自分で確かめたマジな近現代史・グルメな蕎麦・キレイなお花さん  
  • 27Dec
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      帰ってきた白髪磨人ᕦ(ò_óˇ)ᕤ

      お久しぶりです(=^▽^)σ白髪磨人が挫折を乗り越え、アメブロに帰って参りました。実に2年ぶりの投稿。 この間、息子を救出するために東アフリカのマラウイ共和国🇲🇼に出掛けたり、フィリピン共和国🇵🇭のレイテ島に建つ日本軍将兵の慰霊碑に線香を手向けたり、お笑いの世界にハマったり、ムキになってJ毛新聞「ひろば」への投稿の本数を増やしたり・・・とにかく、書きたいことは山ほどあります。でも、承認欲求を極力抑え、謙虚に少しずつネタを紹介させて頂きます🙇‍♂️さて、先日の前橋ライブで歌姫様に紹介して頂いた絵本が手元に届きました(^_^)v早速読み返してみると、もはや子ども用の玩具ではなく、人間の生き方を説く重厚な哲学書のような味わいに改めて驚かされました。絵本作家を目指す歌姫様のお気持ちが少しだけ分かった気がします٩(^‿^)۶歌姫様が朗読された他の絵本も探してみます。絵本って素晴らしい😊わっしょーい*\(^o^)/*えっ?「『歌姫様』って誰のこと?」ですって??それは@¥☆〒^$・・・皆さんのご想像にお任せしまストロングまん6(ò_óˇ)∂蛇足じゃが、おいも朝食は主人公のねこと同じで「しょくパン2まい」でごわす♪ハッハッハ🕶スィーユーネクストロング٩(ò_óˇ )و

  • 08Dec
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      問い直すべき12月8日の意味 ~知られていない「開戦の詔勅」~

      問い直すべき12月8日の意味 ~知られていない「開戦の詔勅」~ 12月8日。大東亜戦争が始まった、いわゆる「開戦の日」。今年も普段よりも早く自宅を出発し、出勤前に松竹院さん(前橋市本町)にお邪魔させて頂きました・・・ 今から75年前の今日、12月8日午前1時30分(日本時間)、佗美浩(たくみひろし)陸軍少将率いる第18師団佗美支隊がマレー半島北端のコタバルへ上陸作戦を開始。ここに大東亜戦争の火ぶたが切って落とされました。 さらに、その約2時間後の同3時19分(日本時間)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「ト・ト・ト……」(ト連送)、すなわち「全軍突撃」を下命。日本海軍はハワイ・オアフ島の真珠湾に展開していたアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に奇襲攻撃を敢行。 同3時22分、淵田中佐は旗艦「赤城」に対して「トラ・トラ・トラ」(トラ連送)を打電。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号でした。 とりわけ真珠湾作戦における米国側の被害は甚大で、犠牲者は2413名(民間人68名を含む)にも及びました。合掌  こうした非常事態を受け、12月8日12時29分(ワシントン時間)にF.ルーズベルトは連邦議会でアメリカ国民に向けてラジオ演説を行い、日本海軍の攻撃により真珠湾に展開中のアメリカ海軍が壊滅的な損害を被った12月7日(アメリカ時間)を「アメリカにとって恥辱の日」と表現し、奮起と団結を呼び掛けました。 一方で、日本軍側の損害も決して忘れてはいけません。 作戦成功を派手に宣伝された真珠湾攻撃は奇襲作戦の成功を過剰に宣伝されましたが、実際には64名もの日本軍将兵が散華されました。祖国の平和と発展を願い、その礎となられた誇り高き先人たちに対し、深く哀悼の意を表します。合掌 その64名の中には、前部に45センチ魚雷発射管を備えた特殊潜航艇「甲標的」で出撃して真珠湾内で散華され、後に「九軍神」として顕彰された9名の海軍将兵も含まれています。それは事実上の水中特攻の先駆けであり、後に大本営は5隻の甲標的で編成された部隊を初めて「特別攻撃隊」と命名しました。 そして、その特別攻撃隊の指揮を執った人物こそ、わが郷土群馬県が生んだ至尊の英雄、岩佐直治海軍中佐(前橋市天川原ご出身)です。 つまり。私にとって12月8日は、尊敬する岩佐直治海軍中佐の御命日。毎年欠かさず、岩佐中佐の御墓所である松竹院さん(前橋市本町)にお邪魔させて頂いております。(参照:12月8日は特別な日なんです!・12月8日は特別な日なんです! (2) )・12月8日は特別な日なんです! (3) ・12月8日は特別な日なんです!(4) )。  岩佐直治中佐のお墓 到着したのは8時前でしたが、すでに墓前にお花がたくさんお供えされてされていました。合掌 以下、掲載写真は全て平成28年12月8日に松竹院さんで撮影させて頂きました。 岩佐中佐の御尊名が刻まれた墓石 岩佐中佐は大正4(1915)年5月6日に前橋市天川原でお生まれになり、昭和20年12月8日にハワイ真珠湾で散華されました。合掌  持参したキクのお花 白と黄色のものがそれぞれ1輪ずつ入っているものを2束持参しました。 お供えしたキクのお花 これと同じものを墓前の左右に2輪ずつお供えしました。 「軍神岩佐中佐」の歌詞が刻まれた石碑 戦終戦から38年が経過した昭和58年に御遺族が建立した石碑です。墓前の左側に立っています。 柑橘系の果実 「軍神岩佐中佐」の歌詞碑の真上にぶら下がっていました。真ん丸の果実が優しく私をお出迎えしてくれました。  さて、「終戦の詔勅」、すなわち玉音放送に関しては、日本国民であれば誰もがご存知かと思います。しかし、「開戦の詔勅(正式には「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」)」については、ほとんど知られていないのではないでしょうか? というか、わが国の歴史教科書では、そもそも大東亜戦争は「太平洋戦争」などと表記され、同戦争を取り上げる際、その結末、すなわち連合国側がわが国に押し付けた「ポツダム宣言」ばかりが小・中・高とも強調されがちです。 それって、歴史学習のあり方としておかしいのでは? 日本人をあたかも米英の奴隷民族とみなしがちな、自虐的な歴史教科書なんて要らない! 日本が米英との開戦に踏み切った、いや踏み切らざるを得なかった背景こそ、しっかりと学ばせるべき!! 大東亜戦争の大義とは? その明確な答えが、「開戦の詔勅」に記されています。 難解な字句が多く登場し、おそらく首をひねるであろう読者さんのために、極力簡略化させて頂いた現代語訳も併記しておきます。 米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民国政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス御名御璽昭和十六年十二月八日内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣 東条英機文部大臣 橋田邦彦国務大臣 鈴木貞一農林大臣兼拓務大臣 井野碩哉厚生大臣 小泉親彦司法大臣 岩村通世海軍大臣 嶋田繁太郎外務大臣 東郷茂徳逓信大臣 寺島 健大蔵大臣 賀屋興宣商工大臣 岸 信介鉄道大臣 八田嘉明【現代語訳】 天の助けにより万世一系の皇位を受け継いできた大日本帝国の天皇が、忠誠にして武勇に富む国民に示す。 私はここに米国及び英国に対し、戦いを宣言する。陸海の将兵は全力を奮って戦いに挑み、武官や役人たちはその職務に励み、国民もそれぞれの本分を尽くし、心を一つにして国家の総力を挙げて戦いの目的を達成してほしい。 そもそも東亜の安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来への配慮であり、私が常に心に留めてきたことである。そして、各国との友好を大切にし、全ての国がともに栄える喜びを分かち合うことも、日本が常に外交の大切な柱としてきたことである。今、不幸にして米英両国と戦いを始めるに至ったことは、実にやむを得ないことであり、私の意志ではない。 中華民国の政府が日本の真意を理解せず、みだりに事を構え、東亜の平和をかき乱し、ついに日本に戦いを始めさせてから4年余りが経過した。幸い国民政府は新たに生まれ変わり、日本はこれ(=汪兆銘政府)と友好関係を結び、ともに提携するようになった。ところが、重慶に残存する政権(=蒋介石政府)は米国、英国にかくまわれ、仲間内の争いをやめようとはしない。 米英両国はこの残存政権を支援し、東亜の混乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を制覇しようという忌々しき野望を達成しようとしている。それだけではなく、その同盟国に働きかけて日本周辺に軍備を増強して我々を挑発し、さらには日本の平和的な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交まで行い、日本の生存に重大な脅威を与えている。 私は政府に(こうした悪しき)事態を平和的に解決させようとし、(米英両国の横暴に対して)長らく我慢してきたが、彼らは全く譲り合う気持ちは寸分もなく、いたずらに解決を先延ばしにし、経済上や軍事上の脅威を一段と増強し、日本を屈服させようとしている。事態がこのまま推移すると、東亜の安定に向けた日本の長年の努力はことごとく水泡に帰し、日本の存立も危うい。ここに至って、日本は自らの存立と自衛のために勢いよく起ち上がり、全ての障害を打ち破るしかない。 皇室の祖先や歴代の天皇が天から見守ってくださるであろう。私は国民の忠誠や武勇を信じ、歴代の天皇の遺業をおし広め、速やかに禍根を取り除き、東亜に永遠の平和を確立し、日本の光栄を守りたい。 いかがでしょうか?   大東亜戦争が東亜(アジア)の安定、そして日本の自存自衛のための戦いであったことは、この「開戦の詔勅」を読めば一目瞭然ではないでしょうか。しかも、米英との開戦に踏み切らざるをえない状況に日本を追い込んだ張本人は米英両国であり、日本が好んで米英との開戦に踏み切ったわけではないこともキッパリと明記されています。 大東亜戦争に関する歴史認識問題で他国と折り合いが付かない日本ですが、安易に譲ってはいけません! 私たち日本人は自国の歴史に誇りをもち、とりわけ「開戦の詔勅」の主旨に則って12月8日の意味を深く問い直す必要があるのではないでしょうか?それこそが、大東亜戦争で散華された日本軍将兵の方々に対する最大の供養だと私は思います。 改めて岩佐中佐、そして大東亜戦争で敢闘した私たち日本人の先人たちに敬礼 そして合掌

  • 07Dec
    • 両毛地域に刻まれた大東亜戦争の記憶:その2「新田飛行場跡」   の画像

      両毛地域に刻まれた大東亜戦争の記憶:その2「新田飛行場跡」   

      両毛地域に刻まれた大東亜戦争の記憶:その2 「新田飛行場跡」  実際にあちこち探してみれば、わが郷土群馬県にも戦争遺跡がたくさんあります。陸軍前橋飛行場をはじめ、すでに当ブログで紹介させて頂いたものもあります(参照:「群馬の森」は奇妙な歴史空間 ~陸軍岩鼻火薬製造所跡~(前編) ・吾妻谷で首都防衛に務めた防空監視隊 ~長野原町防空監視哨跡~ ・風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(1/4) )。 でも、それはまだ氷山の一角に過ぎません。できれば群馬県内の戦争遺跡を完全踏査し、その成果を当ブログで公表したい大東亜戦争の記憶を風化させてはいけない そんな想いもあって、先月26日に「ねむの会」両毛研修を決行しました。当日の参加者は寅市先生と織平先生、そして私、白髪磨人の3名。いつものメンバーです 今回は、その成果を詳しく紹介させて頂きます 当日最初に向かったのは、熊谷陸軍飛行学校新田分教場跡(太田市新田市野倉町)。同所には少年飛行兵の教練のための飛行場も設けられたことから、一般には所在地の地名をとって新田飛行場、または生品飛行場と呼ばれました(以下、「新田飛行場」で統一させて頂きます)。なお、至近の生品神社は、元弘3(1333)年5月8日、後醍醐天皇から鎌倉幕府討幕の綸旨を受けた新田義貞が旗揚げをした伝説の場所と伝えられ、国指定史跡「新田荘遺跡」の一つに数えられます。 VOXYくんは関越道高崎JCTから北関東道に入り、柔らかな朝日を浴びながらしばらく西進。太田薮塚ICで下り、後はカーナビくんの力を借りて市野倉地区に到着。南端の新新田変電所を起点に、地図で現在地を確認しながら、ほぼ正方形の敷地からなる新田飛行場跡の外周道路を時計回りにぐるりと一周してみました 新田飛行場跡の位置 当地では地名「新田市野倉町」(太田新田市野倉町)がそのまま新田飛行場跡を表し、その敷地は一辺が約1600mの正方形に近い形をしています。 図中に記したA~Dの各地点は同飛行場跡のそれぞれ南端・西端・北端・東端の角地で、「蛙又三叉路」はB地点の北側があります。そして、図中のE-G間の直線道路は滑走路の名残、F地点(下掲写真)がその南東端付近と思われます。以下、写真の無断転用は一切禁止します。 地形図に刻まれた新田飛行場跡の地割 周辺地域が東西南北の方向に道路がほぼ真っ直ぐ延びる碁盤目状の地割をもつなかで、市野倉地区だけは、碁盤目状ではあるものの斜めに傾いた北西―南東、北東ー南西方向の地割がみられます。つまり、周辺とは明らかに異なる方向性をもつ、この地割こそが新田飛行場の痕跡です。 以下、新田飛行場跡の景観を当日撮影した写真で紹介させて頂きます。  まずは新田飛行場の南端角に当たるA地点付近から・・・ 新田飛行場跡の景観(1) 上掲地図中のA地点付近から北側に広がる市野倉地区の農村景観。畑のホウレンソウが収穫を待っています。平成28年11月26日撮影。以下同じ。 なお、新田飛行場に関する資料は軍事機密とされ、その詳細は明らかにされていません。それでも、『新田町誌』には、同飛行場に関する記述がみられます。その主な内容は次の通りです。(1)飛行場の規模は東西約1850m・南北約1350mで、総面積は約249万㎡(いずれも原文のまま)。 ※実際には東西2400~2500m、南北約2300m(地形図で測定)。(2)飛行場が建設される前、当地は広大な平地林で、建設予定地の4分の3はマツ林で、残りはナラなどの雑木林だった。(3)着工は昭和10(1935)年に着工。以後、工事は2年間にわたって行われ、昭和13年3月に最初の練習機が同飛行場を飛び立った。(4)唯一の資料として練習機である「陸軍九五式一片乙練習機(通称「赤とんぼ」)」の写真が現存。(5)昭和20年7月・8月に米軍機による爆撃で飛行場が被災。とくに7月の爆撃で格納庫を含む諸施設が壊滅。 終戦後、新田飛行場跡地をめぐって、昭和20年11月の閣議決定(大規模開拓事業実施方針)に伴い、中島飛行機太田製作所の離職者たちの失業対策の一環で当地を農村として開拓する計画が持ち上がりました。その計画は「生品飛行場跡三百町歩開耕計画」と呼ばれ、延べ200戸の入植世帯を募り、それぞれに1町5反歩の耕地を割り当てるというものでした。 そして、同年ただちに復員軍人や海外引揚者などを中心に地元の生品村やその近隣から入植者を募集。最終的には各役場の推薦や抽選で入植者が決められました。翌年3月に鍬入式が行われ、入植が正式に始まったもののやせ地のため、最初はサツマイモなど小指程のものしか穫れなかったそうです(以上『新田町誌』を参照)。 いずれにせよ、新田飛行場跡が「市野倉」開拓集落に生まれ変わった背景には、終戦に伴う日本の武装解除、そして早期に解消すべき国内の失業問題がありました なお、市野倉地区は元々水利に乏しい場所とみられ、水田は全く見られません。現在は肉牛を飼育する大きな畜舎もみられますが、従来、広大な耕地で野菜やイモ類などを生産する畑作が営農の中心とされてきたようです。 さて、次は東端角に移動。先述した通り、市野倉地区特有の地割の関係で、この場所を北端と錯覚してしまいがちです  新田飛行場跡の西端角 上掲地図中のB地点です。織平先生が立っています  新田飛行場跡の西端角-南端角間の直線道路 上掲地図中のB地点で撮影。この真っ直ぐ南東方向に延びる道が新田飛行場の外郭(南西辺)の名残です  新田飛行場跡の西端角-北端角間の直線道路 上掲地図中のB地点で撮影。この真っ直ぐ北東方向に延びる道も新田飛行場の外郭(北西辺)の名残です。余談ですが、左側に停車中の車が、私が13年間連れ添った愛車「VOXYくん」。そろそろ引退です 至近には「蛙又(かえるまた)三叉路」と呼ばれる古街道(河岸街道)の交差点があります(上掲地図を参照)。 ここで現地・現物観察至上主義者の血が騒ぎ、少しだけコースアウトし、東南角から約m北北西に位置する蛙又三叉路に向かいました 何か発見があるのでは? 蛙又三叉路 同所に立つ道標に刻まれた字句によると、蛙又三叉路は、北は大原を経て大間々方面に、南西は綿打村金井を経て境方面に、南東は市野井を経て木崎方面にそれぞれ至る交通の起点とされたことが分かります 蛙又三叉路の道標(1) 「名木かへるまた 昭和八年六月建立 生品村山林保護組合」 と刻まれています。なお、「山林保護組合」は市野倉地区を含む当地が広大な平地林であったことの証左です。  蛙又三叉路の道標(2) 「東南市野井ヲ経テ木崎方面二至ル」と刻まれています。奥に見えるのが当地に新設された道路です。 蛙又三叉路の「名木かえるまた」? 石造の祠のすぐ隣に木が生えています。支柱が施された、この木が「名木かえるまた」でしょうか?いずれにせよ、同所に生える(生えた?)木が地名の由来となったようです。   新田飛行場の敷地を選定する際、交通アクセスの利便性などが考慮され、この蛙又三叉路がその基準とされたのではないでしょうか?つまり、同三叉路付近を予め飛行場の西端角に決めた上で、そのスケールが順次決められていったのでは? 私の考えすぎでしょうか? いずれにせよ、新田飛行場は蛙又三叉路、そして同所から分岐する3本の旧道(とりわけ南東に延びる旧道)をぎりぎり避ける形で敷かれています。 そして次は、新田飛行場の北端角付近に当たるC地点に移動。その北側は北関東自動車道にほぼ接しています。 新田飛行場跡の北端角(1) 新田飛行場の北端角に当たるC地点で撮影。すぐ北側に北関東自動車道が通り、赤城山の眺望が遮られてしまうこともあり、同所が同飛行場の東端角に当たるかのような錯覚を覚えます  新田飛行場跡の北端角(2) クマさん(織平先生)・おさるさん(寅市先生)の奥が、2つ上の写真と同じ、新田飛行場北西辺の外郭に相当する直線道路です。 新田飛行場跡の北端角から南東に延びる直線道路 上掲地図中のC地点で撮影。直線道路の突き当り付近には大きな工場が並び立ち、「市野倉地区工業団地エリア」を構成しています。その辺りに熊谷陸軍飛行学校新田分教場の主要な建物が置かれたものと思われます。  新田飛行場跡の景観(2) 新田飛行場跡の北東辺で撮影した市野倉地区の農村景観。ダイコン畑が11月の早過ぎる積雪に見舞われています。同地区には大きな牛舎も見られますが、こうした畑作が農業の中心となっているようです。 新田飛行場北東辺の外郭は、現在その一部が工業団地(市野倉地区工業団地エリア)となっており、他の三辺に比べて不明瞭です。ヨシカワ新田工場さん(自動車部品・建築部材)、しげる工業市野倉工場さん(自動車部品・用品)、岡田工業さん(産業用パレットなど)、永徳(エートク)(段ボール包装資材)さんなどの大きな工場が並び立っています。 そして、東端角の栄久太田工場さん(リネンサプライサービス)の角地のフェンス脇の草地には、元少年飛行兵が建立した「陸鷲修練之地」の石碑が建っています  生品飛行場跡の東端角 栄久太田工場さんが生品飛行場のほぼ東端角に当たり、同所に熊谷陸軍飛行学校新田分教場の主要な建物があったものと思われます。写真右側の電柱の後ろに「陸鷲修練之地」の石碑が建っています。  新田飛行場跡の東端角に立つ「陸鷲修練之地」の石碑(1) 当地で修練に励んだ少年飛行兵を「陸鷲」にたとえ、大東亜戦争の記憶を刻んでいます。 「陸鷲修練之地」と大きく書かれた脇に「少年飛行兵操縦教育校 旧熊谷陸軍飛行学校」、そして「新田教育隊跡地」と添え書きされています 新田飛行場跡の東端角に立つ「陸鷲修練之地」の石碑(2) 当石碑の裏面には「平成七年八月 終戦五十周年記念  元少飛 柳文夫」と刻まれています。こうした先人たちに感謝です。合掌 実際に現地を観察してみると、この石碑が建てられた場所、つまり新田飛行場の東端こそ、教室をはじめ、練習機の格納庫、修理工場など、熊谷陸軍飛行学校新田分教場の主要な建物が置かれていたものと容易に想像が付きます。 新田飛行場跡の東端角-南端角の直線道路(1) 上掲地図中のD地点で撮影。やはり、ここでも南西に真っ直ぐ延びる道路が新田飛行場の外郭(南東辺)の名残です。なお、道路に沿って続く桜並木は「桜並木太平記街道」と命名されているそうです。 新田飛行場跡東端付近の工場 飛行場跡の外郭東寄りで操業中の永徳(エートク)さん(段ボール包装資材)の工場です。この辺りに練習機の格納庫や修理工場などが置かれていたはずです。 新田飛行場跡の東端角-南端角間の直線道路(2) 今度は道路の右側に桜並木が続いています。 そして最後に、飛行場跡の中央を南東-北西方向に貫く、滑走路の痕跡と思しき直線道路を探りました。 新田飛行場の滑走路跡(推定)(1) 上掲地図中のE地点から北西方向を撮影。往時の滑走路を偲ばせるこの二車線の道路が、平らかな畑地を貫き、北西方向に真っ直ぐ延びています。なお、突き当たり(北西方向)のやや右側に霞んで見えるのは赤城山です。 新田飛行場の滑走路跡(推定)(2) 上掲地図中のF地点から北西方向を撮影。この辺りが滑走路の南東端でしょうか?いずれにせよ、新田飛行場で修練に励んだ少年飛行兵たちはこの辺りで飛行機を発進させ、赤城山を右手に見ながら離陸したものと思われます。 最後になりますが、今回尋ねた新田飛行場跡と以前当ブログで紹介させて頂いた前橋飛行場跡を比較させて頂きます(参照:風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(1/4) ・風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(2/4) ・風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(3/4) ・風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(4/4) )。 まず飛行場の敷地自体を地形図を使って比べてみると、前橋飛行場が東西約1900m・南北約1700m(ただし不定形)あるのに対し、新田飛行場は東西約2400~2500m、南北約2300mで、新田飛行場の方が広いことが分かります。そして、新田飛行場は正方形に近い、整然とした形をしている点が前橋飛行場との大きな違いです。 そして、教室や格納庫、修理工場など主要な建物が置かれた場所は、前橋飛行場では西側が中心であったのに対し、新田飛行場では、先述させて頂いた通り、正反対の東端角付近だったようです。 逆に、両飛行場の跡地に共通してみられる最大の特徴は、跡地に残る地割でしょう。いずれも、周辺とは明らかに異なり、北西-南東方向(北東-南西方向)に傾いた地割が特徴的です。これは両飛行場とも滑走路とそれに付随した路地がそうした規格に則って敷設されたことに由来するものと思われます なぜ、滑走路がそうした傾きをもって敷設されたのでしょうか? それはおそらく、冬場の季節風、すなわち空っ風の風向(北西風)を考慮したことによるものでしょう。風が強いことで知られる群馬にあって、とりわけ冬場の強烈な空っ風を考慮した場合、それが離着陸の障害(つまり横風)にならないよう、あえて滑走路を空っ風の風向と重ね合わせたものと思われます また、飛行機の離着陸は、向かい風の方向に行うことが望ましいとされています。その前提に立てば、車輪を出して滑走路を走る飛行機が空っ風の吹く方向、つまり向かい風を真正面に受けることで得られる揚力は機体のスムーズな離陸につながるはず。逆に着陸の際は、向かい風が機体の勢いを止める自然のブレーキの役割を果たします。とりわけ赤城山の南側に吹き荒れる冬場の空っ風は「赤城おろし」と呼ばれ、新田飛行場ではそれが飛行訓練で巧みに生かされたものと考えられます なお、中島飛行機太田飛行場跡(現在は富士重工大泉工場:太田市朝日町~大泉町いずみ)にも前橋・新田両飛行場と同様に「傾いた地割」が確認できます。 中島飛行機太田飛行場跡(現・富士重工大泉工場)の地割 新田・前橋両飛行場と同様、太田飛行場でも滑走路は北西-南東方向に敷設されたことから、同飛行場跡である富士重工大泉工場の敷地はその方向性を反映し、斜めに傾いた細長いほぼ長方形で成り立っています。また、同工場の敷地内に残る地割も同じ方向で大きく傾いていることが地形図から詠み取れます。  今回、両毛研修で新田飛行場跡を訪れたことで、すなわち前橋飛行場跡の地割が傾いている理由がよく分かりました。大東亜戦争の最中、群馬県内各所に建設され、特攻を含む大勢の飛行兵を育てた主要な陸軍飛行場は、いずれもご当地名物の空っ風を考慮して建設されていました。 まさに目からうろこが零れ落ちました これだからフィールドワークは止められない、止まらない・・・ もちろん、クマさん(織平先生)もおさるさん(寅市先生)も興味津々でした なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。今回の記事をお気に召された御方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m 白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*++*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回は、戦時中の中島飛行機の創業者である中島知久平の邸宅(国指定重要文化財 中島知久平邸)を紹介させて頂きます。乞うご期待!

  • 28Nov
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      両毛地域に刻まれた大東亜戦争の記憶:その1   

      両毛地域に刻まれた大東亜戦争の記憶:その1    当ブログのコアな読者の皆さん、長らくお待たせ致しました。今年度のデ・レーケ堰堤クリーン作戦がひと段落したところで、今回は久しぶりに戦争遺跡関連の記事を書かせて頂きます。右翼と罵られようが、軍国主義者と叩かれようが、こちらが正真正銘、私の専門領域であり、ライフワークに掲げる研究分野です 思い起こせばこの一年、当ブログはだいぶ地元のデ・レーケ堰堤にこだわって参りました。でも実際には、私白髪磨人はその美化活動(デ・レーケ堰堤クリーン作戦)に勤しむ傍ら、県内外あちこちの戦争遺跡に足跡を刻んで参りました。そして、今まで通り、コアな読者の皆さんにその一部始終を当ブログで事細かに紹介させて頂こうとしました。 ところが、今年に入り、3年ぶりに本業(高校地歴科教師)の方で国家全体に関わる、極めて責任の重い書籍の執筆・編集関係の仕事(地理教育)に携わらせて頂くことになりました。そのため、そちらを優先し、あえてブログの更新頻度を下げることで気力・体力の温存をはからせて頂きました。 何しろ仕事の内容が半端ではありませんから、私が途中で倒れてしまうことは絶対に許されません。チーフを務める私の代わりは誰も存在しませんから、万が一私が欠ければ、それは国家の地理教育にとって非常事態を意味したといっても過言ではありませんでした それでも師走を目前に控え、お陰さまでそちらの仕事もとりわけ版元の編集担当者の協力で大きな山場を乗り越え、このところ気力・体力に幾分か余裕が生まれて参りました。そこでデ・レーケ堰堤の束縛から自らをいったん解放させ、まるで本棚の上に積み上げた読みかけの本を久しぶりに手にとって読み直してみるのと同じように、これまでのフィールドワーク(戦争遺跡)の成果を当ブログを通して世に公表しようと決意しました いずれにせよ、当ブログはこれからも歯に衣着せず、主張すべきことは堂々と主張し、硬派を貫いて参ります とは言うもの、何から書き始めればいいものか?あまりにもたくさんあり過ぎて、どこから手を付けていいものか、ため息をつくばかり それでも、あえて優先順位を考えれば、上位に来るのはやはりわが郷土史・近現代史サークル「ねむの会」の同志たちと訪問した戦争遺跡。なお、「ねむの会」の同志たちとは、今年も色んな場所を訪問させて頂きました1 3月20日:千葉(下総西部)研修(1)松戸市内 ①陸軍松戸飛行場関係    陸上自衛隊松戸基地内に現存する格納庫跡   飛行場跡(民有地)に遺る掩体壕の基礎部分 ②陸軍工兵学校跡   市民公園に現存する門と歩哨舎(2)流山・柏市内 ①流山糧秣庫(陸軍糧秣本廠流山出張所)跡 ②陸軍柏飛行場関係   柏の葉キャンパス(陸軍柏飛行場跡)   ロケット戦闘機「秋水」の地下燃料庫跡2 6月4日:甲州韮崎研修(1)今村大将謹慎室(2)七里岩地下壕(3)宮下太吉墓所(甲府市内) ※大逆事件の首謀者 七里岩地下壕 地元の保存会のM山さんに壕内を案内して頂きました。詳細は後日、別途紹介させて頂きます。平成28年6月4日撮影。 そして、一昨日の11月26日、群馬県でありながらも隣県栃木との結び付きが強い「両毛」地域に属する太田・舘林方面に出掛けて参りました。その主な訪問先は、次の通りです。3 11月26日:両毛(太田・舘林)研修(1)熊谷地区郡飛行学校新田分教場跡(新田飛行場)(2)中島知久平邸(3)旧中島飛行機地下工場跡(4)B-29墜落地点(5)熊谷陸軍飛行学校舘林分教場跡(舘林飛行場) 旧中島飛行機地下工場跡 左のイノシシが当ブログ久々登場の「ねむの会」会長寅市先生、右のクマさんがお馴染みの同副会長織平先生です。お二人の背後の傾斜地に開いた穴が、地下工場の壕口です。平成28年11月26日撮影。  記憶が新しいうちに、両毛研修の記事を一気に記事を書き上げたいところですが、無理せず今回はここまでとさせて頂きます。 次回以降、当シリーズでは、両毛研修の詳細を数回に分けて紹介させて頂きます。遠からず、近からず、適度なタイミングで記事を更新させて頂きますので、ご訪問をお待ち申し上げます<(_ _)>  なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。今回の記事をお気に召された御方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m 白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*++*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回は、両毛研修で最初に訪問した熊谷地区郡飛行学校新田分教場跡(新田飛行場)を紹介させて頂きます。乞うご期待!

  • 25Nov
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十三章 「利害」編

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十三章 「利害」編 今回は、今年度私が心血を注いで取り組んできたデ・レーケ堰堤クリーン作戦を総括させて頂きます。 当ブログ・当シリーズでこれまで報告させて頂いた通り、私、白髪磨人は、地元で見過ごされがちな土木遺産の現状を憂い、一念発起して今年の元旦に八幡川2号堰堤を単独で清掃。さらに今年4月には正式に「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」を立ち上げ、2号堰堤に続き、4号堰堤と1号堰堤のクリーン作戦を展開して参りました。結論から申し上げれば、当初のねらい通り、荒廃したデ・レーケ堰堤をキレイにすることができ、その点では達成感を味わうことができました 活動後の八幡川1号堰堤 活動からおよそ10日後の11月14日に現地に赴いて撮影。堰堤周辺には撤去し切れない土砂がまだたくさん残ってはいるものの、以前とは全く違った、風景が広がっています。将来的には、この場所にデ・レーケ堰堤の説明版を立て、優れた土木遺産として顕彰の気運を高めることが本会の目標です。 でも、肝心な点が欠落し、物足りなさも痛感。それはやはり、クリーン作戦の決行に際し、参加者を思うように集められなかったことです できるだけたくさんの参加者を集め、郷土の土木遺産に対する正しい理解を広めていきたいそして、私の地元でもある榛名山麓から郷土の大恩人デ・レーケさんを顕彰する気運を高めていきたい そんな想いで、参加者を集めるために色んな手を使いました まずは群馬県土木事務所に協力を依頼。本会を群馬県主催の「花と緑のクリーン作戦」を展開する団体として認可して頂きました。その上で、今年後の活動場所を八幡川のデ・レーケ堰堤に定め、活動名を「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦」と決定。榛名山麓のデ・レーケ堰堤のメジャー化を目指し、その決行に向けて狼煙を上げました。 また、それと並行して、榛名山麓のデ・レーケ堰堤を宣伝するために、私が所属するG馬地理学会の機関紙「えりあぐんま」に論文を投稿。「高校地理における望ましい防災教育のあり方 ~榛名山麓に現存するデ・レーケ堰堤を事例に~」と題した論文でしたが、単なる研究ノートではなく論説としての掲載に何とかこぎ付け、今年6月に同機関紙が発行されました。 頭でっかちな先生方だらけの団体ですが(毒舌失礼)、社会的な影響力は決して侮れません。正直に言えば、私にとって地理学などは二の次。わざわざ多くの時間と労力を割いて論文を仕上げた最大の理由は、言うまでもなくデ・レーケ堰堤の宣伝でした ここまで本会の活動は順風満帆でした。 でも、今年の春、榛東村役場(以下、「役場」と略します)に赴き、年度末の異動で交代した、いかにも生意気そうな若き担当者に改めて頭を下げた頃から、どこか歯車が狂い始めました すでに前年度、榛東村役場の協力を得て、村の広報紙でデ・レーケ及びデ・レーケ堰堤に関する記事を書かせて頂くことは決まっていました。当初は役場のそうした温かい対応に感激。でも、実はこれが大きな失敗の始まりでした・・・ 失敗とは、役場の協力に対する過信・盲信でした。担当者が変わった途端、役場の対応も当然ながら変わりました。前例踏襲主義に堕し、いかにも事務的な対応に終始した若き担当者に対し、私は憤慨しながらも平静を装い、常にへりくだった対応に努めて参りました。役場から呼び出されれば仕事を早く切り上げ、急いで馳せ参じました。そう、あの日までは・・・ 村の広報紙には2回連載で紙面を割いて頂きました。もちろん、その点については役場には感謝しています。でも、役場の協力はそれだけで、他は全て放任。当日のクリーン作戦に参加者がどれだけ集まろうが「我関せず」といったスタンスに終始しました。今思えば、私の記事は、なかなか埋まらない「地域の情報」の紙面を埋めるための恰好の材料にされた可能性も いずれにせよ、読者からの反響は、私の耳には全く届いて参りませんでした 同じように、役場の許可を取り付け、クリーン作戦の場所や期日などを記したパンフレットを作成し、榛東村内全ての隣保班の回覧板にそれを差し込んで頂きました。こちらには連絡先の電話番号まで載せ、活動への参加を呼び掛けましたが、残念ながら、こちらも不発に終わりました 結局、行政という他力を過信し、依存してしまった結末は最低、最悪のものでした  9月中旬に予定した1回目は長雨で中止に追い込まれ、まさに泣きっ面に蜂でした 地元の郷土史家との連携をはかるなど、初めから他力を排し、臨機応変に自力を発揮していれば、もっとたくさんの参加者を動員できたかもしれません。  他者への依存心に安住した時点で思考停止。「ジタバタしなくても、役場や土木事務所が協力してくれるはずなので、(当日のクリーン作戦は)どうにかなるだろう」などと、自堕落な楽観主義、そして自主性なき空想平和主義にハマり、自ら勝機を手放してしまった私が間違いでした。村の広報紙に精魂込めて記事を書いてみたところで、村民の心は動きませんでした(というか、広報紙自体、あまり読まれていません。残念ながら、世間は私の予想以上に活字離れが進んでいるようです)。 勝機を活かすも殺すも自分自身の判断次第。日米同盟も同様ですが、他者(アメリカ)に自分(日本)の運命を左右させてはいけません(日本とアメリカは決して運命共同体ではありません。国益を最優先し、アメリカとは軍事・外交上、適度な距離感を保つことが肝要です) 運命とは他力を排し、自力、すなわち自分自身で決めるべきものです とは言うものの、話しは元に戻りますが、この度熱く燃えたぎった私のハートを察して下さった同僚や元同僚、そして身内など、今回のクリーン作戦では延べ人数で14名の方々に協力して頂きました。 そして、結果的に3号堰堤と源流部の2基(十二沢4号堰堤・同5号堰堤)には全く手が付けられなかったものの、1号・2号・4号の3基のデ・レーケ堰堤については、それぞれ外観を蘇生させることに成功。そこで、先日、今回のクリーン作戦の活動報告書を整え、満を持して群馬県渋川土木事務所さんに出掛けて参りました 群馬県渋川合同庁舎(1) 場所は吾妻川の右岸に位置する渋川市金井国町。元の渋川警察署の裏側です。2階に平成28年11月15日に撮影。 群馬県渋川合同庁舎(2) 私がお世話になっている渋川土木事務所さんは、この大きな建物の2階です。 なお、渋川土木事務所さんに今回提出させて頂いた活動報告書は「平成28年度花と緑のクリーン作戦活動実績報告書」と「平成28年度花と緑のクリーン作戦活動状況報告書」の2点。それぞれ主な内容は次の通りです。1 平成28年度花と緑のクリーン作戦活動実績報告書 (1)団体の名称等 ○団体名  榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会 〇代表者住所  群馬県北群馬郡榛東村〇〇〇番地○   ○代表者氏名  ◇◇◇◇(白髪磨人の本名) 〇代表者電話番号  0279-54-△△△△ 〇団体構成員  10名(2)活動実績  【1回目】 ①活動日:平成28年10月10日         ②参加人数:6人         ③活動する市町村名と町名又は大字:榛東村大字新井        ④県管理の公共施設での活動について          〇公共施設の名称:八幡川4号堰堤             (除草・草刈り:300㎡ 花上・植樹:10㎡)  【2回目】 ①活動日:平成28年11月3日         ②参加人数:5人         ③活動する市町村名と町名又は大字:榛東村大字新井        ④県管理の公共施設での活動について          〇公共施設の名称:八幡川1号堰堤             (除草・草刈り:200㎡)  【3回目】 ①活動日:平成28年11月6日         ②参加人数:3人         ③活動する市町村名と町名又は大字:榛東村大字新井        ④県管理の公共施設での活動について          〇公共施設の名称:八幡川1号堰堤及び同堰堤左岸             (除草・草刈り:100㎡ 花上・植樹:100㎡)  ●3回の活動の延べ人数:14人   ●花植え・植樹 花の種類:アジサイ 苗数:40苗2 平成28年度花と緑のクリーン作戦活動状況報告書  【活動1回目 写真】  ①活動前   ②活動状況   ③活動後 【活動2回目 写真】   ①活動前  ②活動状況  ③活動後  【活動3回目 写真】   ①活動前  ②活動状況  ③活動後  上記の活動報告書が正式に認められれば、本会は群馬県から「奨励金」という名目で現金2万円が交付されることになっています。もちろん、2万円が欲しいためにデ・レーケ堰堤を利用しているわけではありません そもそも今年度のクリーン作戦で費やした金額は、すでに2万円をはるかに突破。何しろ、夏場からその準備で数々の清掃用具に始まり、虫よけスプレー、虫刺されの薬、大量の飲料、当日参加者に昼食用にお出しした弁当、関係者への謝礼など、とにかく色んなものを買い捲りました なお、これらの報告書の他に、渋川土木事務所さんに今回集めたゴミの回収をお願いする関係で、別途資料を作成。集めたゴミの場所が分かるよう、それぞれ写真にマークを付けたものを担当者にお渡しし、快諾を得ました。感謝<(_ _)> ゴミの回収がクリーン作戦の最後の仕事になりますが、量が半端ではないため、こればかりは自力、すなわち私個人の力ではどうにもなりません。土木事務所さん、よろしくお願いしますm(__)m あれっ これって、他力本願か 自分で言っていることがよく分からなくなって参りました 最後は、苦し紛れに当シリーズお決まりの孫子の言葉で締めくくらせて頂きます。 智者の慮(おもんばかり)は、必ず利害を雑(まじ)う。利に雑うれば、而(すなわ)ち務(つとめ)は信(まこと)なる可(べ)し。害に雑うれば、而ち患(うれ)いは解(と)く可し。 (九変編)【訳】 智将が物事を考え、判断するときは、必ず利と害の両面を合わせて熟考するものである。有利なことにもその不利な面を合わせて考えるから、成し遂げようとすることがその通りに運ぶ。不利なことに対しても、その利点を考えるから心配事は解消し、困難を乗り越えることができる。 物事を判断する際、良い面だけを見て、悪い面に目をつむるようではいけません。というか、あえて悪い面に目を向けることで冷静な判断ができるはず。孫子のこの教えは、今年度のクリーン作戦の決行に当たって、役場の見せかけの善意に振り回され、心が傷だらけになり、極度の行政不信に陥った今の私には深く染みて参ります  なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」の行方について、代表である私、白髪磨人が来年度に向けた抱負を交えて、熱く述べさせて頂きます。乞うご期待!

  • 18Nov
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十二章 「雷震」編その3

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十二章 「雷震」編その3 10月10日、そして11月3日に続き、11月6日に今年3回目にして最後のデ・レーケ堰堤クリーン作戦を展開。妻と老母に協力を仰ぎ、キレイにした堰堤周辺に、さらにアジサイ苗を植え付けました。 今回準備したアジサイ苗については、いずれも自宅の庭先で大きく育った親株の子供たち。たまに苗を欲しがる方がおられる関係で、一昨年から夏場に挿し芽をして発根させ、ポットで苗づくりを続けて参りました デ・レーケ堰堤の周辺に植え付けたアジサイ苗の一部 1号堰堤・4号堰堤の周辺に全部で40本程植え付けました。もちろん、今回のクリーン作戦の一環です。 なお、親株の親株は、私、白髪磨人が榛東村の村民になった頃、村内の農畜産物直売場で確か500円で購入した鉢植えの1本。青々としたお花さん(正確にはガクくん)がとてもキレイだったので、衝動買いをしてしまいました。 それから約20年が経過し、その子孫をこうした形で地域に還元できる日が訪れるとは、当然のことながら、当時は思いもよりませんでした わが家のアジサイのお花さん 庭に大きな株が10本程生えています。株によってはお花さんの色が紫色だったりもします トレイに収めたアジサイ苗を携え、まずは4号堰堤へ。およそ1か月ぶりの現地訪問でしたが、堰堤正面の石積みに絡まっていた草木はほぼ全て取り除いたため、その迫力は以前とは比べ物にはなりません。とりわけデ・レーケ堰堤最大の特徴ともいうべき天井部分のアーチ構造はクリアになり、今後現地を訪れる方々を喜ばせてくれるはずです 八幡川4号堰堤の雄姿(1) 達成感に包まれ、思わず右岸下流側に移動して何枚も写真を撮影してしまいました。この写真はその中の1枚です。平成28年11月6日撮影。以下同じ。 八幡川4号堰堤の雄姿(1) 左岸から堰堤上部を撮影。削り取った草木の下に堆積する土砂を除去できれば最高なのですが、手作業ではそれは厳しいです 車からトレイを下ろして作業開始。堰堤左岸の説明板の周辺に7、8本程植え付けました。私は専らアジサイの苗床を確保。どれも苗は小さめではありましたが、できる限り深くて大きめの穴を掘りました。 そして、アジサイ苗の植え付けは妻と老母の仕事。とりわけ老母は生来植物の世話をするのが好きなので、それは得意分野。相馬ケ原の山中でとても楽しそうに働いてくれました。感謝<(_ _)> アジサイ苗植え付けの作業風景(1) 作業中の老母の背後の石積みは、八幡川4号堰堤のものです。 堰堤左岸に植え付けたアジサイ苗(1) 苗が小さいので、苗床が目立つように赤いビニルテープを巻いた棒を地面に刺し込んでおきました。 堰堤左岸に植え付けたアジサイ苗(2) 同上。 堰堤左岸に植え付けたアジサイ苗(3) 苗の間隔はそれぞれ1m程に設定しました。 数年後には、アジサイの青いお花さんが4号堰堤をキレイに飾ってくれることでしょう。そんな姿を想像しながら、とても楽しく作業を進めることができました 次に1号堰堤に移動。3日ぶりの訪問となりましたが、やはり見違える程キレイになった姿に改めて感動しました。改めて協力して頂いた皆さんに感謝ですm(_ _)m 八幡川1号堰堤の雄姿(1) 堰堤正面の石積みの全容を目視することができすようになりました 八幡川1号堰堤の雄姿(2) キレイにした分、石材には4号堰堤のものよりも大きめのものが使われたことがよく分かります 満を持して、当日のメイン作業を開始。それは、堰堤の左岸下流側に設けられたフェンスに沿ってアジサイ苗を列状にたくさん植え付けることでした。 八幡川1号堰堤の左岸下流側(1) この場所が当日のクリーン作戦の中心でした。  アジサイ苗植え付けの作業風景(2) 嫁と姑のツーショット。2人とも大活躍してくれました。なお、フェンスの左に見える石積みは八幡川1号堰堤のものです。 余談ですが、わが家はアホらしい嫁・姑戦争は一切存在しません アジサイ苗植え付けの作業風景(3) 堰堤左岸上部に生えたアジサイの老株を伐採しました。なお、写真左側の舗装道路は村道で、県有地との境界をなしています。 堰堤左岸下流側に植え付けたアジサイ苗(1) やはり苗が小さいため、4号堰堤のそれと同様、赤いビニルテープを巻いた棒を苗の隣に刺し込んでおきました。 堰堤左岸下流側に植え付けたアジサイ苗(2) 傾斜地のため、土砂流出を警戒し、それぞれ苗床の下方に石を積み上げ、連続する砂防堰堤のような形に整えました。 フェンスに沿って植え付けた苗の本数は合計22,23本程。それら全ての根が活着すれば、やはり数年後にはたくさんの青いお花さんが1号堰堤を飾ってくれるはずです さらに、陽当たりの良い上流側の土手にもアジサイ苗を7,8本程植え付けました。 堰堤左岸上流側に植え付けたアジサイ苗(1) ここでも苗床に赤いビニルテープで目印を付けて置きました。 堰堤左岸上流側に植え付けたアジサイ苗(2) 傾斜地で陽当たりが良いため、根の活着は難しいかもしれません。 今回植え付けたアジサイ苗は合計40本程。先述させて頂いた通り、全て私の自宅に咲く親株の子供たちです。私は「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」の代表として、あれほど荒れていた八幡川のデ・レーケ堰堤が近い将来、色鮮やかなアジサイのお花さんで飾られる日が訪れることを本気で願っています 天国のデ・レーケさんにこの想いを伝えたい・・・ 合掌  でも、油断は禁物。デ・レーケ堰堤にキレイなお花さんを咲かせるためには、まだまだやるべき仕事が残っています。まずは苗床の乾燥を防ぎ、必要に応じて水やりも行わなければいけません。そもそも植え付けた時期が時期ですから、根の活着は難しいかも? しばらくの間、こまめに現地に足を運び、苗の様子を観察して参ります(=_=) 読者の皆さんも、八幡川のデ・レーケ堰堤を傍らで育つ、幼い幼いアジサイ苗を温かく見守って頂ければ幸いです。よろしくお願いしますm(_ _)m なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、今年本格的に取り組んだ「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦」の総括です。乞うご期待!

  • 04Nov
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十二章 「雷震」編その2

       デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十二章 「雷震」編その2 かつては「明治節」と呼ばれた祝日「文化の日」の昨日、朝から透き通るような青空の下、予定通り、第2回「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦」を決行。4号堰堤を清掃した前回に続き、今回は八幡川に現存するデ・レーケ堰堤のうち、最も下流側に位置する1号堰堤を清掃させて頂きました。 八幡川1号堰堤の所在地 「桃泉」集落を北西-南東方向に貫く開拓道路とほぼ並行して流下する八幡川に現存するデ・レーケ堰堤のうち、最も下流側にあります。なお、掲載地図の無断転用は禁止します。  今回も、私が代表を務める「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」の活動実績を当ブログで世間一般に公開させて頂くことで、デ・レーケ堰堤のさらなるメジャー化をはかりたいと思います。 それでは、活動前の1号堰堤の姿を主に写真で紹介させて頂きます。以下の3枚の写真は、3年前に当地で撮影したものです 1号堰堤に限らず、3年前のデ・レーケ堰堤はどれも草木に覆われ、ゴミだらけでした なお、見るも無残な姿に強い疑問を感じた私は、その頃、当ブログですでにデ・レーケ堰堤の保護を強調させて頂きました(参照:わが村でデ・レーケさんの遺産を発見!(4) )。 3年前の八幡川1号堰堤(1) 草木や土砂に激しく覆われ、巨石堰堤の全容を容易に目視することができる状態ではありませんでした 平成25年12月9日撮影。以下同じ。 3年前の八幡川1号堰堤(2) 堰堤本体の上部。色んなゴミが入り混じった大量の土砂がその先端にせり出す様相を撮影しました。 3年前の八幡川1号堰堤(3) 八幡川左岸における村道と河川区域の境。3年前、大雨の影響で当所は崩壊し、土砂がこのように流されました この痛々しい姿に危機感を抱き、土木遺産としてのデ・レーケ堰堤の価値を世に広く宣伝し、何とか保護していかなければならないと痛感。でも、そのためには、何をどうするべきなのか? 何度も自問自答を繰り返したものの、一介の高校地理・歴史科教師に過ぎない私には、その明確な答えが全く見付かりませんでした そして、ダラダラと月日が流れました・・・ そして、昨年の秋、しんとう温泉に出掛けた際、何かの拍子に、2年前に当地で目撃した1号堰堤左岸の崩壊現場(上掲写真)のことがふと気になり、湯上りに現地へふらっと出掛けました。すると、幸いにも崩壊現場は復旧工事が施され、運び込まれた土砂で平らかに整地されていました 昨年秋の八幡川1号堰堤(1) 相変わらず、石積みは草木や土砂で覆われていました。平成27年10月10日撮影。以下同じ。 昨年秋の八幡川1号堰堤(2) 2年前に崩れた境界部は土砂で埋められ、平らかに修繕されていました。群馬県渋川土木事務所さんに感謝ですm(_ _)m  左岸側完全崩壊の危機に瀕した1号堰堤。行政に助けられたものの、あちこちで多発するゲリラ豪雨の脅威にどれだけ耐えうるか 最悪の場合、河道から溢れ出た激流が堰堤を外側から侵食し、結果として石積み部分だけが流路から取り残されてしまうことも それだけは何としてでも阻止しなければ そして、そんな決意を固めてから1年が経過した昨日、満を持して1号堰堤のクリーン作戦を展開。参加して頂いたのは決して大人数ではありませんでしたが、それでも大きな力になって頂きました とりわけ、屈強な兄貴のパワフルな仕事ぶりには、前回と同様、目を見張るものがありました。おそるべしわが兄貴そして感謝<(_ _)> 活動前の八幡川1号堰堤 活動当日、早朝に一人で下見した際に撮影。堰堤本体はこのように草木に覆われ、辺りにはゴミも散乱し、貴重な土木遺産と呼ぶには相応しくない有様でした 活動の様子(1) 屈強なわが兄貴がまずは堰堤右岸の草木を派手に削ってくれました。私にとって最も頼りになる、ありがたい存在です 平成28年11月3日撮影。以下同じ。 活動の様子(2) 今度は堰堤本体の正面を覆う草木をやっつけてくれました。なお、もちろん、この私も頑張りました 活動の様子(3) 堰堤左岸では3名の女性たちが協力し、伸び切ったアジサイを伐採して頂きました、感謝ですm(_ _)m 参加して頂いた皆さんのご尽力のおかげで、1号堰堤は見違えるほどキレイになりました。今回も充実したクリーン作戦を展開することができ、私は大満足ですヽ(^。^)ノ 活動後の八幡川1号堰堤(1) まさに論より証拠。ご覧の通りですなお、手前の小山は堰堤からはぎ取った草木、そしてかき集めたゴミです 活動後の八幡川1号堰堤(2) 石積みの正面は、地中に埋まっている部分を除き、ほぼ往時の姿を完全に復元することができました  活動後の八幡川1号堰堤(3) 堰堤上部もかなりサッパリしました。これも全て屈強なわが兄貴のおかげです。感謝<(_ _)>  活動途中、草削り機を操る屈強なわが兄貴が大きな声を上げました。 屈強な兄貴「おいっ、これって、(デ・レーケ堰堤の)石垣じゃね?」 堰堤本体の右岸側で頑張る兄貴に振り向いたところ、そこには・・・ 私(白髪磨人)「オーッ!それ、本物だぜ。スゲーなーッ」 堰堤本体を懸命に清掃した結果、築堤当時の右岸側上部の石組みが出現。思わず興奮その瞬間、私は底知れぬ達成感に包まれました。「この活動を立ち上げて、ホント良かった」と。  いずれにせよ、昨日は天候にもパートナーにも恵まれ、「文化の日」に相応しい、文化の薫り高きボランティア活動を行うことができました。何度も繰り返しますが、前回も含め、当活動に参加して頂いた皆さんに感謝です この場をお借り致しまして、改めてお礼申し上げます。 ありがとうございましたm(_ _)m 次回のクリーン作戦は明後日に行う予定です。その模様につきましても当ブログで報告させて頂きます、前回、そして今回キレイにした4号堰堤と1号堰堤を花で飾るため、左岸にアジサイ苗を植え付けようと企んでおります。また頑張ります  なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、前述させて頂いた通り、明後日に予定している当作戦第三弾について、当時の様子を報告させて頂きます。乞うご期待!

  • 13Oct
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十二章 「雷震」編その1

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十二章 「雷震」編その1其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐(しずか)なること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し。 (軍争篇)【訳】 動きは疾風が吹くように敏速でなければならないし、待機すべき時は林のように静まり、いざ敵に侵攻する時は火が燃えるように一気に奪い去り、動かないと決めた時には山のように堂々として決して動いてはならず、影のように実態を表に見せないことで敵に味方の情報を与えず、動く時には雷のように突如として機動しなければならない。 平成28年10月10日。連日降り続いた雨がようやく上がりました。早起きして西の空を見上げたところ、澄み切った青空に映える榛名山がとても見事でした  そして、爽やかな秋風も吹き始めた絶好の天候の下で、予定通り「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦」を決行。私にとって長い間の懸案であった八幡川4号堰堤を何とかキレイにすることができました。  現地での清掃活動はのべ2時間弱。八幡川上流の山中で、ご参集頂いた有志の皆さんと貴重な時間を過ごすことができました。この場をお借り致しまして、当日協力して頂いた皆さんに厚く厚く御礼申し上げます。ありがとうございましたm(_ _)m  当日早朝の榛名山 10月に入ってからも連日降り続いた雨が上がり、爽やかな朝を迎えることができました。稲穂が榛名山に代わって私におじぎをしてくれました。平成28年10月10日午前6時1分撮影。   さて、今回はもちろん、「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」の現地での清掃活動としては記念すべき初陣となった「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦」について、当日の様子を紹介させて頂きます。 まずは堰堤の正面側から。 色々な道具を使って、石積みの隙間に詰まった草や土砂、そして木の根などを搔き落としました  清掃前の4号堰堤正面部分 石積みがはっきりと目視できるのは堰堤の中央部分だけでした。平成28年9月10日撮影。 清掃後の4号堰堤正面部分  上の写真と見比べてください。平成28年10月10日撮影。  作業中の様子(1) 今回ご協力頂いた有志の皆さんです。平成28年10月10日撮影。   なお、ご参集頂いた皆さんに対し、作業中の安全確保について再三注意を呼び掛けていた私でしたが、作業中の様子を写真撮影(上掲写真)するために下流側に移動したところ、左足を乗せた河床の石が崩れ、体のバランスを失って大転倒。額を激しく大きな石に叩き付けたほか、左足の脛にも擦過傷を負い、左手の親指も打撲。安全管理を司るべき代表の面目丸つぶれでした  擦過傷は軽く済みましたが、親指が痛い・・・ でも、ここで代表がリタイヤするわけには参りません  気合を入れ直して平静を装い、浅鍬の柄を握りしめて作業を続行  次に紹介させて頂くのは堰堤上部。同所をキレイにするのは並大抵のことではありませんが、剛力で器用な私の兄貴が専用のマシンを持参し、繁茂した草木を一気に削り取ってくれました。感謝<(_ _)>  清掃前の4号堰堤上方 堰堤左岸上部から見た4号堰堤。草木の隙間から堰堤正面の石積みがわずかに顔を覗かせる程度で、何が何だか分からない状態です。平成28年9月10日撮影。  清掃後の4号堰堤上方 マシンで削り取った草木をさらに他の場所に移しました。堆積した土砂は半端な量ではなかったため、今回はそのままにしておきました。平成28年10月10日撮影。 作業中の様子(2) マシンで削り取った草木を熊手や浅鍬などで掻き集めているところです。平成28年10月10日撮影。 話は戻りますが、当日は予定通り、榛東村役場駐車場に午前8時半集合。今回の清掃場所である八幡川4号堰堤に向かう前に1号堰堤と2号堰堤を訪ね、デ・レーケ堰堤のイロハについて、作成した資料をもとに軽く説明をさせて頂きました。 また、清掃活動が終了した後、はるばる太田市から来られた学生時代の恩師に八幡川及び自害沢のデ・レーケ堰堤を案内させて頂きました。自然地理学がご専門の先生は、持参したメジャーで堰堤に使われた石のサイズのほか、堰堤本体の高さや幅などを行く先々で熱心に何度も何度も計っておられました。 すばらしい というか、カッコい~  地理学徒としてあるべき姿勢を示された先生のお姿に敬服。同時に、現地・現物観察至上主義を掲げながらも、実際には既存の資料に依存しがちな自分の至らなさを深く反省しました  次回は11月3日。場所は同じく八幡川の1号堰堤です。そして、中止に追い込まれた9月18日の第1回の代替として、別途土曜日(候補は10月29日または11月5日)に今年キレイにした八幡川の2・4号堰堤、そしてこれからキレイにする1号堰堤の3基について、その周辺にアジサイの苗を植え込む活動を検討しています。 課題は人集め。危機感を抱き、直前に近隣集落にのお宅訪問を展開させて頂きましたが、その効果は今回に限っては全くみられませんでした  でも、たとえ小人数であっても、当作戦はブレずに貫徹するのみ。まだまだ至らぬ点が多々ありますが、今後も「雷震」のごとく持ち前の機動力を発揮し、作戦を成功に導いて参ります。 今後とも当ブログの読者の皆さんのご支援、ご協力をよろしくお願い申し上げます<(_ _)> なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、11月3日に予定されている当作戦第二弾の様子について報告させて頂きます。乞うご期待!

  • 07Oct
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十一章 「拙速・巧久」編その3

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十一章 「拙速・巧久」編その3 前回、当ブログの当シリーズでは、「榛東村12区ご在住の皆様へ」と題して、八幡川のデ・レーケ堰堤に至近の桃泉集落の公会堂の掲示板に貼って頂くために作成した、当会主催のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の活動場所を記した案内を紹介させて頂きました。その直後、おかしな胸騒ぎを覚えたので、現地に出掛けて参りました  「どんな形で貼って頂いたのかな?まさか、まだ貼っていなかったりして・・・それはないか!?」 そして、現地に到着。正面入口の右脇に立つ掲示板を見上げたところ・・・ 「あれあれ?まだ貼ってネ~じゃネーか!」 悪い予想は当たりやすいもので、見事に『まさか、まだ・・・』が的中してしまいました  村役場の職員さんが区長さんに掲示をお願いしてくれたはず。ひょっとして区長さんの段階で話がストップしているのかも? なお、案内を作成し、村役場に持参したのは先月中旬。つまり、もう1か月近く経過。それなのに・・・ でも、いくら悔んでいても物事は前に進まないので、他力を捨て自力にシフトチェンジ!持ち前の機動力を発揮することにしました。「持ち前の機動力」とは、学生時代に地理学教室で鍛え上げたフィールドワーク、とりわけ聴き取り調査のことです  一昨日の午後、職場に休暇を頂き、当作戦について案内させて頂くために用意した資料一式と名刺を持参して桃泉集落へ。そして、小雨の中、一軒すつお宅訪問し、住民の皆さんに直接声を掛けさせて頂きました。 小雨に濡れる榛東村12区「桃泉」集落 八幡川は開拓道路の南側に、ほぼ並行して流れています。平成28年10月5日撮影。 12区のお宅訪問で配布させて頂いた資料 ①「榛東村12区ご在住の皆さんへ 八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の実施について」と題して、当活動の主旨を記した資料をメインに、②清掃場所の案内(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十一章 「拙速・巧久」編その2 )、③清掃ボランティア募集広告(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その2)、④J毛新聞「ひろば」投稿記事の抜粋(参照:わが村でデ・レーケさんの遺産を発見!(1))、⑤・⑥「広報しんとう」7・8月号に掲載された執筆部分の抜粋(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第八章 「虚実」編・デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その5)を添付させて頂きました。 3時間半でのべ20軒程訪問させて頂きました。その結果、地元でありながら、八幡川のデ・レーケ堰堤を知らない方が少なくないことが判明。その由来等を正しく理解している方は、失礼ですが、やはり皆無でした。 また、私が執筆した「広報しんとう」の記事はおろか、回覧板に差し込んだパンフレットについても、ほどんどの人が全く見ていないことが判明   今の時代、活字離れが進んでいるとはいえ、極端すぎる現状に愕然としました。あれだけ気持ちを込め、丁寧に書き上げた文面なのに・・・  それでも、突然の訪問に対して、家事や仕事の手を休め、丁寧に対応して下さった12区の住民の皆さんに感謝です。この場をお借り致しまして厚くお礼申し上げますm(_ _)m 話は戻りますが、この度、当作戦の挙行に当たって協力を期待していた私をあっさり見放し、勝手に約束を反故にした村役場の職員さんに対し、激しい怒りが込み上げて参りました  そこで本日、役場に電話を入れ、1か月近く経過しても掲示されない理由を確認。すると、実に煮え切らない返事が帰って参りました。  要するに、「必ず掲示する」と約束したわけではないそうです  まるで他人事 公僕の自覚が全くありません。というか、こちらは完全にクレーマー扱いをされてしまう羽目に  お世話になっている立場ですから、今まで多少の不具合にはガマンを重ねて参りましたが、最後の最後でその対応の悪さにはホトホト呆れました  現在、村長への通報も検討中。いずれにせよ、最後は住民を見捨て、保身に走る行政の本質がよく分かりました  そもそも無力、無責任な行政に過度な期待を寄せた私が間違いでした。 やはり、私が一番信じなければいけないのは私自身。融通の聴かない行政の小役人など、初めから相手にしなければよかった・・・ さて、デ・レーケ堰堤クリーン作戦が3日後に迫って参りました。つきましては、当ブログの読者の皆さんにも参加して頂ければ幸いです。予約なしの当日参加も喜んで受付けますので、奮ってご参加ください。ボランティア終了後、ご希望であれば、八幡川だけではなく、他の河谷に築かれたデ・レーケ堰堤についても現地に案内させて頂きます(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その3 )。この先二度と訪れることのないチャンスをぜひ活かしてください  今後とも引き続き、当会、「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」の活動へのご支援、ご協力の程、よろしくお願いしますm(_ _)m、  なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。激怒のあまり、記事がつい辛口になってしまいましたが、何卒お許しください<(_ _)> 次回の本シリーズは、いよいよ当作戦(10/10)の活動状況を報告させて頂きます。乞うご期待!

  • 05Oct
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十一章 「拙速・巧久」編その2

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十一章 「拙速・巧久」編その2 9月の長雨のため、残念ながら挙行中止に追い込まれてしまった第1回「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦」 すると今度は、台風18号が日本列島に接近中。泣きっ面に蜂とは、まさにこのことか  でも、次回は来週10日の月曜日ですから、さすがにその影響は受けないとは思いますが、どうなることやら・・・ さて、前回当ブログでご案内させて頂いた通り、当作戦を決行するに当たって、最大の難関はやはり参加者を集めることです。その難しさにつきましては予め理解し、自分なりに動いてきたのですが、未だに確かな手応えはつかみ切れず、困惑した状態が続いています  活動母体が整っていないなかでボランティアへの参加者を集めるのは、想像以上に厳しいもののようです  やはり人の心を動かすのは難しい・・・ そこで、先日、再び榛東村役場総務課を訪問。今回の活動場所が含まれる12区(桃泉集落)の住民の皆さんに対して参加を呼び掛けるため、同地区の公会堂前に立つ掲示板に当作戦の案内を掲示して頂くことにしました。 その内容は次の通りです。  なお、総務課の職員さんを通して、当地区の区長さんに公会堂への掲示を依頼することになっています(もう貼って頂けたかな?)。 もちろん、当ブログの読者の皆さんにも参加して頂ければ幸いです。予約なしの当日参加でもOKです。ボランティア終了後、八幡川のものを含め、他の場所に築かれたデ・レーケ堰堤についても詳しく紹介させて頂きますので、ぜひ奮ってご参加ください  今後とも当会、「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」の活動へのご支援、ご協力をお願いしますm(_ _)m、   なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、当作戦(10/10)の行方について報告させて頂きます。乞うご期待!

  • 18Sep
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十一章 「拙速・巧久」編その1

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十一章 「拙速・巧久」編その1 弱い雨ならば作戦の決行もありえたのですが・・・ わが榛東村では、今なお昨日の夕刻から降り始めた雨が強弱を繰り返し、天候の回復が全く見込まれません。順延を予定した明日、たとえ雨が上がったとしても、もとより足場の悪い山中ですから、作業にはさらなる危険を伴います  そのため、とても残念ではありますが、身内とも相談の上、私は主催側の代表として第1回八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の中止を決断させて頂きました。 どんなに気合を入れて準備を整えたとしても、やはり天候には勝てない・・・  さて、私は今朝方、榛東村役場に出掛け、当作戦への参加者が集まっておられないことを一応確認した上で、現地に清掃用具一式を運び込んだ昨日に続き、八幡川4号堰堤に出掛けて参りました。 八幡川4号堰堤へと続く林道 4号堰堤は林道の突き当りにあります。同堰堤の向こう側、すなわち八幡川の右岸側は陸上自衛隊相馬ケ原演習場です。撮影日は平成28年9月18日。以下の掲載写真も同じ。 雨に濡れる4号堰堤 強い雨が降り続いていましたが、八幡川に水流は見られませんでした。 4号堰堤の左岸に立つ案内板 昨日、案内板の軒下に清掃用具一式を搬入させて頂きましたが・・・   現地に持ち込んだ清掃用具 昨日現地に清掃用具一式を運び込み、案内板の屋根の下に置かせて頂きました。でも、中止に伴い、本日撤去しました   そもそも今日、予定通りに作戦が決行できたとしても、参加者はおそらく身内ばかりで、ごくわずかな人数での寂しい活動に終始したはず。榛名山麓に現存するデ・レーケ堰堤のメジャー化を目論む私にとって、それは厳しい現実そのものです  そう考えた場合、今日の雨はかえって恵みの雨だったのかも? いずれにせよ、今回の雨天中止を前向きに受け止め、作戦を練り直さなければ! 最後に、本シリーズ定番の孫子の言葉をお送りします  兵は拙速を聞くも、未だ巧久(こうきゅう)なる睹(み)ざるなり。 (作戦篇) 【訳】 戦争には多少拙い点があったとしても、速やかに事を進めて勝利したという成功事例はあるが、完璧を期して長引かせた結果の成功事例はない。 戦争に勝つためには、「拙速」、すなわち拙い作戦であっても、それを素早く繰り出し、相手を制圧する勢いを持続させることが大切。たとえ作戦に不備があって失敗したとしても、決行が早かった分だけ敵軍に対するアドバンテージがあるはずなので、その都度作戦を練り直し、挽回することができる。裏返せば、「巧久」、すなわち作戦準備に時間をかけ過ぎると、万が一失敗した場合に取り返しが付かず、結果として勝機を自ら手放すことになりかねない・・・ 上記の孫子の言葉は、そうした極めて実戦的な内容を含む教えだと解釈できます。これから当会のクリーン作戦を仕切り直す私ですが、「巧久」よりも「拙速」を第一に掲げ、多少肩の力を抜き、おおらかな気持ちで事に臨もうと思います。 早速ですが、次回(第2回)は10月10日(月)に実施を予定しておりますが、活動場所につきましては1号堰堤ではなく、4号堰堤に変更させて頂きます。なお、第3回の活動場所は当初の予定通り、1号堰堤となります。 当ブログの読者の皆さん、引き続きご支援を頂ければ幸いです<(_ _)> なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、当作戦(10/10)の行方について報告させて頂きます。乞うご期待!

  • 15Sep
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その3

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その3 初回の「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦」の決行まで、あと3日となりました。当ブログの読者の皆さん、引き続きご支援を頂ければ幸いです<(_ _)> さて、本シリーズでは前々回、初回のクリーン作戦当日の活動計画を詳しく紹介させて頂きました。今回は、当日午後の部に参加を希望される方々に案内させて頂く予定のデ・レーケ堰堤を紹介させて頂きます。 クリーン作戦終了後、午後の部に参加される方々に適宜昼食を摂って頂きます。人数にもよりますが、心ばかりのお弁当と飲み物をご用意させて頂きます。そして、食後の小休憩の後、私の運転で自害沢(吉岡町)に向かい、5号堰堤と4号堰堤、そして3号堰堤をご覧頂く予定です。 ここで私がやけにこだわる自害沢について、簡単に紹介させて頂きます  自害沢は吉岡町東方の山地に水源をもち、同町域を東流する小河川です。車で高崎・渋川線バイパスを北進して吉岡町に入り、しばらく進むと、群馬県が建てた「自害沢川」と書かれた青い看板が目に入ります。その辺の自害沢は河道はとても狭く、三面コンクリートで河床と河岸をしっかりとガードされた形で、傾斜の緩やかな水田地帯の中を流れています。そして、普段の水量は極めて少なめ。その穏やかな様相からは、同川が過去において洪水や土石流などを繰り返し、流域の住民に甚大な被害を与えてきたことは全く想像できません  自害沢下流部(1) 自害沢は新しく開通した高崎・渋川線バイパスの小さな橋の下をくぐり、東(写真では右側)に向かって流れています。なお、写真の奥が渋川方面(ただし現在は吉岡町小倉まで)で、手前が高崎方面です。 自害沢下流部(2) 上掲写真の反対側です。なお、自害沢は当地では「自害沢川」と表記されています。自害沢は下流部で吉岡川に合流し、さらに利根川に通じています。 自害沢(自害沢川)はあまり目立たない川ですが、その物々しい名前が示す通り、典型的な「暴れ川」であり、河道に架かる橋の付近など、あちこちに防災を呼び掛ける看板が立っています。 自害沢上流部に立つ「砂防指定地」の看板 自害沢に架かる広域農道の橋のたもとに立つ「砂防指定地」の看板です。この辺りから下流側の自害沢は川幅がとても広く、かつ河谷が深くえぐられていることから、自害沢が「暴れ川」であることが分かります。当地付近から主要地方道高崎・渋川線までが砂防指定地に指定されている理由がよく分かります。 自害沢上流部に架かる橋 撮影場所は上掲写真と同じです。なお、橋脚高は40~50m程はありそうです。 自害沢上流部に立つ群馬県渋川土木事務所の看板 上掲写真の橋の袂に立つ、土石流災害への注意を促しています。末尾に連名で榛東村役場の名前も記されています。 先月上旬、ゴルフの帰りに寄り道をし、ねむの会副総理の織平先生と自害沢3号堰堤に出掛けて参りました。やはり、盛夏ということもあり、日陰であっても山中の植生は元気バリバリで、ヤブこぎにだいぶ苦労しました 自害沢3号堰堤(1) 下流側から堰堤の正面を撮影。現在の河床からの高さは5~8mはありそうです。なお、自害沢の上流は、八幡川上流部と同様、普段は水流が見られない、いわゆる「水無川」です。撮影日時は平成28年8月9日。 自害沢3号堰堤(2)  右岸側の袖部の石積みです。辛うじて築造当時の姿を留めています。  自害沢3号堰堤にたどり着くためには、中止を決断した八幡川j旧河道のデ・レーケ堰堤ほどではあるませんが、それでも暗い山中でハードな薮こぎが個々に求められます。当会の代表である私が当日の参加者にご性別やご年齢などを総合的に判断し、見学を見送らせて頂くこともあるかもしれません ただし、必ず案内させて頂きたいデ・レーケ堰堤の候補として、自害沢4号堰堤と同5号堰堤の2基を取り上げます。なぜなら、それらは比較的平らかな川筋に築かれ、しかも車を降りてから現地までそれほど離れていないことから、比較的アプローチしやすいからです。なお、それらは3号堰堤の下流側に築かれ、今なお砂防堰堤としての機能を有していること言うまでもありません  意を決した私は早速昨日、自害沢の現地に出掛けて参りました。最大の目的は、山歩きが不慣れな方も含まれるであろう参加者の安全を確保するため、その最適ルートの確認です  ヤブこぎを避けて水が流れていない河床に降り、遡上を開始するには、ブリキ板などで囲まれた土建業者の敷地内(?)を通過する必要があります。社長さんがお見えでしたのでお声をお掛けしたところ、特別なご配意を賜り、当日敷地内を通らせて頂くことになりました。感謝です<(_ _)>  自害沢5号堰堤(1) 厳しいヤブこぎを避け、自害沢の狭溢な河床をひたすら歩くことで、現地に容易にたどり着くことができました。撮影は平成28年9月12日。以下同じ。 自害沢5号堰堤(2) 右岸側袖部の石垣です。自害沢のデ・レーケ堰堤は、このように築造当時の基本構造が極めて良好な状態で遺されているものが少なくありません。 自害沢5号堰堤(3) 堰堤上部から撮影。先日の大雨の影響で、石面が流水で洗われ、スベスベになっていました。 次は、5号堰堤のさらに上流側の4号堰堤に移動しました  自害沢4号堰堤(1) 昨年の秋に訪ねた時よりも、堰堤下の土砂の堆積量が増えた感じがしました。先日のような大雨を繰り返すことで、この堰堤も地下に埋もれてしまう運命にあります。 自害沢4号堰堤(2) 左岸側から堰堤本体を撮影。やはり、こちらも先日の大雨の関係で大量の水が流下したせいで、石面がとてもサッパリしていました。 自害沢4号堰堤(3) 上流側から堰堤本体を撮影。このように左右にせり上がった部分が土砂の堆積による埋没を免れています。こうした様相に希少性を感じます。以上、これら2基のデ・レーケ堰堤であれば、どんな方でもゆっくり歩けば楽々たどり付けるはず。自害沢のデ・レーケ堰堤は、榛名山麓のデ・レーケ堰堤のうち、比較的標高が低く、傾斜の緩やかな場所に現存し、アプローチは容易なはずですが、なぜか知名度は高くありません。 でも、前述した通り、他の河川のものにl比べ、現存状況が極めて良好であることから、築造当時のデ・レーケ堰堤の基本構造を探る上で極めて重要な土木遺産であることは間違いありません。 私がここまで自害沢を強調する理由とは  当ブログの読者の皆さんはすでにお気付きでしょう  それは来年以降の当会の活動のための布石です  でも、その前に八幡川でケリを付けなければ  なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、次の日曜日(9/18)に決行する八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の様子を報告させて頂きます。乞うご期待!

  • 12Sep
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その2

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その2 初回のクリーン作戦の決行まで、ついに1週間を切りました。後はお天道様にお願いするだけですが、当日の天候次第では翌日に順延させて頂きます。 今まで各方面と連携し、その準備に勤しんで参りました。ただし、私が照準を定めた榛東村民の方々に対し、いったいどれだけ周知を図ることができたのか?その点について、未だに疑問が残ったままです  そもそも、いったいどれだけの榛東村民が「広報しんとう」や回覧板に目を通しているのか?その点が最も怪しい・・・ 榛東村は人口1万5千人弱の小村ですが、近年は前橋・高崎への通勤・通学者のベッドタウン化が急速に進行。その分、地域への帰属意識が希薄化し、、自らの活動範囲を前橋または高崎に据え置く、榛東村民ならぬ「榛東市民」が急増中なのかも知れません  つまり、新しく榛東村に越してきた方々だけではなく、そもそも榛東村で生まれ育ち、現在も村内で暮らしている方々のなかにも、榛名山麓の住民としてのアイデンティティを持たない「榛東市民」が増えすぎました。日本国憲法は国民の権利として居住・移転の自由を謳っていますから、榛東村に住所を移し、榛名山麓で暮らすこと自体は自由です。なので、地元に何ら関心をもたない「榛東市民」の方々に対し、もとより本会のデ・レーケ堰堤クリーン作戦のような、地域の歴史・文化に根差したボランティア活動に協力を求めるのは初めから無理があることは、初めからある程度予想していました。 それでも、一人でも多くの榛東村民の方々に同作戦に参加して頂くことを大きな目標に掲げ、ここまで準備してきたわけですが、果たしてどうなるのか?全く先が読めない状態がまだ続いています  ところが、明るい兆しも微かながら見えて参りました  先週の土曜日に八幡川を遡上し、初回の活動場所である4号堰堤の清掃前の姿を写真に収めるために立ち寄ったところ、現地で偶然にも、デ・レーケ堰堤の見学で現地を訪れた男性に遭遇。早速、私の論文(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第七章 「積水」編 その1)を差し上げ、お名前とご連絡先を教えて頂き、クリーン作戦への参加をお願いしました  ここで、清掃前の4号堰堤の現状を当日撮影した写真で紹介させて頂きます。 八幡川4号堰堤(1) 堰堤の正面です。平成成28年9月10日撮影。 八幡川4号堰堤(2) 堰堤上の右岸側から撮影。日時は同上。  とにかく、堰堤上の草木の生え方が半端ではありません  当日、参加して頂く皆さんと協力し、必ずサッパリさせてみせます  でも、かなりたいへんそう  写真を撮影した後、初回当日の清掃終了後に希望者に案内させて頂く予定のデ・レーケ堰堤(2基)を目指しました。それらは4号堰堤から約400m上流側、旧河道のスギ林の中に現存するものですが、写真で紹介させて頂きます(参照:わが村でデ・レーケさんの遺産を発見!(15) )。なお、これらの存在につきましては、現河道から離れた場所にあり、目立たないことから、一般にはよく知られていないようです。 八幡川旧河道に現存するデ・レーケ堰堤(十二沢6号堰堤) 杉林の中に石積みが遺されています。土砂による埋没が進行中ですが、現河道から逸れたことで損壊を免れたせいか、八幡川のデ・レーケ堰堤のうち最も保存状態が良好で、築造当時の姿を今にとどめています。今回のクリーン作戦に参加して頂く方々には、ぜひご覧頂ければと考えています。撮影は平成27年10月末日。 八幡川旧河道に現存するデ・レーケ堰堤(十二沢5号堰堤) 上掲写真の6号堰堤の西側のスギ林の中で静かに佇んでいます。土砂による埋没がかなり進んでおり、地上に現れている堰堤の石積みの高さは数十cm程しかありません。撮影日時は同上。 初め河川敷を徒歩で遡上。7、8分程歩いたところで、左岸側のスギ林に潜入。すると・・・ 「げげっ  藪が凄すぎて、全く前が見えない」 それは、2基が初回午後の案内先として不適当であると判断した瞬間でした。 「(山が得意な)オレなら行けるけど、一般の方々にゃ、こりゃムリだわ 」 というわけで、初回午後の見学先の候補からそれらの2基を外し、別のデ・レーケ堰堤を入れることにします(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その1)。クリーン作戦への決行に関しては、一応ボランティア保険への加入を勧めておりますが、参加される方々の安全を確保することが本会代表である私の使命です  突然話しは変わりますが、さらに代休日の今日、2回目と3回目の活動場所である1号堰堤にも、やはり活動前の状態を撮影するために出掛けて参りました  そして、その帰り道、現地に至近の畑で草刈りに勤しむ地元の女性を発見!無視するわけには参りませんので、早速車から降りて挨拶。名刺をお渡しした上で、本会(榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会)の紹介、そしてクリーン作戦について案内させて頂きました  すると、驚いたことに、女性はデ・レーケ堰堤のことをご存知でした。桃泉開拓地内で出会った地元の方々に対し、積極的に声を掛け、デ・レーケ堰堤の周知に努めて参りましたが、その存在を知っている御方に初めて出会いました。どうやら、以前に開催された村民対象の文化講座に参加された際にデ・レーケ堰堤のことを知ったそうです  感激の余り、前述の男性同様、名刺を指し出し、関係資料(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その3 )も全て手渡した上で、クリーン作戦への参加をお願いししてしまいました  やはり、やはりデ・レーケ堰堤に関心をお持ちの方々は知的レベルが高い  でも、私の真の狙いは、むしろそれに関心を示さない「榛東市民」の啓蒙にあります。榛名山麓にデ・レーケ堰堤が築かれた歴史的意義、そしてその希少性について、根気強く訴え続けていかなければ  なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m         白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 予告とはだいぶ違う内容になってしまいましたが、次回の本編は、今度こそ、初回のクリーン作戦の終了後、希望される方々に案内させて頂く予定のデ・レーケ堰堤の数々を紹介させて頂きます。乞うご期待!

  • 07Sep
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その1

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第十章 「嬰子・愛子」編その1  「卒(そつ)を視ること嬰児(えいじ)の如し。故に之(これ)と深谿(しんけい)にも赴く可(べ)し。卒を視ること愛子(あいし)の如し。故に之と倶(とも)に死す可し。」(地形篇)【訳】将軍が兵士たちに注ぐ眼差しは、赤ん坊に対するよう(に愛情に満ち溢れたもの)である。だからこそ、いざという時に兵士たちを(危険な)深い谷底へでも率いていくことができるのである。また、将軍が兵士たちに注ぐ眼差しは、わが子に対するもののようでもある。だからこそ、兵士たちは将軍とともに死ぬ(決死の覚悟で戦いに臨む)ことができるのである。 孫子のこの教えは、リーダーに求められる資質の一つとして、部下や仲間たちに対する望ましい接し方について説いています。部下や仲間たちに対し、「嬰児」や「愛子」のように優しく丁寧に接するリーダーの下で組織の結束は固まり、士気も上がるでしょう。 普段から自分のことを気に掛けてくれるリーダー。そんな人のために多少無理をしてでも頑張ってくれる人も出てくるはず。それはきっと、組織運営に関する普遍的な法則なのかも知れません  さて、八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の決行まで、ついに2週間を切りました。私も「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会」の代表として、集まって頂いた方々には「嬰児」・「愛子」に注ぐ優しい眼差しを忘れず、できる限り丁寧に接しなければなりません。たとえ集まって頂いた方々は少人数であっても、それをプラス思考に置き換え、他のデ・レーケ堰堤への案内など、少人数だからこそ可能な催しを別途検討したと思います  自害沢3号堰堤 榛名山麓に現存するデ・レーケ堰堤のうち、最大規模を誇る貴重な土木遺産です。 以下、今回は同作戦の初回、9月18日当日の活動計画を紹介させて頂きます。 八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦 9.18当日の活動計画~8:30 榛東村役場駐車場北側(予約済み)で参加者を随時受付※受付時にトイレの場所を連絡(役場の北側入口から入って直進。突き当たりを右)。※持参した清掃用具に記名をお願いする。  8:30 参加者集合(榛東村役場駐車場北側)・代表挨拶・日程説明・班分け  ◯参加者をA(清掃担当場所:堰堤の下)とB(同:堰堤の上)の2班に分ける(Aの人数を多めに)。 ※出発前に服装とトイレを再確認(現地にトイレはない)。8:40 点呼後、役場出発◯移動は車3台で行う(現地の駐車スペースの関係)。  ・代表号(先頭):主にA班 乗員6人まで(清掃用具を乗せる関係)。 ・代表兄号:主にB班 乗員5人まで。 ・代表妻号(最後尾):乗員4人まで 弁当等の買い出しにも使用。8:50 現地①(2号堰堤)到着 デ・レーケ堰堤の説明 移動(9:20~)9:30 現地②(4号堰堤)到着 ◯車から清掃用具を降ろし、全員で清掃分担場所を確認する。次に、各班で役割分担を相談して決めた上で清掃用具を持ち出す。9:40 清掃作業開始 A班:堰堤下(チーフ:代表) ①堰堤正面の石積みに生えた草木を除去(脚立を利用)。②次に堰堤の真下に堆積した土砂をかき集める。 ③出たゴミを草木・土砂・その他(空き缶・空き瓶など)に分け、左岸側の河床にまとめる。 B班:堰堤上(チーフ:代表兄) ①まずは草削り機(代表兄持参)で堰堤上に生えた草木を除去。 ②次に石積みの上に堆積した土砂を除去(石積みを傷付けない程度に)。 ③出たゴミを草木・土砂・その他(空き缶・空き瓶など)に分け、左岸側(デ・レーケ堰堤の案内板の脇)にまとめる。 │※各班で役割分担を相談 (例)草木を削る人、土砂をかき集める人、ゴミを集める人など※A班・B班とも集めた「その他のゴミ」のうち、燃えるゴミについては榛東村専用のビニール袋に詰め込み、代表が持ち帰る。10:25 休憩(~10:40) 代表妻が参加者に飲み物をすすめる(紙コップ)。10:40 清掃作業再開11:20 清掃作業終了11:20 説明板の脇にアジサイの苗を植樹(参加者全員で)11:35 清掃用具を車に搬入  移動(11:40~)11:50 村役場駐車場に到着後、清掃用具を搬出・搬入11:55 代表挨拶※終了後、代表妻が参加者に点呼をとりながら弁当と飲み物を配る。12:00 終了・一次解散 ※午後の部に参加する方は役場西側公園に移動して昼食。12:40 村役場再出発(代表号) ※希望者のみ※4号堰堤の上流側、八幡川旧河道に現存するデ・レーケ堰堤、そして自害沢3号堰堤などを案内。なお、「午後の部」の希望者が6名以上の場合は代表号は一時帰宅し、清掃用具やゴミ袋を降ろしてから再び村役場に戻る。13:30 八幡川旧河道に現存するデ・レーケ堰堤に到着  移動(13:50~)14:30 自害沢3号堰堤に到着 移動(14:50~)15:00 村役場に到着・二次解散 以上です。 しつこいようですが、当日いったいどれだけの方々に集まって頂けるのか?ボランティアという性格上、全く先が読めません。でも、たとえ小人数であっても、私は年頭に立てた目標を貫徹すべく、ベストを尽くすしかありません(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:序章 「狼煙」編 )。 当ブログを通して八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦を知り、もし参加を希望される方がおられましたら、メッセージ欄にその旨をお報せください。よろしくお願いします<(_ _)> なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本篇は、初回の八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の終了後、ご希望される皆さんに当日午後に案内させて頂く予定のデ・レーケ堰堤の数々を紹介させて頂きます。乞うご期待!

  • 04Sep
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その5 

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その5  初回の八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の決行まで、早いもので丁度あと2週間となりました。これまでより多く方々にボランティアに参加して頂きたい一心で、当ブログはもちろん、当ブログとリンクしたFacebookやtwitterなど、ネット社会において榛名山麓のデ・レーケ堰堤を紹介し、土木遺産としての価値の高さを強調して参りました。 ただし、実際に参加者を集める作戦として私がとりわけ期待したのは、まずは「広報しんとう」、次に榛東村内各隣保班の回覧板でした。 まずは榛東村民の皆さんに対し、「広報しんとう」で八幡川のデ・レーケ堰堤を紹介したい 回覧板でもデ・レーケ堰堤クリーン作戦を宣伝し、その意図について周知をはかりたい  そして、今年の2月、「広報しんとう」と回覧板の両方を活用、すなわち私が執筆した記事や広告を採用して頂くために榛東村役場総務課の担当職員さんを訪問。すると、軽くあしらわれて門前払いと思いきや(毒舌失礼!)、たちまち有難いお返事を頂きました  それから半年が過ぎ、ようやく先月発行の「広報しんとう」7月にデ・レーケ堰堤を紹介する記事、そしてその清掃ボランティアを募集する記事が2本とも何とか掲載にこぎ着けました(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その1 )。また、先月中旬には榛東村内の回覧板にボランティアの募集広告を挿し込んで頂きました(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その2)。ご尽力頂いた榛東村役場総務課の職員の皆さんには改めて深く感謝申し上げます<(_ _)> でも・・・ 今のところ、応募先である私の携帯電話には、参加希望者からの連絡はまだ1本も入っておりません  現実は、私が想像していた以上に厳しいようです  初回の八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の決行(9/18)に向け、暗雲が漂うなか、ようやく「広報しんとう」8月号が手元に届きました。 「広報しんとう」8月号 表紙を飾ったのは、先月3日に開催された相馬原駐屯地の納涼盆踊り大会に出演した「上州榛東ふるさと太鼓」さんです。  先月号と同様、今回も「暮らしの情報」というコーナーに掲載して頂きました。分量も前回とほぼ同程度の1ページの約半分です  「広報しんとう」8月号に掲載された記事 タイトルは「榛名山麓の巨石砂防堰堤を設計したデ・レーケの人物像について探ろう」とさせて頂きました。 原稿提出時のタイトルは「榛名山麓の砂防事業に尽力したデ・レーケとはどんな人物?」でしたが、榛東村役場総務課の担当職員さんのご助言を仰ぎ、「榛名山麓の巨石砂防堰堤を設計したデ・レーケの人物像について探ろう」に変更させて頂きました (参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第六章 「勝兵」編 )。 レイアウト的にみた場合、できればデ・レーケさんの写真を文頭に挿し込んで頂ければよかったのですが、これだけの分量の記事を公の紙面に割いて頂いただけでも感謝しなければいけません  「広報しんとう」8月号に掲載された記事(拡大) 今回も三段にわたって記事を載せて頂きました。榛東村役場総務課の職員の皆さんに感謝です<(_ _)> 今回、「広報しんとう」8月号に掲載して頂いた記事の全文は次の通りです。榛名山麓の巨石砂防堰堤を設計したデ・レーケってどんな人? 利根川流域では、これまでに洪水氾濫が度々発生してきました。天明3(1783)年の浅間山噴火に伴う火山泥流は、同川の河床を著しく上昇させ、流域の水害リスクを増大させました。また、榛名山麓から大量の土砂が利根川本流に流れ込み、水害を誘発しました。 そこで内務省は明治14(1881)年以降、利根川の河川改修の一環として、榛名山麓の砂防事業を開始し、地質的に崩壊しやすい相馬ケ原扇状地の安定化を目指しました。これが村内の八幡川に現存する巨石砂防堰堤の背景です。 その設計者ヨハネス・デ・レーケは1842年12月5日、オランダ南西部のコレインスプラートという村で築堤職人の次男として誕生しました。彼が土木技師として頭角を現したのは北海運河のオランニエ閘門の工事監督を務めた25歳の時でした。 やがてデ・レーケは、大阪港の改修を急務としていた内務省に抜擢され、「御雇い工師」として明治6年9月に妻と2人の子供と来日し、大阪を拠点に仕事を始めました。 まずデ・レーケは淀川上流を視察しましたが、その荒廃を嘆き、砂防堰堤の築造を計画しました。そして明治7年、淀川水系の木津川の支流に最初の近代的な石積み砂防堰堤を設計し、さらに明治8年、精緻な測量調査を基にわが国初の近代河川改修を指導しました。その結果、大阪港の水深は深く保たれ、淀川では渇水期でも蒸気船が自由に航行できるようになりました。 卓抜した手腕を発揮する一方で、デ・レーケは日本で妻と三男、義妹を病気で亡くしました。それでも仕事の手を緩めず、日本人の期待に応え続けました。なお、デ・レーケにとって榛名山麓で築堤が始まった明治14年は、闘病の末に妻に先立たれた、最も辛い時期でした。 その後、デ・レーケは単身で内務本省土木局に赴任し、明治17年5月に一等工師に昇格しました。明治24年10月には元老山県有朋に計らいで勅任官扱い(事務次官相当)に昇進し、明治36年に30年間務めた内務省を退職しました。 その後、デ・レーケは中国で黄浦江改修の技師長として活躍し、1911年1月、その功績によりオランダ女王から勲爵位を授与されました。しかし、その2年後の1月20日、デ・レーケは持病の心臓病を悪化させて70歳で永眠しました。 日本が明治維新以後急速な成長を遂げ、経済大国に躍進した背景には、日本の国土保全に自らの人生を捧げたデ・レーケの存在がありました。私たち榛東村民もデ・レーケの恩恵を決して忘れてはいけません。 (写真:ヨハネス・デ・レーケ)※この記述に関するお問い合わせは、榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会(代表 ◯◯  ☎070-◯〇〇〇ー◯〇〇〇)へ。 体言止めを多用した文章は悉く修正されてしまいましたが、変更はその程度で済みました。それよりも、もい一つ、別タイトルで当初掲載が予定されていたボランティア募集の記事「RE:デ・レーケ堰堤クリーン作戦の参加者を募集します」について、紙面の関係などの理由から、残念ながらカットされてしまいました。ても、7月号にその詳細を掲載して頂いたので、それは止むを得ません  でも、その代わりに、「電話をかける側に立てば、名前を出した方がかけやすいはず」という榛東村役場総務課の担当職員さんのご指導を受け容れ、今回は私の連絡先(携帯電話)だけではなく、名前を付記させて頂くことになりました。ただし、公表は名字だけで、さすがにフルネームは避けました  すると、たちまち携帯電話に「050」で始まる着信が  うーん、たとえ携帯電話の番号であっても、個人情報を公表するのはやはり危険を伴います  それでも、9.18当日まで私は根気よく村内有志の皆さんからのご連絡を待ち続けようと思います。ただし、「050」発信の電話には絶対に応答しません。調べたところ、その全てが悪徳業者など、いかがわしい輩からのものとは限らないようですが、私は一切無視させて頂きます なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、初回(9月18日)の八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の決行に向け、練りに練り上げた当日の活動計画についてお送りします。乞うご期待!

  • 31Aug
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その4 

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その4  「八幡川のデ・レーケ堰堤は今、いったいどうなっているのか 」 9.18デ・レーケ堰堤クリーン作戦の決行に向け、直近の準備状況を報告させて頂いている本編ですが、そんな疑問を感じておられる読者さんも決して少なくないはずです。 そこで、今月の9日、現地に出掛けて参りました。以下、デ・レーケ堰堤の現況を当日撮影した写真を中心に紹介させて頂きます。まずは初回の清掃箇所となる4号堰堤から・・・ 八幡川4号堰堤の現況(1) 下流側から撮影。この場所が初回の作業現場になります。 八幡川4号堰堤の現況(2) 堰堤の基部にだいぶ草木が密生しています。  4号堰堤は林間の木陰にあり、他の堰堤よりも涼しい場所です。つまり、残暑が予想される初回の作業場所については、少しでも暑さを凌ぐため、あえてこの場所を選定させて頂きました(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その1・デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その2)。 次に、2・3回目の作業場所として選定した1号堰堤にも脚を運びました。なお、1号堰堤は、八幡川に現存するデ・レーケ堰堤のうち、最も下流側に位置する砂防堰堤です。 八幡川1号堰堤 堰堤のほぼ全体が草木に覆われ、左岸側の石積みがほんのわずか顔を覗かせています。   1号堰堤の清掃につきましては、上掲写真の通り、大変な仕事になることは間違いありません。まずは堰堤を覆い尽くす草木を除去し、それから堰堤下部の土砂を搔き出したり、大量のゴミを収集したりしなければなりません。予めとてもタフな仕事になることが予想されるため、この場所の清掃は2回にわたって行うことにしました。また、その時期につきまては、炎天下での作業を避け、10月中旬と11月上旬を選定させて頂きました  この1号堰堤に用いられた石材には、八幡川に現存するデ・レーケ堰堤のなかでもとりわけ巨大なものが使用されています。榛名山麓に現存するデ・レーケ堰堤で使用された石材としても、おそらく最も巨大な部類に入るものと思われます。1号堰堤をキレイにすることで、ぜひその迫力ある石積みの全貌を再現し、クリーン作戦に参加して頂いた皆さんと達成感を共有できれば幸いです  ついでながら、続いて八幡川を遡上し、私が今年の1月に単独で清掃作業を展開した2号堰堤の様子も見て参りました(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:序章 「狼煙」編)。  八幡川2号堰堤(1) キレイにしたはずの石積みはすでに草木の葉で覆われつつあります。  八幡川2号堰堤(2) 堰堤上部もキレイに草木を刈り取ったのですが・・・ 2号堰堤を尋ねたのは、、5月にクリーン作のパンンレットに挿し込む写真を撮影するために訪ねて以来、3か月ぶりでしたが、その変わり果てた姿に狼狽。夏草の勢いは、やはり半端なものではありません。 植物の生長はやむを得えませんが、堰堤下の水叩き部には、また懲りずにゴミが捨てられていました。おそらく隣接する墓地にお参りした方によるものでしょう。とても残念です  八幡川2号堰堤(3) 持参した新しい生花と交換するた際に廃棄されたものだと思われます。 2号堰堤の上部についても、再び草木を削る必要がありそうです。いずれにせよ、デ・レーケ堰堤クリーン作戦は自然が相手なので、かなりタフな仕事になるに違いありません  「予想以上キツそう。当日大丈夫なのか・・・」 そんな不安が頭に過ぎり、少々気後れしていた矢先、今回の清掃作業で大活躍してくれそうな道具が思い浮かびました  それがこちらです。  スノーダンプ その名の通り、本来は除雪用具です。これで削り取った大量の草木や掻き集めた土砂を搬出します。 実はわが家には、これと同じスノーダンプがもう一つあります。冬場の除雪と同様、夏場の除草でも大きな威力を発揮してくれそうです ただし、参加して頂く皆さんに過重労働を強いるつもりは毛頭ございません。なぜなら、デ・レーケ堰堤クリーン作戦の最大の目的は、より大勢の方々に砂防遺産としてのデ・レーケ堰堤価値を見直して頂くこと。参加して頂く方々にご自分たちのペースで気持ち良く身体を動かして頂くだけで十分です。当日の参加人数にもよりますが、作業が中途半端になったとしても、その点だけは逸脱しないよう、本会代表として気を付けたいと思います。 なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m 白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 本シリーズは次回こそ「広報しんとう」8月号に掲載された私の執筆記事をお送りします。乞うご期待!

  • 29Aug
    • デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その3の画像

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その3

      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その3 突然ですが、当ブログは一昨日(8/27)付の歴史・仏像ランキングで49位(5053人中)に上昇。久し振りに黒帯をゲットしました なお、アクセス数は967PVでした。 改めて読者の皆さんに感謝です。ありがとうございますm(_ _)m さて、デ・レーケ堰堤クリーン作戦で活躍してもらう清掃用具たちを紹介させて頂いた前回に続き、今回は当日参加される方々に提示・配布させて頂く予定の資料を特別に事前公開させて頂きます。 まずは、参加される皆さんに、今回汗を流して頂く八幡川のデ・レーケ堰堤の場所を確認して頂くために作成した地形図から。それがこちらです。 提示資料(1) 5万分の1の縮尺の地形図を使って、八幡川をはじめ、利根川と烏川に挟まれた地域を流下する主な河川を太めのマジックでトレースしてみました。少しでも目立つようにピンクでトレースしたのが、今回の八幡川以下、榛名山麓でデ・レーケ堰堤が築かれた5つの河川です。 地形図の作業を通して改めで榛名山麓を振り返ると、デ・レーケの指導による築堤がその南東麓を流下する諸河川に集中していることが分かります。 さらに、その榛名山南東麓を地図上で拡大し、当日の集合場所である榛東村役場と八幡川との位置関係を説明させて頂くために作成したのが次の資料です。 提示資料(2) デ・レーケ堰堤が築かれた5つの河川をオレンジでトレースしてみました。八幡川は北から数えて3本目です。なお、榛東村役場は八幡川の左岸に位置しています。 提示資料(3) 榛名山南東麓に築造されたデ・レーケ堰堤の分布を図示。明治時代に榛名山麓で築かれたのべ120基のデ・レーケ堰堤の築造場所は、八幡川源流部の吾妻山(830m)を中心として描く直径6〜7kmの円の中にほぼ全て収まります。  次は、当日参加される方々に配布させて頂く予定の資料です。それぞれ詳細につきましては、すでに当ブログの当シリーズ「デ・レーケ堰堤クリーン作戦」、そして関連シリーズ「『砂防の父』デ・レーケの遺産」で紹介させて頂いておりますので、詳細につきましはそちらをご参照ください。 配布資料(1) 「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦に参加して頂いた皆様へ」と題して、本活動の主旨などを自分の言葉で記させて頂きました。また、裏面には本会(榛名山麓のデ・レーケ堰堤を見守る会)の会則を添付しました。 配布資料(2) 地元紙「上毛新聞」さんに掲載された私の投稿。タイトルは「村内で見付けたデ・レーケ堰堤」で、私とデ・レーケ堰堤との偶然の出会いを述べたものです(参照:わが村でデ・レーケさんの遺産を発見!(1) )。  配布資料(3) 清掃ボランティアの募集広告でrす。先日、榛東村内の全ての隣保班の回覧板に挿し込ませて頂きました(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その2)。 配布資料(4) 「広報しんとう」7月号に掲載された関連記事です。「村内に現存するデ・レーケ堰堤の価値を見直そう」と「八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦のボランティアを募集します」の2本分を掲載して頂きました(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その1・デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第八章 「虚実」編 )。なお、発行が遅れている同8月号につきましても、同様にコピーを配布させて頂く予定です。   配布資料(5) 榛名山麓に現存するデ・レーケ堰堤について、八幡川のものを中心にカラ―写真を豊富に掲載させて頂きました。 配布資料(6) 私の拙稿。群馬地理学会さんの機関紙に掲載して頂いた論文です(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第七章 「積水」編 その1)。  配布させて頂く資料は以上ですが、数が多すぎるかも知れません。でも、貴重なお時間を割いて頂く皆さんにデ・レーケ堰堤の価値を十分に理解して頂きたい一心で、気合を入れて用意させて頂く予定です。よろしくお願いしますm(_ _)m なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m 白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回の本シリーズは、本編に続き、八幡川のデ・レーケ堰堤の現況を紹介させて頂きます。乞うご期待!

  • 27Aug
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その2

       デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その2 ついに決行まで1カ月を切った八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦。私人である私がこの活動を通して公共に訴えたいことは山ほどありますが、それよりも大切なことは参加される皆さん全員の安全確保です  前回、防虫スプレーと虫刺され薬を紹介させて頂きましたが、もう一つ準備しなければいけないのは冷たい飲み物でしょう。熱中症対策として参加される皆さんにキンキンに冷えた飲み物をご提供したい一心で、押し入れの奥から昔海水浴で使った懐かしのクーラーボックスを取り出しました  懐かしのクーラーボックス 子供がまだ小さかった頃、海水浴でお世話になりました。それ以来10年以上休眠中でしたが、今回目出度く、久々に出番が訪れました。この中に氷を入れ、お茶や炭酸ジュースなど、色んな種類の飲み物をたくさん詰め込もうと思います。なお、ビールは勘弁して頂きます  作業時間は3回とも午前9時から正午までの3時間。ただし、途中で休憩時間を30分とり、冷たい飲み物で喉を潤して頂く予定ですから、実際には2時間半程度でしょう。 終了後はクリーン作戦で汗を流して頂いた皆さん全員に気持ち程度のお弁当を配布させて頂きます。その費用につきましては、今回群馬県から頂く予定の「花と緑のクリーン作戦」奨励金から支出させて頂きます。オマケとして、わが家で収穫したブドウをデザートとしてお出しできればと考えております わが家でとれた初物のブドウ 巨峰とナイアガラの2種類です。今のところ、甘さが今一つ物足りませんが、初回のクリーン作戦の頃は食べ頃になるはずです  他にも、安全対策に関して、様々なケースを想定した上で、最善の準備を整えておきたいと思います。  さて、話題は大きく変わりますが、今回は当日、デ・レーケ堰堤をキレイにするために活躍してもらう道具たちを紹介させて頂きます 活躍してもらう道具たち 他にも参加予定者から草刈り機を持ってきて頂き、堰堤上部に蔓延った大量の草を除去します。 長靴 現地の八幡川は水無川ですが、これを履いて足元をしっかガードした上で、清掃作業を進めて頂きます。軍手ももちろん不可欠です。 スコップ(大) 今回の主役。主に堰堤基部に堆積した大量の土砂を搔き出します。 スコップ(中) 同上。  スコップ(小) 石積みの隙間になど、デリケートな部分に詰まった土砂をこれで搔き出します。 熊手 石積みの隙間に挟まった小木や堰堤の前面をおおうツルをこれで搔き落とします。 今年の正月の作業で予想以上に役に立ちました。 浅鍬 今回の準主役。スコップで搔き出した土砂をこれで掻き集めます。  脚立 4号堰堤は高さが3~4mあるので、これで高所を攻めます。ただし、その分危険が伴うので、細心の注意を払う必要があります。 剪定ハサミ 石積みに隙間に音を張った木々の枝や根をこれで容赦なく退治します。 草刈り鎌 刃の内側にギザギザした加工が施されている分、とてもパワフルです。堰堤下の土砂を取り除く前にまずはこれで草を刈り取る必要があります。 ガーデンレーキ(大) 除去した草木をこれで掻き集めます。  ガーデンレーキ(小) 同上。 バケツ これで搔き出した土砂を運びます。大きすぎず、小さすぎず、丁度よいサイズだと思います。 以上です。なお、掻き集めた土砂・草木とゴミなど、清掃後のゴミについては、予め渋川土木事務所さんにその処理はお願いしてあります。 渋川土木事務所さん、この度はたいへんお世話になりますm(_ _)m なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m                           白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+  「広報しんとう」8月号の発行が遅れているようなので、今回は予定を変更し、9.18決戦に向けての直近の準備状況について報告させて頂きました。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回は本編の続きで、デ・レーケ堰堤の清掃で使用する道具をあれこれ取り上げる予定です。乞うご期待! 

  • 20Aug
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      デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その1 

       デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第九章 「金鼓・旌旗」編その1 軍政に曰く、言うも相(あ)い聞こえず、故に金鼓(きんこ)を為(つく)る。視(しめ)すも相い見えず、故に旌旗(せいき)を為る。是の故に昼戦(ちゅうせん)に旌旗多く、夜戦に金鼓多し。夫(そ)れ、金鼓・旌旗は人の耳目(じもく)を一(いつ)にする所以(ゆえん)]なり。人既に専一(せんいつ)なれば、則(すなわ)ち勇者も独り進むことを得ず。怯者(きょうしゃ)も独り退くことを得ず。此れ衆を用うるの法なり。 (軍争篇) この孫子の教えは次のように直訳されます。 「古い兵法書には『(戦闘を指揮するに当たって)口で言ったのでは(兵士たちに)聞こえないので、鉦(かね:退却の合図に用いる)や太鼓を用いる。手で指し示しても(兵士たちには)見えないので、旗や幟(のぼり)を用いる』とある。だから、昼間の戦闘では旗や幟が多く使われ、夜戦では鉦や太鼓をよく用いられる。そもそも鉦や太鼓、旗や幟などは、(指揮官が)兵士たちの耳目を一点に集中させるために用いるものなのだ。(それらを用いることで)兵士たちの心が一つにまとまっていれば、勇敢な兵士も勝手に進むことはできず、臆病な兵士も勝手に退散することはできない。これが大軍を動かす際の秘訣である。」 つまり、孫子は、指揮官が「衆を用うるの法」、すなわち実戦に際して大勢の兵士たちを統率する秘訣として、兵士たちが心を一つにして戦うために用いる「金鼓」・「旌旗」、すなわち指示の明確化を強調しました。確かに有事に際し、指揮官の指示が曖昧では兵士たちの心は宙に舞い、軍の統率が成り立ちません  それは現代社会を構成する大小様々な組織にも当てはまることでしょう。有事に際し、自らの態度を決めることができない、「断」なき無責任なリーダーなど要りません。部下や後輩たちを不幸にするだけですから  さて、八幡川のデ・レーケ堰堤クリーン作戦の決行まで、早いもので1カ月を切りました。「広報しんとう」の7月号でその募集案内を掲載させて頂いたのに続き、先週は榛東村内の全ての隣保班の回覧板に募集案内のパンフレットを挿し込ませて頂きました(参照:デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その1 ・デ・レーケ堰堤クリーン作戦:第五章 「激水」編:その2)。ただし、それらの試みが果たして奏功するのか?そして、どれだけ沢山の参加者に集まって頂くことができるかどうか、現在のところ全く読めません  でも、私の志は絶対にブレません 9.18決戦に向け、私、白髪磨人は 「榛名山麓のデ・レーケ堰堤を守る会」の代表としての責任を自覚し、当日集まって頂いた方々にデ・レーケ堰堤の素晴らしさを理解して頂いた上で、気持ち良く清掃作業に勤しんで頂けるよう、事前準備をしっかり整えて参ります。そして、集まった皆さんが相馬ケ原の山中で彷徨うことのないように臨機応変に「金鼓」を派手に打ち鳴らし、「旌旗」を高々と掲げたいと思います  そこで本編では、9.18決戦に向けた直近の準備状況について逐一報告させて頂きます。 9.18決戦に向け、絶対に準備しておかなければならないもの。 それは、何といっても防虫スプレーと虫刺されの薬の2品でしょう  先日、クスリの〇オキさんで購入して参りました  防虫スプレーと虫刺されの薬 防虫スプレーはデング熱の原因のヤブ蚊対策にも効果があるそうです。  イワナ釣りのセミプロを自認する私の経験上、初秋の9月下旬でも蚊はもちろん、アブやハチなど厄介な虫たちがワンサカ。それらに気を取られていては清掃作業どころではありません  入山に際し、まずは参加者の皆さんに防虫スプレーでお肌をガードして頂きます。なお、妻も含め、参加される女性の皆さんのためにお肌に優しい「さらさらパウダー」の「スキンべーブ」(フマキラーさん)を選択しました。 それでも、作業中の発汗でその効能が弱まり、蚊やアブに刺されてしまった際には虫刺され薬「ウナコーワ クールパンチ」(興和さん)を即刻患部に塗布して頂きます。なお、その名前の通り、クールな氷冷感がかゆみを止めてくれるほか、ブラシ風の「もろこしヘッド」が使われているので塗った感じがとても気持ちいいそうです   他にも、万が一のケガに備えて消毒液や絆創膏、包帯などを救急箱に豊富に揃えておいたり、熱中症予防のためにスポーツ飲料や清涼飲料水をクーラーボックスでたくさん冷やしておきたいとと思います。安全対策の工夫こそ、指揮官として最も大切な役目ですから(つづく)。 なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。当ブログのメジャー化にご協力頂ける方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m 白髪磨人 +*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+  「広報しんとう」8月号の発行が遅れているようなので、今回は予定を変更し、9.18決戦に向けての直近の準備状況について報告させて頂きました。ご訪問頂き、ありがとうございました。 次回は本編の続きで、デ・レーケ堰堤の清掃で使用する道具をあれこれ取り上げる予定です。乞うご期待! 

  • 17Aug
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      地元紙がついに連載を開始!陸軍前橋飛行場の記憶

       地元紙がついに連載を開始!陸軍前橋(堤ケ岡)飛行場の記憶 色々と訳あって長らく休眠状態が続いた当ブログですが、それでも一昨日と昨日で1000アクセスを突破!ランキングも順位をあと2つ上げれば黒帯GET。読者さんをはじめ、訪問者の皆さんに感謝です<(_ _)> 最近では自ら保全に乗り出した榛名山麓のデ・レーケ堰堤関連の記事の充実に努めて参りましたが、開始時より帝国軍人や戦争遺跡などを重点的にクローズアップしている当ブログの性格上、やはり8月15日の終戦記念日は特別で、その前後はより多く方々から注目を頂いているようです(^_^)v 当ブログのアクセス数の近況 このところ平均で一日約700アクセス(訪問者数は一日約300名)を頂いております  8月16日付けの当ブログの歴史・仏像ランキング 当ランキングにエントリーしているブログの数全部では5063。50位以内、すなわち黒帯をGETするのは決して簡単ではありません  昨日(8月16日)のアクセスが多かった記事 当ブログは最近、自らが主催するデ・レーケ堰堤クリーン作戦に関連した記事にたくさんの「いいね」を頂いておりますが、それでも全体的には上掲画像の通り、帝国軍人関連の記事に読者の皆さんから多くのアクセスを頂いております。ありがとうございますm(__)m いずれにせよ、こうして細々とではありながらも、ここまで当ブログの運営を続けられるのは全て読者の皆さんのおかげです。誠にありがとうございますm(_ _)m さて、本題に移ります。 実は一昨日より地元紙のJ毛新聞の紙面に「戦禍に揺れた飛行場 堤ケ岡の記憶」と題して、旧堤ケ岡村(現・高崎市)周辺の広大な土地に存在し陸軍前橋飛行場の記憶をたどる特集記事の連載が始まりました。昨年の真夏以降、現地調査を繰り返し、その成果を当ブログで公表させて頂いた私にとって、それは大きな驚きであると同時に感謝、感激です〈風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(1/4)・風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(2/4)・風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(3/4) ・風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(4/4)〉。 一昨日の記事は、知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)で陸軍誠第36飛行隊の細木章少尉(島根県ご出身)のご遺品として展示された2体の人形とそれに秘められた物語を紹介したものでした。2体の人形はいずれも当時高崎高等女学校(現・高崎女子高校)の女学生で、前橋飛行場の近くに住んでいたAさん(現在87歳で埼玉県ご在住)が細木少尉へのお守りとして製作した、いわゆるお守り人形でした。 なお、細木少尉が所属する誠第36飛行隊が前橋飛行場に滞在したのは昭和20年3月5日から約2週間。そのわずかな間にAさんは細木少尉と出会い、交流を深めました。そして,前橋を離れてから約2週間後の翌月6日、細木少尉は新田原飛行場(宮崎県)から沖縄方面に出撃し、22歳で若くて尊い御命を散らされました。合掌 新聞記事によれば、2体のお守り人形は、細木少尉から突然自らが特攻隊員であり、出撃のために前橋飛行場を離れることを告げられたAさんが徹夜で製作したものでした。 8月15日付J毛新聞のトップ記事 忘れ去られつつある前橋飛行場を取り上げて頂いたJ毛新聞さんには大感謝です<(_ _)>  特攻隊員に贈られた手作りの人形 特攻特攻で散華された陸軍誠隊第36飛行隊の細木章少尉のご遺品です。それぞれ「忠魂 祈御武運」のほか、制作したAさんの実名などが記されています。上掲のJ新聞より転用。 ところで、上掲の新聞記事の中に、興味深い資料を発見 それは前橋飛行場の所在地を大胆に示す地図でした。 そこで、慎重を期して、私が昨年の真夏に現地を調査し、外郭に相当する排水溝や地割などを自分の目で確かめながら作成した地図も再び掲載させて頂きます。両論併記的な取り上げ方にはなりますが、ぜひご参考にして頂ければ幸いです。 陸軍前橋飛行場の位置(8月15日付のJ毛新聞) 上掲のJ新聞より転用。滑走路の位置が明確に示されています。そのソースはいったい何でしょうか? 陸軍前橋飛行場の位置(磨人が製作) 青い線が前橋飛行場の外郭、そして赤い線は滑走路(推定)を表します。 上下2枚の地図を見比べた場合、いくつかの共通点や相違点が浮かびます。 まずは外郭の平面形がほぼ同じであるという点。ただし、南東部の出っ張りは下の図、つまり私の図の方がより正確だと思われます それにつきましては、かつて当所で前橋安中富岡線が外郭南東部の出っ張りを避けるかのようにその南側を大きく迂回していたことを当ブログで紹介させて頂きました(風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(4/4))。 次に、両図とも滑走路の向きもほぼ同じで、北西-南東方向を示している点。これは当地に広がる水田の地割がそれを今なおかつての滑走路の走向を反映していることから容易に判断できます。 そして、最後に、外郭の西端を「本部などの建物が集中していた区域」と明示している点。当ブログでは外郭西端に現存する格納庫の基礎部分を写真で紹介させて頂いております(風化させてはいけない陸軍前橋飛行場の記憶(2/4))。でも、「本部などの建物が集中」していたと断じる、そのソースはいったい何でしょうか?  最後に、前橋飛行場の案内板や記念碑の建立地の位置をしつこく再提案させて頂きます。それは「引間」の交差点からイオンモール高崎の南側に延びる新道の路傍で、なおかつ滑走路跡の北端付近。読者の皆さんをどう思われますか? いずれにせよ、前橋飛行場の記憶を風化させてはいけません  なお、当ブログはアメブロ以外の各種ブログランキングにも奮って参戦中です。今回の記事をお気に召された御方は、お手数ですが、以下のバナーをそれぞれクリックしてください。ブログ運営の活力とさせて頂きますので、ぜひご支援の程よろしくお願いしますm(_ _)m     白髪磨人  +*+*+*+*+*+*+*+*+*++*+*+*+*+ 今回は以上です。ご訪問頂き、ありがとうございました。  これからも当ブログにおいて、不定期ながら陸軍前橋飛行場を取り上げて参ります。よろしくお願いします<(_ _)>

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