校卒業後、明治41年12月に陸軍少尉に任官となり、野砲兵第16連隊附に就任。以後、陸軍野戦砲兵射撃学校教官、陸軍大学校卒業後に参謀本部附、第3師団参謀、陸軍大学校教官、砲兵第24大隊長、陸軍野戦砲兵学校教官、野砲兵第22連隊長、陸軍省兵器局長などの要職を歴任しました。

 さらに、昭和4(1929)年には参謀本部員(陸軍)の身でありながら軍令部員(海軍)に抜擢され、同年11月のロンドン海軍軍縮会議の日本側代表の随行員を務めなど、エリート将校として輝かしい経歴を積み重ねていきました
 
 そして、昭和14年3月、木村は陸軍中将に昇進し、第32師団長を拝命。その後、関東軍参謀長を経て、昭和16年4月に東條英機陸軍大臣の下で陸軍次官に就任。その8カ月後(つまり昭和16年12月8日)に日米開戦を迎えました。


2 ラングーンから無断に撤退、いや逃走

 時が過ぎ、戦況が悪化。とりわけビルマ戦線では、河辺正三・牟田口廉也の極悪タッグが推進したインパール作戦が頓挫。連合国軍の攻勢に抗し切れず、日本軍の敗色が濃厚になる最中、昭和19(1944)年8月30に木村は河辺に代わってビルマ方面軍司令官に就任しました(参照:愚将十奸 其乃伍:河辺 正三 陸軍大将)。ただし、ビルマ戦線におけるイギリス軍に怯え、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺したとされる小心者の木村をそのポストに置くこと自体、無謀な決定でした

 同年4月13日、ラングーン北西部の防衛戦の指揮を執っていた第28軍司令官桜井省三陸軍中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速で、いつラングーンが戦場になるかも分からない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動したのでは、(それは)逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」とした上で、「方面軍司令部を速やかにシャン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言。しかし、木村はこれを却下しました

 また、田中新一方面軍参謀長も、「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張。しかし、木村は、司令部の撤退を田中参謀長の出張中に決定しました

 そして4月23日、木村は幕僚たちとともに飛行機でラングーンを脱出。タイとの国境に近いモールメインへ逃れました。それは、南方軍、つまり自分の部下たちに無断の首都放棄でした。前線で苦戦する日本軍の各部隊だけでなく、日本が支援したビルマ国」政府のバー・モウ首班、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席、自由インド仮政府初代公使の蜂谷輝夫、駐ビルマ大使の石射猪太郎以下日本大使館員及び民間の在留邦人、傷病兵などは全て置き去りにされました。それは事実上の逃走でした。実に情けない指揮官です




 バー・モウ ビルマ国首班
 ビルマ(現ミャンマー)の独立運動家、政治家。大東亜戦争開戦後、日本軍の支援を受けたアウン・サンらのビルマ独立義勇軍がビルマからイギリス軍を駆逐し、1943年にビルマ国の独立を宣言。その際に国家元首に就任したのがバー・モウでした。また、バー・モウは同年11月に東京で開かれた大東亜会議にもビルマ国首班として参加しました。写真はWikipediaから転用。




 チャンドラ・ボース 自由インド仮政府首班
 インドの独立運動家、インド国民会議派議長(1938 ~1939年)、自由インド仮政府国家主席・首相。ボースはインド国民軍の最高司令官を兼務し、ガンディとは違って軍事的な方法によるイギリスからの解放を目指しました。なお、昭和18年5月に来日した際、東條閣下はボースの人柄に傾倒。彼の東亜解放思想を高く評価し、自らが提唱する大東亜共栄圏構想に重ね合わせました。ボースも大東亜会議にオブザーバーとして参加しています。写真はWikipediaから転用。



 それでも、現地に取り残された人々は、何とか陸路で脱出を試みました。しかし、その際に多くの犠牲者を出しました(なお、この時、チャンドラ・ボースは常にインド国民軍部隊の殿を歩き、渡河を行うときなどは最後の兵が渡河を終えるまで川岸を離れなかったそうです)。

 その一方で、木村は逃走の直後、めでたく陸軍大将に昇進。

 エッ?ウソだろっ 

 というか、それを許した陸軍中枢にも怒りを覚えます


 ビルマ方面軍司令部の唐突なラングーン放棄の結果、同軍の指揮命令系統は完全に麻痺。イラワジ川西部でイギリス軍と激戦を展開していた第28軍は敵中に孤立。後に同所から脱出をはかる作戦の過程で、日本軍将兵の半数以上が亡くなりました。

 なお、ビルマ戦線における日本軍の戦死者は約14万4千人に達するそうですが、悲惨を極めたことで知られるインパール作戦での戦死者は1万8千人(全体の12.5%)。つまり、ビルマ戦線の戦死者の約52%は、木村が逃げたことでビルマ方面軍が大混乱をきたした、この最終段階で発生しています。つまり、日本軍将兵の戦死者の数だけで判断すれば、木村はビルマ方面の指揮官として、河辺・牟田口の極悪タッグよりも重大な過失責任を負ったトンデモ軍人です

 軍司令官でありながら、保身を優先するあまり自分の職責を放棄し、日本と盟友関係にある外国要人や在留邦人の保護義務すら果たさなかった木村。戦後、ビルマ戦線から生還した日本軍将兵、つまり自分の部下たちから厳しい批判を受けました。でも、それは、人の道を外れ、ひたすら保身に走ってしまった木村が受け容れるべき当然の報いです


3 「初めから結論はついている」東京裁判で絞首刑判決

 戦後、木村は「A級戦犯」として占領軍に逮捕。東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けました。その理由は、第3次近衛内閣、そして次の東條内閣で東條陸軍大臣の下で陸軍次官を務め、陸軍中枢の権力を握っていた人物と見なされたことによるものでした。なお、木村と同様、武藤章も東條閣下が権力を掌握した当時、軍務局長として陸軍中枢にいた関係でA級戦犯として訴追され、絞首刑判決を受けました。
 
 実際に、木村の訴因については、ビルマ方面軍司令官としての行動については一言も触れられておらず、あくまで陸軍次官在職時の責任のみが追及されました。それでも、検察側は裁判で木村を「ビルマの屠殺者」と侮辱。それはそれで訴因とは直接関係のない、トンデモ発言でした。

 市ヶ谷を舞台に木村に対する審理が行われました。なお、木村は本人による弁論を一切行わなかったため、公判記録には木村の発言は何も記録されていません

 そして、昭和23年11月4日から同月12日にかけて、木村を含む被告人たちに判決が言い渡されました。

 判決は、インドのパール判事を除く10人の判事が木村を有罪とし、そのうち7名の判事が木村の死刑に賛成という極めて重いものでした(その人数は東條・土肥原・松井・武藤・板垣らと同数)。なお、東京裁判が戦勝国による敗戦国日本への見せしめであり、「裁判」の名を借りた報復劇であったのは言うまでもありません(参照:平成23年応募作品:歴史教科書は「東京裁判」の真実を伝えているのか?(1))。

 当初、日本のマスメディアは、木村が死刑になる可能性は少ないと予想。しかし、木村本人は早くから同裁判の本質を見抜いており、判決前日に夫人が面会に訪れた際、楽観視していた夫人に対し、「この裁判をどう考えているのか。初めから結論はついている裁判なんだ。そんなに甘いもんじゃない」と述べたそうです。

 そして、昭和23年12月23日、つまり皇太子の継宮明仁親王殿下、つまり今上陛下の15歳の御誕生日に巣鴨プリズンで絞首刑に処されました(参照:東京裁判を断罪した2.26池袋研修 ( 6 )これが東京裁判の舞台だ!:市ヶ谷台ツアー ( 11 ))。享年60歳。合掌

 木村の辞世の句は次の通りです。


 現身は とはの平和の 人柱  七たび生まれ 国に報いむ


 平和なる 国の弥栄 祈るかな 嬉しき便り 待たん浄土に


 うつし世は あとひとときの われながら 生死を越えし 法のみ光り



 どうやら、木村の最期の心の拠り所は仏法だったようです。    

 木村の御霊は昭和35年、東京裁判の判決に基づいて法務死された東條閣下など他の指導者たちとともに殉国七士廟に祀られ、さらに昭和53年に靖国神社に合祀されました。合掌

 ただし、私は靖国神社にお参りする際、毎回心の中で木村とそれ以外の幾人かを外して拝礼しています。

 
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 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。
 
 さて、次回愚将として取り上げるのは、ミッドウェー海戦の失敗で国運を大きく傾けた南雲忠一海軍大将です。乞うご期待!